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素人だから言えることもある

イチローと「希望学」

WBCの経験がイチローを強くした

 イチローが史上初の9年連続200本安打の記録を達成した。いつも、淡々と、バッターボックスに立つイチローだが、試合後のインタビューでこんなことを語ったという。
 新しい境地で大リーグの頂点に立った。3月のWBCでは、不振を極め、経験のない恐怖に襲われたという。準決勝までの打率は・211。心が折れかかるほどのスランプに陥った。
 しかし、韓国と五たび相まみえた決勝戦の延長十回、日本の連覇を決定づける中前適時打を放つ。極限状態の中で期待に応えたイチローは「一つ壁を超えられた気がする」と振り返った。この経験で怖いものはなくなったという
 例年はシーズン200安打が近づくにつれ、重圧から激しい動悸(どうき)や目まいに見舞われてきた。新記録を目指した今季は、より大きな負荷がかかっても不思議ではなかったが、「楽しくはないけど、気持ちよかった」と懐深く受け止めた。米国での9シーズン目で初めて2試合連続無安打がないまま、節目の200安打に到達した。幾多の積み重ねで真の強さを手に入れた。
 「今のぼくはそういう圧力によってパフォーマンスが変わるとは考えていない。そういう自分というのは少なくとも、現状では過去のものだと思っている」。苦しむことなくメジャー通算2千安打を達成した際、さらりと言い切った。(【イチロー9×200】真の強さを身につけたイチロー 新境地で大リーグの頂点に)
 いつもは、200本達成の直前は、動悸や目まいに見舞われたきたイチローが、WBCの経験によって、ひとつ壁を乗り越え、何も怖いものはなくなったという。そこで、「イチローと一郎、その発言の重さと軽さ」で引用した言葉を再録してみる。
 ◇イチロー選手の談話
 ありがとうございます。いやーもう、苦しいところから始まって、苦しさからつらさになって、つらさを超えたら心の痛みになった。最後は笑顔になれた。最後の打席では神が降りてきましたね。自分(の心の中)で実況しながら打席に入った。一つ壁を越えた。
 (「今大会は山あり谷ありでしたが」と質問され)谷しかなかった。最後に山が来ました。これからシャンパンファイト、思いっきり浴びてきます
。(毎日新聞 WBC:イチロー「最後に神が降りた」)
 このつらさを乗り越えたら心の痛みになり、神が降りてきて、笑顔になったという感覚。これは、イチローに希望が見えてきたということなのだろう。そして、この経験は、毎年の200本安打よりも強烈な自信を生み出したのだ。

希望を科学する

 人間には、人生のある過程の中で何度か絶望に打ちのめされ、また何度か希望を見出していくものだ。この9月14日、NHK「クローズアップ現代」で「“希望”を科学する」という番組が放送された。
希望学という新しい学問が注目を集めている。東大の社会科学研究所を中心に、経済学、歴史学など40人をこえる研究者が参加、大規模な調査などを行い、「希望とは何か」を科学的に読み解こうという一大プロジェクトだ。プロジェクトが注目したのが岩手県釜石市。かつては「製鉄の町」として栄えた企業城下町だったが、今から20年前、製鉄業の規模縮小という危機を経験した町だ。希望学では、この釜石を日本の未来像と位置づけ、大規模な現地調査を行ってきた。希望学の4年にわたる研究から浮かび上がってきた「希望」再生のヒントとは。(クローズアップ現代より)
 番組では、東京大学社会科学研究所教授の玄田有史氏とのインタビューによって進められた。そこで、この「希望学」HPから「希望学とは」の一部を引用してみる。
 「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
 ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
 村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。(希望学とは)
 玄田教授は、「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」の例をこんなエピソードで語った。「ある会社で何人雇っても、すぐ辞めてしまう」その理由は、2つある。ひとつは、「いくら仕事をしても仕事が終わらない。先が見えないから辞める」、もうひとつは、「この調子じゃ先が見えてるから辞める」というものだ。先が見えていても、見えていなくても辞めてしまう。どちらにしても、現状のままだと変革されない。変革することで、ようやく見えてくるものが「希望」なのだという。漫然と待っているだけでは、「希望」は現れない。「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」があって、初めて「希望」が生まれる。

 また、玄田教授は、徹底したデータ分析からひとつの成果が得られたという。

定性分析からもいくつかの事実が見出された。過去に挫折や失望を乗り越えた経験が、将来に希望を持つ傾向を促す「挫折による学習効果」。無駄を一切排除する志向性が未来への創造性や柔軟性をも奪ってしまう、希望に対する「負の効率効果」。(希望学とは)
 前者がイチローの学んだ「挫折による学習効果」であり、後者が多くの者が陥りやすい「成功体験」の過剰信仰というものであろう。

豊かさと希望

 なお、『希望の国のエクソダス』の「この国には希望だけがない」というタイトルでエントリーを書いた。村上龍氏の『希望の国のエクソダス』では、その言葉の後にこんなせりふが続く。
「なぜここに君がいるんだ?」
「この先の谷には数万発の地雷が埋まっていて、誰かが除去する必要がある、われわれの部族はそれをやっている」
「日本が恋しくはないか?」
「日本のことはもう忘れた」
「忘れた? どうして?」
「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」
「この土地には何があるんだ?」
すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」(「希望の国のエクソダス」村上龍著/文藝春秋)
 この最後のせりふは、物質的な豊かさと希望が何の関連もないことを意味している。この豊かさと希望の関係について、玄田教授は、福井県に着目しているという。

本年度からは本県を舞台に、4年計画で現場調査、研究に取り組む。県民の生活満足度が高く、小中学生の学力、体力とも全国トップクラスの本県では、一方で将来に希望を持たない子どもが多いとの統計もある。その原因に迫る研究は県民ならずとも興味を引くことだろう。(福井新聞 論説〜希望の喪失と怯え 経済成長は不可欠なのか2009年8月23日)

 ところで、村上龍氏は「希望学」の著書にこんな推薦文を書いている。
かつて希望は、焼け跡にまかれた種子のようなものだった。
多くの人がその果実を味わうことができた。今は違う。
希望の芽を育むためには、個人と社会、それぞれの戦略が必要だ。
この本はそのための果敢な挑戦の書である。 (村上龍氏 推薦
 戦後の焼け野原だった頃、日本人の希望は、ただ、より豊かな生活を目指して一列に並んでいた。60年たった現在、希望は大変個人的な問題になってしまった。だが、希望を持てない人が大多数になってしまった現在、イチローは特殊だからといって、挑戦する気概をなくしてしまっては、「希望」など生まれるはずもない。「希望」は個人的なものだが、その「希望」すら持てない社会では、その国は既に崩壊していると言われても仕方がない
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