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素人だから言えることもある

任天堂とソニーの15年戦争(ホームサーバの戦い・第41章)

因果はめぐるゲーム機の歴史

 前項「ハリー・ポッターがWiiとPS3で配信された日(ホームサーバの戦い・第40章) 」で、12月2日、同時に映画配信をすることを伝えた。そして、画質についても、携帯機への転送の仕方についても、ソニー側が本格的にネット配信に力を入れているのに、任天堂側はWiiのおまけ程度としか思えない対応の違いの理由は何だろうか。12月3日はプレイステーションが生まれて15年目である。この両者の考え方の違いをさぐってみた。

 そこで、たびたび引用する「任天堂“驚き”を生む方程式」(井上理著/日本経済新聞出版社) と、「美学vs.実利「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」(西田宗千佳著/講談社BIZ) の2冊から探してみたい。(なお、マイクロソフトについては、「Xbox vs PS2(ホームサーバの戦い・第8章) 」参照)

 「久夛良木氏のPS戦略(ホームサーバの戦い・第11章) 」では、すでにPSBB(ブロードバンド)ネット配信の構築をしようという岡本伸一氏の話に触れている。

「本当は、もうネットワークの時代にしてしまいたいと思ったんです。ゲームも、できればディスク配布からネット配信にしたかった。プロバイダー経由での販売という形で、PS2のビジネスモデルを変えてしまおうという意図があったのですが…」(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)
 そもそも久夛良木氏が、このようなエンターテイメント・コンピュータを夢見ていたのは、プレイステーション開発のきっかけとなったスーパーファミコンのCD-ROM機の時の1989年からだった。
 任天堂×ソニーのタッグで開発されていた「プレイステーション」は、簡単にいえば、スーパーファミコンにCD-ROMドライブを接続したものだ。当時、すでにCDは音楽メディアとしてはレコードを駆逐していたが、データ記録用メディアのCD-ROMとしてはまだまだ発展途上であった。NECホームエレクトロニクスがゲーム機に採用していたものの、パソコンなどでの利用は進んでいなかった。

(中略)

 その頃から、久夛良木は、映像や音、テキストなどすべてのデータを処理できる「エンターテイメント・コンピュータ」の可能性を夢みていた。コンピュータが進化していけば、文字だけでなく、音声・映像を扱うようになるということは、コンピュータを扱うエンジニアにとって、自明のことであった。だが、当時のパソコンの性能では、久夛良木が望むようなコンピュータの役割を果たすことは難しかった。パソコンに期待できない以上、もっとも可能性の高いジャンルはどこか……。

 久夛良木が目をつけていたのはゲーム機であった。ゲーム機とパソコンは違うもののように思えるが、マクロ的な視点に立てば、どちらもコンピュータであることに違いはない。ゲーム機は映像表示に関してはパソコンよりも高い性能をすでに持っていた。そして何よりも大きな理由は、ゲーム機がすでにリビングに「あった」ことだ。スーパーファミコン時代となり、テレビの周辺にゲーム機がある家庭が珍しくなくなっていた。こうした環境は「久夛良木にとってのコンピュータ」がまさに狙うところにあったからである。(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)

 しかし、一方的にオランダのフィリップスとの提携が発表され、任天堂とソニーの契約は反故にされてしまう。そしてその提携も破談に。理由は明らかにされず、当時の山内社長に直談判したところ、
ゲームビジネスは簡単なものではない。ソニーさんが手がけるなら、別のジャンルにすべきではないか」(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ
 この任天堂への怒りが当時のソニー大賀典雄社長を怒らせた。
実現できるかどうか、証明してみろ!Do it!」。(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)
 面白いのは、その後、ビル・ゲイツを怒らせ、Xboxを作らせたのが、ソニーの出井CEOだったことだ
 しかし、ゲイツはあきらめなかった。彼は1999年にプレイステーション2(PS2)が発表されるよりずっと前に、ソニーのCEO出井伸之に、マイクロソフトのプログラミングツールを使ってほしいと持ちかけている。次に出るPS2用のゲームを作るのがこれで楽になると主張したが、出井は断った。出井によれば、ほかの分野でもマイクロソフトの提案を退けたので、ゲイツはかんかんになったそうだ。自分の返事をゲイツがあまりにも個人的に受け止めたことに、出井は驚いた。世界的企業のCEOであれば、同業者が市場によってはライバルにも盟友にもなりうることを、普通は理解しているはずだからだ。「マイクロソフトと組めば、「オープンアーキテクチャ、イコール、マイクロソフトアーキテクチャですからね」と出井は、『ニューヨーカー』のケン・オーレッタとのインタビューで述べている。

