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素人だから言えることもある

テクノロジーの発達が人間を不幸にするとき


映画「サロゲート」から(ネタバレあり)


 前項「メイド・イン・ジャパンの命運」からでは、日本のお得意芸の「ものづくり」のシステムが海外に広まったために、高コスト社会の日本ではかえって不振に悩む現実を考えた。このように、テクノロジーの発達が、かえって人間の苦しみを産むという映画が「サロゲート」であった。


 近い未来、人々は、サロゲートと呼ばれる身代わりロボットが、仕事や日常活動を行い、本当の人間はベッドで横になりながらオペレーターとして、サロゲートを操作している。まるで、セカンドライフやオンラインゲームのアバターのように。どうしても、アバター「サロゲート」は、現実の人々より、美男美女であり、若々しい。「人は見た目が一番」とばかりに。


 映画「アバター」は、宇宙人とコンタクトを取るべく作られた特殊なアバターだったが、「サロゲート」は、まるで携帯電話を手放せないように、アバター「サロゲート」に依存している大勢の人たちだった。ジョナサン・モストウ監督は言う。



 それはデジタル時代に生きることのメタファーでもある。パソコンの前に座り、Eメールやチャット、ブログなんかを通して誰かと会話するとき、それは本当のコミュニケーションとは呼べない。人と人との間にテクノロジーの層が挟み込まれるわけだからね。(「サロゲート」パンフレットより)


 この人と人との間にテクノロジーの層が挟み込まれるというのは、日常よくあることだ。たとえば、友人と喫茶店に集まっても、お互いケータイの画面を見詰め合って、一言も会話がないとか。映画「サロゲート」の主人公も夫婦で、それぞれ別の部屋に閉じこもり、それぞれのサロゲートを操作している。仕事場の会話も、サロゲート同士の会話だ。なんだか、パソコンを通してのチャットみたいに。僕は、「メディアはなぜ孤立化を好むのか」で心理学者の小此木啓吾氏の言葉を引用した。



 小此木啓吾氏は「一・五の時代」と呼び、こんなことを言っている。


 たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています
 「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。
 それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス


 テクノロジーは人と人とを結びつける大切な道具である。ところが、それが逆に人と人との関係を阻害する。もちろん、使い方次第では、世界中から注目を浴びることも可能だ。だが、面と向かって話し合うことが苦手になる道具でもある。



 映画の中盤で自分のサロゲートを失った彼は、サロゲートの世界で生身の自分として生きる事を強いられる。それはまるで「電話もEメールもFAXも、ありとあらゆる電子機器を使うのをやめて100年前の生活に逆戻りしたら、どんな気持ちになって、自分の生活はどう変わるだろう?」と問いかけるようなものだ。そうした中で彼は、生活をより豊かで完璧で安全なものにしたはずのサロゲートというテクノロジーが、実際には人々を不幸にしているということに気づくんだ。(「サロゲート」パンフレットより)


 モストウ監督は、電子機器に溢れている未来に対して否定的だ。事実、主人公は、最後のシーンで、オペレーター(生身の人間)が死ぬことは防いだが、サロゲート(身代わりロボット)の停止を防ぐことには躊躇し、NOとした。監督は、サロゲートという電子機器で失った人間らしいコミュニケーションの復活を望んだのだ。


ロボットとコミュニケーション


 この映画のオープニングにワンカットだけ登場する大阪大学教授の石黒浩氏は、パンフレットにこう紹介されている。



 身代わりロボットは空想の産物ではなく、日本ではすでに始動している。ロボット工学の権威、石黒浩氏は自分とそっくりの遠隔操作型アンドロイド「ジェミノイド」を開発し、世界中の注目を集めた。その取材映像は本作品の冒頭にも流れている。(「サロゲート」パンフレットより)


 「ジェミノイド」とは、「双子」を意味する「ジェミニ」と、「〜のようなもの」を意味する「オイド」を合体させた造語である。さて、パンフレットには石黒教授のインタビューが載っていた。



 僕もモストウ監督と同感で、携帯電話の次にやってくるのはサロゲートみたいな身代わりロボットだと思います。メディアは電話に始まり、テレビが生まれてテレビ会議システムが開発され、どこへでも持ち運べる携帯電話へと進化した。次は何かと言えば、自分の存在を遠隔地に送れるロボットです。携帯電話はこれだけ世の中に普及しているから、バイブ機能や電子基盤など想像できないほどの多額の技術開発費が小さな機械の中に投資されている。ジェミノイドは車より部品が少ないから、マーケットさえあればあっという間に作れますよ。もし数千億の開発費があれば、機能は限定されるにしても、映画に登場するようなロボットを作るのは難しいことではないんです。
(中略)
 この映画では最終的にすべてのサロゲートがシャットダウンし、人間たちはロボット文明を捨てようとしますが、現実的にはおそらく無理ですね。進化した社会を簡単に捨てるなんてできないでしょ?しかもサロゲートが一大産業になっている以上、一人の人間がスイッチ一つで世の中全部を作り替えるなんて、セキュリティの点からも難しい。映画だからできたことでしょうね。(「サロゲート」パンフレットより)


 僕も、もし、このサロゲートが同時にパソコンの役割を果たしているとしたら、緊急停止は難しいし、たまたま映画では一つの会社が運営し、集中的に管理しているという条件だから可能なのだと思うが、それほど普及しているものが簡単に止まることは現実的にはありえないと思う。


 石黒氏はその著「ロボットとは何か 人の心を映す鏡」(講談社現代新書)でおもしろい設問をしている。それは、「ロボットは人間を支配しますか?」というものである。その答えは、NOでもあり、YESでもあるとして、



