夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

対話なき日本に未来はあるか

対話が消えつつある現代

 最近のエントリー、誰も小沢さんがわからない映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション私たちの心の中に潜む「小沢一郎」的部分など、くしくも対話とコミュニケーションの話に集中した。

 僕が小沢氏の言動に着目したのは、民主党の中で小沢氏に対する評判が伝わってこないことだ。確かに、衆議院選での小沢氏の行動はすごかった。だが、そのことで返って小沢氏を恐れてものが言えないとしたら、これは他の民主党員と対等に対話ができない事を意味するのである。そして、それはまた現代社会の特徴ではないのだろうか。

 例えば、

うつ病の増加は「IT業界から始まった」とも言われているのをご存じでしょうか。実はITエンジニアは,他の職種以上にうつ病になりやすい要因を数多く抱えています。次の条件のなかに,あなたの職場やあなた自身が該当するものはありませんか。

1. 慢性的な人員不足,膨大なメールのやり取りなどで,長期間にわたって昼夜を問わず激務を強いられる
2. プロジェクトごと/開発フェーズごとのメンバー入れ替えや客先常駐などによって周囲とのコミュニケーションが希薄になりがちで,気軽に相談できる相手がいない
3. 技術革新が激しく,将来に関して漠然とした不安を覚える

 どれも一般的なIT企業やITエンジニアによく見受けられることばかりですが,これらは慢性的に強いストレスを生み出し,うつ病のリスクを高める要因になります。IT業界で働く限り,うつ病は決して他人事ではないのです。(第1回 うつ病の増加は,IT業界から始まった)

 このような、誰にも相談できず、不満や不安を抱えて長時間働きづめになる。というケースはどこの業界でも日常化している。特に、派遣切りが多発した最近では、家族を抱えるために正社員職にしがみつかなければならない。僕は、「腐った饅頭は捨てるだけでよいのか?」でこう書いている。
 今、日本中の社会でモラルの低下が叫ばれている。あちこちで腐った饅頭がこっそりと捨てられている。だが、腐った饅頭を生み出した構造に目を向けなければ、この国はどんどん体力を失わせているのと同じではないのか

 会社を人間の体にたとえれば、腐った饅頭は動脈硬化と同じだ。体のあちこちに動脈硬化ができて現場に血が通わなくなっている。現場に使い捨ての非正規社員を当て、管理職にのみ肥え太った会社ではいつ脳出血で倒れてもおかしくない。現場にこそ、力を注がなくてはならないのだ。そうでなければ、その会社自身が腐った饅頭となって捨てられるのが落ちである。

 この血が通わないというは、結局、対話ができないという事である。対話をするためには対等な関係が必要となる。映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーションで引用した山田洋次監督の「対等に話し合える知性的に結ばれた間柄」(「おとうと」パンフレットより)ということである。
 吟子と小春の親子は、単に血がつながっているというだけじゃなくて、対等に話し合える知性的に結ばれた間柄だと思います。何が正しくて何が間違っているか。きちんとお互いの価値観を定義でき、近代人としてのつながりを持っている。(「おとうと」パンフレットより)
 この対話は、決して上司が命令するという上下関係のものではない。あくまでも対等であり、本音を語ることができる気の許せる友人という関係だ。

子どももその犠牲に

 ところが、現代では、それが崩壊しつつある。例えば、教師の世界でもそうだ。
 教師生活9年目という教諭によれば、
 「今の先生に求められているのは、間違いを起こさないこと。間違いを起こさない無難な教師がいちばん良い。問題を起こさないように、職員室でも監視されているんです。おまけに職員室の話題と言ったらカリキュラムや行事のことばかり。生徒のことすら話さない。『子どもが学校に行きたがらない』と保護者が相談に来たときも、他の先生に授業中の様子を聞こうと思って教科担当の先生に聞いてみても、まるでみんな他人事。自分を巻き込まないでくれ、という感じで、誰も協力してくれません」(モンスター化した大人が破壊する、子どもたちの大切な“もの” )
 教師が孤立しているので、その教師に教わる子どもは不幸である。子どもは親の鏡というが、親の一番醜い部分が現れるのも子どもである。年中、夫婦喧嘩をしている親の子どもは、簡単に切れやすくなる。「言語力低下とおタクと「コミュニケーション不全症候群」で「言語力」問題を取り上げた。
進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」などの事態が相次ぎ教師たちは危機感を強めている。また、言葉の引き出しが極端に少なく、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている。(クローズアップ現代 “言語力”が危ない〜衰える 話す書く力〜)
 一事が万事である。親は家族のために一生懸命長時間働いているのに、家族とは対話もなく、職場でも対話ができない。子どもはその影響で、豊かな対話をするための言語力が身につかない「助けて」と言えない理由でも、
もちろん、現実問題、できない夫婦もあるだろう。だが、その夫婦の子はどうなるのか。少なくとも、人間的なつながりの温かさを知らない子は、結局孤立の連鎖から抜けられない。つまり、緊急時に「助けてと言えない」子供を新たに作ってしまうかもしれないのだ。親子が互いに信頼できる関係になれば、孤立に閉じこもるより、他人に救いを求める勇気もできる。せめて、家族内だけでも、「家族の時間」を築いていく方向で考えてもらいたいのである。
 現代社会ほど、ITが発達し、他人とつながりやすい時代はない。年中、友人とつながっていたいのだ。ところが、その結果、生の人間同士の対話が消えつつあるというのは、あまりにも不幸ではないだろうか。

