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素人だから言えることもある

「先のことが考えられない人間」は希望のない人のことだった

希望学」の一節から

 「イチローと「希望学」」で、たまたま、東京大学社会科学研究所教授の玄田有史氏の「希望学」を引用した。
 「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
 ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
 村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。(希望学とは)
 僕は、なぜか似たような文章を書いたことを思い出した。それは1年前に書いた、「先のことを考えられない人たち」というエントリーだった。
考える人とは、空間的に全体を客観的に捉え、時間的にも将来への展望を持ち、それに沿った行動に責任を取る。ところが、考えない人はいずれもが欠けている。(先のことを考えられない人たち)
 そして、それぞれ(1)自分勝手の論理(客観性の喪失)(2)明日のことを考えない(展望の喪失)(3)自分が何をしなければならないのかを考えない(責任の喪失)の3点を取り上げた。この客観性、展望、責任を、玄田教授の「具体」「行動」「実現」「願望」に言い換えても、十分に話が通る。つまり、「先のことを考えられない人間」とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」が欠けている。と。ただ、僕の条件は「いずれもが欠けている」であって、玄田教授の条件は「いずれかが欠けている」という点で違いがあるが。

変革が起きたときに生まれる分岐点

 玄田教授は、「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」と言っている。今の状態を、いつまでも維持したいと思うのは人間なら当たり前だが、特に「先のことを考えられない人間」には顕著だ。目の前の欲得だけしか見えないため、変革が起きたときにおたおたする。僕は、この典型が「官僚主義」、そして現代日本社会だと思っている。
 「マスコミと官僚、そして日本社会」で、
 官僚は手続きによって仕事を続けている。人の常として、何が正しいかよりも、何が自らの省庁にとって利益かを重視し、何が成果をもたらすかよりも何が行政上都合がよいかを重視する。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)(福祉国家の失敗〜40年前の「断絶の時代」を読む(3)

 ドラッカーは、官僚主義を打破するために再民間化を提案した。だが、マスコミすら官僚主義に成り下がっている。普通の会社だって、(マスコミと官僚、そして日本社会)

 この生産性を上げるための企業ではなく、会社に長時間いてそれなりの収入を上げればよい会社、いわば過去の栄光にすがりつくために、ひたすら上司の顔色をうかがう会社が存続しているのは、人間の可能性を食いつぶしているに過ぎない
 このような状態では、社員のやる気を削ぎ、無責任で考えない人間が増殖すること請け合いである。だが、おそらく、このような状態は、日本では何年も続いていたのだろう。このような企業の実態が家庭や社会から隔絶されていたために、あまり明るみに出なかったに違いない。(なぜ、考えない人間が増えてきたのか

 この官僚主義があらゆる企業に蔓延している日本で、大変革が起こりつつある。ある者は、「先のことを考えられない人間」ゆえに、長時間労働をいとわずに、会社にしがみつき、ある者は希望を求めて、会社を離れようとする。その希望が、本当に「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」により、達成することができれば幸いであるが。


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