 失敗に終わったソニーとの交渉の場から戻ってくると、ゲイツは部下に言った。ソニーはマイクロソフトと競いたがっている。PS2は、単なるテレビ用のセットトップボックスやゲーム機の枠に収まらないだろう。PCにとって脅威になるのは間違いない。ゲイツの口ぶりから、マイクロソフトの幹部たちは、交渉がなごやかに進んだものと勘違いした。実際、出井が受けたい印象は正反対だったのだが。(ディーン タカハシ著/元麻布 春男監修/永井 喜久子訳「マイクロソフトの蹉跌—プロジェクトXboxの真実」ソフトバンク) (Xbox vs PS2(ホームサーバの戦い・第8章) )

 任天堂が、ソニーを拒否したのも任天堂の立場を脅かしかねないからと西田氏はこう書いている。
 ゲームの可能性が広がるという意味で、任天堂スーパーファミコン用CD-ROMドライブを搭載した「スーパーファミコン版プレイステーション」をソニーが市場に投入することからは、“別な意味”が生じてくる。スーパーファミコンのプラットフォームのうまみを、ゲーム機会社としてソニーと共有しなければならないことになるのだ。とらえ方によっては、スーパーファミコン市場でのコンペティター(競合)となるのである。ソニーの総合力をもってすれば、逆転現象もおきかねない。頂点を迎えつつあったスーパーファミコンで、みすみす利益を分け与える道理が任天堂にはまったくなかった。(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ
 実力があれば、どんな立場であっても、伸びていくものだろう。相手は、その危険性を知っているからこそ断るのである。

久夛良木氏や岩田氏のゲームに対する考え方

 ともかく、久夛良木氏は、立場立場によって、「ゲーム機」と「エンターテイメント・コンピュータ」と表現を変えてはいるが、本音は、「PS3のCellが、なぜ日本のスパコンにならないか理由を調べてみた」で引用した
これまでの常識を塗り替えるコンピュータ」(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)
というのが正しいのではないか。携帯機との関係も、アカウント管理を採用したのも、久夛良木氏は、考え付くことはすべて盛り込んだのではないだろうか。後を継いだ、平井一夫氏は、
「BDの再生機能やネットワーク機能をおろそかするつもりはないんです。それらも総合的に判断し、PS3の価値を知っていただきたい。
 とはいえ、最初からその話ばかりをしますと、ユーザーのみなさんには、『PS3がなんなのかさっぱりわからない』ものになり、食指が動かないということになってしまいます。ですから、今のうちのマーケティングとしてはゲームに振るっているんです」(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)
 さて、久夛良木氏は、PS3を何千億円もかけて自分の夢に描いたコンピュータにした。任天堂の岩田社長は、それに比べてすごく冷めている。
Wiiチャンネルで稼ぎます。新しい収益源ですと言っても、それはまだ『取らぬ狸の皮算用』だと思いますし、そのために作ったのではない。結果的にゲーム以外の何かが稼げる日が来るかもしれません、という程度なんです」

 あくまでWiiチャンネルは、どうしたら家族全員に関係があるようになるのか、どうしたら毎日電源を入れてもらえるのかを考え、それを手段として作ったもの。収益機会としての模索は、二の次だと、岩田は言うのだ。

何か世の中のネットビジネスって、ものすごく空想で成り立っていて、夢を語ることが先行しすぎていると僕らは思っている。例えば、実はこのページは毎日、3000万人が見ているという実績ができたら、それをどう利用すればいいか、後から考えればいいんですよ」
(井上理著「任天堂“驚き”を生む方程式」日本経済新聞出版社)

 すべてゲームを中心に考えていて、映画配信もWiiを起動させるための手段という考え方らしい。
私たちは国内で2200万台のDSを販売させていただくことはできましたが、何が一番恐ろしいかと言いますと、DSが押入れの中にしまわれてまったく触れられなくなることです

 売れたはいいが、そのうち飽きられ、忘れ去られてしまうことが、任天堂にとって何より痛いし怖い。そこで考えたのが、「DS持ってて良かった」作戦である。

 様々な場所でDSを持っていると便利だったり、お得だったりするシーンを作り出せば、人々は常に携帯してくれるようになる。そうなれば、DS市場は廃れることなく、活気を維持することができるという算段だ。

 しかも任天堂は、あくまでも最初のショーケースを示すだけであり、情報端末としての活用には注力する気はないという。

「別に全部任天堂がやる必要はないんですよ。このハードはこう使うと面白いんですよという幾つかの例を、まず最初に具体的に示すことが、任天堂のソフト部隊の重要な仕事。皆さんに、なるほどねと言っていただける例ができたら、たくさんの(ソフトメーカーや公共エリアや商業施設などの)一人が、じゃあこう使ってみようとなって、本当にインフラとして使っていただけるようになるのかなと」(井上理著「任天堂“驚き”を生む方程式」日本経済新聞出版社)