対話のための処方箋

 ゲームアナリストの平林久和氏が「なぜ、泣ける男は成功できるのか」という本を出した。その中から「対話」に関する部分を抜き出して紹介したい。
仕事がデキる人に贈る自分づくりのヒント
自己の物語を変えるためには、語り合う相手を変えることは有効な手段である。人は気づかぬうちに馴れ合った仲間と群れを作り、イエスマンを集めている。その相手が変わると、自然と見えないものが見え、語る内容も変化する。

(中略)

 本章前半で「自分は自分の長所がわからない」と書きましたが、もう一歩進めると、自分を理解するためには他者が必要である。それが人間の本性のようです。
 「自分とは何者なのか?」
 自己を浮かび上がらせるために、人間は他者を必要とします。自己を確定させる境界線を、私たちは無意識のうちに探しているのです
 なぜか?同じ顔をし、同じ色をしたロボットでは自分が許せないからです。他者と同じではない「差」こそが、自分が存在する証明であり、誰もがそれを求めています
 という考えに基づいて、私はあなたに小さな変化、すぐにできる変化をおすすめします。なかでも、「会う人を替える」というのは、とても有効な方法です。会う人が変わると、その人とあなたとの「差」が見えてきます。「差」が見えると、物語は変わり、「解釈」が変わり、果ては自分が変わって、「人生が二度ある」に変わっていく。というのが、今、私が考えられる範囲で、最短距離の自己改造の流れです。(平林久和著「ビジネス人生論 なぜ、泣ける男は成功できるのか」誠文堂新光社)

 また、平林氏は日本人は「答えのない問題」には取り組んでこなかったという。
仕事がデキる人に贈る自分づくりのヒント
日本の教育を受けたビジネスマンは、優秀であればあるほど「正解」を求める傾向が見られる。だが、「わからない」というのも立派な答えのひとつであり、俯瞰すると世の中には「わからない」ことが圧倒的に多いことが見えてくる。

(中略)

 つまり、私もあなたも「答えがない問題とどうつき合うか」という訓練を、あまり受けてこなかった。この事を素直に認めざるをえません。
 学校では問題が出され、それを解くことの繰り返し、すべてがそうだとはいいませんが、学校の先生が試験問題を作り、採点しやすいようなことを頭に叩き込む事を、私たちは「勉強」と称していたのであります。
 家族に哲学の学者でもいない限り、家庭内で「人間とは何か?」「生きるとは何か?」「愛とは何か?」「時間とは何か?」について、語り合うことはしません。
 もっとひどいことに、日本人は概して宗教について、知識も意識も乏しい傾向にあります。人によっては、激しい抵抗感がありますから、友人同士の会話で「人間とは何か?」などと問いかけると、「オマエ、何かの宗教でも入ったの?」と会話を遮られ、考える機会さえ封じ込められることもあります。
 本書の根底にある問題、モヤモヤ感は「答えがない問題とどうつき合うか」の訓練の足りなさに起因しています。モヤモヤしていたら、それを焦って解決しようとしない不安や不満があるのが人生なのか、と、あるがままを受け入れることも重要です。(平林久和著「ビジネス人生論 なぜ、泣ける男は成功できるのか」誠文堂新光社)

 なるほど、映画「おとうと」に登場するエリート医師が、夫婦間に会話が必要ないと思っているのもおそらく親たちに会話がないのが当たり前だと思っていたのかもしれない。
——対話ができる人たちは、ぶつかりながらも円滑に生き、対話できない関係はダメになってしまいます。小春の元夫の「向き合って何の話をするんですか」という台詞が象徴的でした。

 あれはイプセンの「人形の家」のなかの有名な台詞なんです。「何を話し合えと言うんだ」「ちゃんと向き合って、真面目な事を真面目に話したい」というのはノラの台詞。小春と結婚した医者の卵にはまったく理解できないことで、夫婦の間には真面目な問題なんてないのではないかと思っている。彼は生活者としての知的レベルはかなり低いと思うんですよ。夫婦に話し合うことなんて必要ないと思ってるんだから。そうじゃないんですよ、夫婦だからこそ、きちんと真面目に話し合わなきゃいけないということは19世紀のイプセンがすでに語っていることでね。(「おとうと」パンフレットより)

 ともかく、好況のときならともかく、不況になって明日の自分の身すらわからない現在、対話する相手がいることこそ大切である。ところが、現代社会は大人も子どもも孤独の中にさいなまれている。平林氏のあとがきに
 私がイメージした今の社会とは、実力ある者たちが意味不明のストレスによって、活力が失われそうな世の中のことです。社会的弱者に焦点を当てた報道、そして支援活動などは頻繁に行われています。ですが、有名大学を出て、有名企業で働くビジネスマンは、心に秘めた思い吐き出せる場が少ない。本当は孤独かもしれないのに「勝ち組」のひと言ですまされてしまうこともあります。この状況は、私が毎日見る現実とは違っています。私は本書を通じて「共感者はここにいる!」と名乗りを上げたかったのであります。(平林久和著「ビジネス人生論 なぜ、泣ける男は成功できるのか」誠文堂新光社)
 日本人は、与党幹事長から、エリート、貧困者まで孤独になり対話が消えている。いくら、メールやケータイが普及してもしょせん道具であり、生の対話こそが人間を蘇生させる条件である事を皆忘れている。
ブログパーツ