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素人だから言えることもある

言語力低下とおタクと「コミュニケーション不全症候群」

クローズアップ現代「言語力が危ない」

 11月25日のNHKクローズアップ現代を見た。テーマは、「言語力」。解説にこうある。
“言語力”が危ない〜衰える 話す書く力〜

10月下旬、「言語力検定」がスタートした。言語力とは論理的にモノを考え、表現する力を指し、その低下が2000年以降進んできた、国際学力調査"PISA"での成績下落の一因と見られている。進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」などの事態が相次ぎ教師たちは危機感を強めている。また、言葉の引き出しが極端に少なく、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている。背景には、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されている。子どもたちの「言語力」低下の実態を見つめ、育成のあり方を考える。

 後半では、サッカー選手が登場し、選手同士のコミュニケーション能力が落ちているという話題になった。確かに携帯メールも一つの原因だろうが、そもそも文章力がないということは、日頃から漫画は読むが本を読まず、ちゃんとした家族間の会話もないのだろう。しかし、コミュニケーション能力がなくなりつつあるということは、日本人全体の劣化を示している。そういえば、18年前に作家の中島梓氏が、「コミュニケーション不全症候群」という本を書いているのを思い出した。

「コミュニケーション不全症候群」

 1991年の作品で、対象はいわゆるアニメ・ゲーム・マンガなどのおタク、拒食症、過食症を総称したダイエット症候群、そして彼女が中心となったJUNEの少年小説・漫画の女の子のファンなどである。そのような一団の特徴を中島氏はこういう。
 コミュニケーション不全症候群、とここでは仮に私は名付けてみたが、それは決して特殊な精神的症状のことではなくて、むしろ現代にきわめて特徴的な精神状況のことである、とはあらかじめいっておかなくてはならない。それは端的にいうと、

一、他人のことが考えられない、つまり想像力の欠如。

二、知り合いになるとそれが全く変わってしまう。つまり自分の視野に入ってくる人間しか「人間」として認められない。

三、さまざまな不適応の形があるが、基本的にそれはすべて人間関係に対する適応過剰ないし適応不能、つまり岸田秀のいうところの対人知覚障害として発現する

—といった特徴がある。それは必ずしも精神病の範疇に入るほどれっきとした病態を示すわけではなく、むしろ程度の問題だけで、「あなたも私も病気」とでもいった状態を呈するのである。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)

 しかも、おタクは、人間を仲間と非・仲間に分けるのではなく、人間と非・人間を分けるという。
「おタク」の亜種たちは、これまでの長い人間の歴史の中で、ありとあらゆるバリエーションとスケールで繰り返されてきたように、人間を自分の仲間と、非・仲間の二種に分類し、出会う人間をそのどちらかにたえず移行させるという、社会的生物存在としての人間の本性による行動を取らないのである!

 —どうするのか、というと、彼らは人間を仲間と非・仲間に分ける代わりに、「仲間である非・人間」と、「仲間でない人間」とに分けてしまう


 つまり彼らは、人間でないもの、モノ、創作物、フィクションの登場人物、機械、数式、人工頭脳、ゲーム、それらに自分の自我の根拠を求め、自分の場所を作り、共感と共鳴と共同幻想の共有を求めてゆく。かれらにとって、人間よりモノ、機械のほうがはるかに大切な「友達」であり、機械との親密な融合をこばんだり、さまたげる人間はすべて「敵」でしかないだろう。実際にはまだそれが社会全般にしれわたり、問題化するほどは一般化していないから、一部の専門家の中で論議の対象になっているにすぎないが、いずれはそれは社会全体にとってのとてつもない巨大な問題となるだろう。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)

 そして、おタクたちは、現実の人間との関係がわずらしくなる。
また、コンピュータ技術者で、性的不能に悩まされる者が多く、ことにハネムーン・インポテンツ症候群とでもいうべきものが急増しているのだそうである。いや、悩まされる、というのは正確ではない。彼らはちっとも悩まないのだと言う。むしろ、現実の女性はうっとうしい。わずらわしい。面倒臭い。甚だしきは汚い、といって、新婚旅行からかえってすぐに離婚するということになり、そのままもう結婚生活を断念してしまうというタイプのものがことにコンピュータ関係のエリートに多く、つまり結局彼らは人間関係に耐えられないのだという。

 機械はなにもかも自分の意のままに反応してくれるし、自分を受け入れてくれる。また機械の論理はきっぱりと割り切れて必ず正解があるが、人間関係にはそれがない。これらのおタク青年たちはその「正解のない」状態、「理屈で割り切れない」状態に耐え切れないのである、という。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)

 この機械をケータイのメールと考えれば、メールで馴れた言葉使いが、使う人間の考え方に影響を与えてしまっていると思われても仕方がない。

一・五の時代とコミュニケーションの復活

 このように、「言語力低下」とおタク世代が見事にオーバーラップしてくる。最後の、機械と人間の関係で思い出すのは、精神科の小此木啓吾氏の「一・五の時代」の考え方だ。
 たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています。


 「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。

 それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス

 わずらわしい人間対人間の二・〇の関係より、自分のいうことを聞いてくれる一・五の機械対人間のほうが、おタクにとって都合がよいというわけである。ところで、「コミュニケーション不全症候群」で、中島氏は、こうすればコミュニケーションは復活すると語っている。
 自分の苦しみから逃れようとするすべての空しい努力がコミュニケーション不全症候群を引き起こすのである。彼らは自分が苦しんでいないと感じるために他の人間に自分の重荷を背負わせようとしたり、また責任転嫁して自分の苦痛は他の人間のせいだと感じたり、あるいは他の人間を苦しめることで安心しようとしたりするからだ。だから問題の根源は苦しむことを認めることにある。それはそんなに恐ろしいものではないし必ず乗り越えることが出来る——と、私はここで保証しよう。これまで自分の作ってきたゆがんだ殻や適応の異常なかたちを捨て、そこから出ることは誰にでも恐ろしいものである。だがそれはやっぱり何もそういう足かせをもっていない状態の自由さと楽さと快適さに比べたらまったくむなしい恐怖でしかないのだ。

 大切なのは勇気だけである——コミュニケーション不全症候群のための処方箋はただそれだけだ。自分を直視すること、自分の苦しみを認識すること。そしてそうするだけの勇気を持ち続けることである。我々がどうやら二十一世紀を迎えることができるためには、我々はただ、ほんのちょっとだけ勇気があればいいのである。(中島梓著「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房)

 中島氏は、本文の最後の文章をこう締めている。しかし、二十一世紀を迎えても、ますます「コミュニケーション不全症候群」は、新型インフルエンザよりもましてパンデミック状態である。やはり、私たちは、この「ほんのちょっとだけ勇気」が足りないのかもしれない。
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