ハード体質とソフト体質

 山内元社長の言葉がある。
 なぜ山内は岩田を指名したのか。直感と言ってしまえば、それまでだが、どうしても本人に聞いてみたいことの1つだった。山内の答えは、こうだ。

「いったい何を基準にして任天堂に必要な人を選ぶのかと言えば、果たしてその人が『ソフト体質』を持っているか否か。実際に接してみると、この人はハードの人、この人は体質的にソフトに順応できる人というのがわかってくるんですよ。僕自身がソフト体質の経営者だから、そういうことがわかるんじゃなかろうかと自分では思っているわけです」(井上理著「任天堂“驚き”を生む方程式」日本経済新聞出版社)

 山内氏は、モノ作りは、より良いモノを安く作るのが至上命題だから、ハード産業であり、娯楽産業はソフト産業だという。
 ファミコンの発売時は、ソフトの扱いや流通の仕組みに気を遣った。外部のソフトメーカーが開発したゲームであっても、ソフトのカートリッジはすべて任天堂が受託生産するという仕組みを導入。ソフトを発売するか否かの判断も含めて、ソフトに関する権限も掌握した。

 ファミコンというハードの販売ではなく、その上で稼動するソフトの販売こそがビジネスの中核だと考えたからである。この仕組みはソフトの粗製乱造を防ぎ、面白さや質を維持した。


 だが半面、ソフト体質を発揮できず、ハード体質が表に出てしまった時、任天堂という会社は悪化する。スーパーコンピュータ並みの性能を優先させ、ソフト開発の難易度を上げてしまったロクヨンがその象徴だ

 山内はこう反省する。

社員にはハード体質の奴もたくさんいる。だからといって、社員を辞めさせるわけにはいかんでしょう。ファミコンの時は、たまたまソフト体質の人間に恵まれたけれども、次の段階では新しい開発者が出てきた。それが不幸にして、ソフト体質でなかった。だからロクヨンのようなものが作られたわけ。あの時、僕は不満やった。ロクヨンが出た時に『ダメだな、任天堂は』と思ったよ」

 決して、ゲーム機本体というハードの性能や技術を疎かにしているわけではない。ソフトの魅力は、どうしてもハード本体の性能や機能に依存する。あくまでも、ソフトを主軸に、ソフトを優先に物事を考える。それが、山内の言う、ソフト体質なのである。

「私たちのビジネスはソフトとハードが一体型のビジネスなんです。だからハードを知らずしてソフトを語ることはできない。知った上でどこに主眼を置くか、つまり、例えて言えば、ソニーはハードが主、ソフトが従、そういう路線です。任天堂はその逆でソフトが主、ハードが従、しかし、任天堂はハードをわかっている。それはこれからも変わらないと確信しています」(井上理著「任天堂“驚き”を生む方程式」日本経済新聞出版社)

 任天堂にとって、ソニーは水と油の関係なのかもしれない。久夛良木氏は、山内氏との直談判の後、出井氏にこんな事を言っている。
 「山内さんが話してくださった事を、全部書き留めておこう。ソニーは、その逆をやって、まったく新らしいゲームを作ればいいじゃないか」(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ)
 それでも、久夛良木氏が、衝撃を受けたのはDSの「脳トレ」大ヒットのときだった。
 脳トレの成功は、ニンテンドーDSの市場に新しい潮流を生み出した。純粋なゲームでなくても売れるということが証明された結果、市場には、様々な知育系ソフトが登場することになる。英語学習に「常識力」学習、料理レシピに美容ガイド、果ては塗り絵まで……。とてもゲーム機とは思えないほどのバリエーションだ。

 このことは、ニンテンドーDSが、ゲーム機から、「汎用小型コンピュータ」へと脱皮しはじめたことを示している。元々この方向性は、久夛良木を中心とするSCE技術陣が求めてやまないものだった。コンピュータとしての性能は、ニンテンドーDSよりPSPのほうが遥かに上である。しかし、PSPは高いAV機能を持ってはいてもそれは「おまけ」としてしか認識されず、携帯ゲーム機の枠を出ていない。それに対してニンテンドーDSは、任天堂という根っからの『ゲームメーカー』が、ゲームのために産んだハードウェアであったにもかかわらず、汎用コンピュータとしての道を歩みはじめていた。実に皮肉なことと言わざるを得ない。(西田 宗千佳著「美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史」講談社BIZ )

 ゲーム機から抜け出してエンタテイメントコンピュータに成りたい久夛良木氏、ゲーム機を忘れられないように一生懸命守っているうちにいつのまにかゲームの世界を飛び出してしまった岩田氏、この15年間はお互い思い通り行かないことの連続?
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