 同じことがコンピュータの世界にも言える。
 人間はコンピュータやインターネットを支配しているのだろうか?それとも支配されているのだろうか?
 パソコンはただの機械だから、簡単に電源を切ってしまうことができる。しかし、普段から仕事や個人的な対話でメールを頻繁に使っている人の場合、パソコンの電源を切って二、三日放っておくと、いつもメールを交換している相手は、どうして返事を返さないのかと疑い出す。そして、いつしか人間関係にまで影響が及ぶようになる。
 パソコンはすでに人間社会において重要なコミュニケーション手段となっており、その電源を切るということは、自らをその社会から隔離することになる。ゆえに、パソコンの電源は簡単に切れないのである。
 メールのやりとり程度ならまだましである。インターネットを通じてビジネスをしている人にとって、インターネットが使えないことや、インターネットを通じて間違った情報が流れることは、致命的な問題にまで発展する。
 たとえば、株のネット取引をしている人にとって、数字の入力ミスは、大きな財産を失い、失望のどん底に突き落とされ、ついには、自殺にまで追い込まれるかもしれないという危険性を秘めている。自分で入力ミスをせずとも、誰かから流された間違った情報で、同様に危険な状態に追い込まれることもある。
 インターネットは、すでに深く人間社会に入り込み、人間の命さえ左右するようになっているのである。そのように考えれば、我々はパソコンに支配されている
 むろん、このようにパソコンが人間を支配できるのは、その背後に人間がいるからである。人間がパソコンを使わなければ、パソコンやインターネットが人間を支配することはない。ただ問題なのは、社会に不可欠な道具となったパソコンは、個人の都合で電源を切ることもできなくなっているということである。人間が使う道具が、社会に埋め込まれることによって、人間個人では自由にできないものになってしまっている。(石黒浩著「ロボットとは何か—人の心を映す鏡」講談社現代新書)


 石黒氏は、そんな危険性のあるパソコンやインターネットを平気で使うようになったのは「個人のエゴ」があるからだという。



 たとえばクレジットカードを考えてみよう。最初のうち、日本人はなかなか受け入れなかった。それは、取引の相手を完全に信用できないと思われたからである。
 電話や携帯電話も同じだ。普及し始めた頃は、電話が中継局で盗聴されるかもしれないとか、携帯電話の電波が途中でだれかに受け取られて盗聴されないかなどと心配した人も多いだろう。しかし、電話や携帯電話をみんなが使い出し、それがないと社会生活も営めないようになると、盗聴されてプライバシーが侵されるという懸念はすっかり忘れて、逆に使わない人を変な人だと思うようになる。(石黒浩著「ロボットとは何か—人の心を映す鏡」講談社現代新書)


 さらに、石黒氏は、この情報機器の発達で人は人の事をあまり考えなくなる側面もあるという。



 電話のない時代には、手紙をやりとりした。手紙のやりとりには時間がかかるので、その分、いろいろと相手のことを思い、想像して、手紙を書いた。それが電話ですぐにつながることができると、相手のことを深く考える前に、話ができてしまう。携帯電話にいたっては、気になったときにすぐ相手とつながることができるため、相手のことを考える時間はほとんどなくなった
 すなわち、技術の発展に伴い、人間は他の人間のことを深く想像することなく、単なる情報交換ばかりをするようになってきている。言い換えれば、人間は、ずいぶんと身勝手になって、単に通信するだけのような機械になりつつある気さえする。
 ゆえに、新しい技術や情報機器を受け入れるためには、人間そのものがより賢くならなければならない。哲学を持たなければならないと思う。
 ロボットを作ることは、人間とは何かを知ることだ。先に、「人間はすべての能力を機械に置き換えながら、その後に何が残るかを見ようとしている」という話をした。これはまさに哲学であるが、そのような哲学を持たずに、単に便利だからその道具を使うという事をすれば、人間は逆に機械のようになっていくと思う。技術が進歩すればするほど、人間そのものに対する深い興味と洞察が必要になってくる。(石黒浩著「ロボットとは何か—人の心を映す鏡」講談社現代新書)


 ロボット研究者の深い洞察である。人間がロボットに支配される社会は、人間は機械と同じということになる。ロボットが優れていれば優れているほど、使う人間の度量が試される。僕は、石黒氏の次の言葉が気になった。



 要するに、ロボットは多くの家電製品と似たような仕組みである。特に重要なのは、スイッチを切れば停止してしまうということである。もし停止させることができないとするなら、それは二つの原因が考えられる。一つはそのアンドロイドが人間らしいがゆえに、停止することをためらうというもので、もう一つは、そのシステムが複雑で日常生活に必要不可欠なものとして組み込まれているために、停止ができないというものである
 言いたいことは、ロボットそのものは単純であり、ロボットを特別なものとして恐れる必要はまったくないということだ。パソコン同様に、簡単にスイッチを切ることができる。しかし、パソコン同様に、スイッチを切ってしまうと、社会的な関係まで失う可能性があるということである。
 ロボット自体が特別なわけではない。問題があるとすれば、人と人をつなぐ技術を受け入れ、それらに頼る人間の側にある。しかし、分かりにくい原因を理解することは難しい。ゆえに、分かりやすいものに、その原因を求めてしまうのである。(石黒浩著「ロボットとは何か—人の心を映す鏡」講談社現代新書)


 ここにモストウ監督と石黒氏の考えの違いがあった。主人公は、物語途中で自分のサロゲートを破壊されてしまう。おそらく、町中の人々は、サロゲートを自分の分身として愛情を持っていたと思う。主人公が、自分のサロゲートを破壊されていなかった場合、シャットダウンまでの決心をするとは思えない。なぜなら、責任はあくまでも人間の方にあるのだから。


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