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素人だから言えることもある

無縁社会と三ない主義

縁がないのではなく縁が機能していない

 4月3日、NHKで午後4時から、1月31日に放送した「無縁社会」の再放送を含めた特集番組「無縁社会 私達はどう向き合うか」が放送された。「無縁社会」の解説にこうある。
無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。
 この「無縁社会」について特集している雑誌があった。「週刊ダイヤモンド」である。その中に、NHKスペシャル無縁社会」制作者座談会という記事があった。その中から興味を引いた言葉を引用してみる。
板垣淑子(報道社会番組ディレクター) 取材してみると、完全に無縁なんていう人はいないんです。今の無縁というのは、親族や故郷はあるんだけど、それらが機能していない。縁がないのではなく「縁が機能しない」ということなんです。その人が自ら一人ぼっちの生活を選択したのだとしても、その結果、社会の救済システムが届かないところにすぐ転がり落ちてしまう危うさがある。そこに問題があるのだと考えています。

蔵端美幸(報道局記者) 大阪の郊外の静かなマンションで暮らしているおじいさんに密着したのですが、とにかくよく話をされるんです。ただ、その人が言うには、普段は誰ともしゃべらないので、声が出せなくなることがあるとか、沈黙が怖いと言って、部屋には常にテレビがついているし、夜中もラジオをつけている。かつてバリバリ働いて地位もあった人ですが、今回はかっこいい姿を撮られているわけじゃないのに、取材が終わったとき「夢のような3日間でした」とおっしゃった。

板倉弘政(報道局記者) インターネットで“祭り”になったことですね。今、ミクシィやツィッターで番組についてつぶやいている人にも会っているのですが、いわゆる“ロスジェネ世代”が多い。就職がうまくいかず非正規で働いているとか、正社員で忙しく働いて充実しているように見えるのに鬱があるとか、よく取材してみるとその向こうに社会の病巣があることがわかる。30〜40代と、幅広い層に無縁社会が広がっていると感じますね。

板垣 「縁」の意味としては、二つあると思うんです。ひとつは安心感という心のつながり。もう一つは、たとえば介護が必要なときにシグナルが出せて、なんらかのサービスに引っかかるという社会の救済システムです。
 このうち、公的なシステムは完全に欠落しています。本来、公が担うべき社会保障のシステムを、これまでは家族や企業などに一部を負わせてきた面がある。ところがここにきて、その仕組みから排除されている人がどんどん出現してきて、救済システムの手直しが追いついていない
 一方、ネット上で反響があったことで、新しい技術が心を結び付ける役割を果たしているとわかり、ホッとした面はあります。ただ、ネットで心のつながり感を得ることはできても、実際になにかあったときに物理的なつながりにはなれない。今後、うまく解決策として提示できればいいのですが。(週刊ダイヤモンド4月3日号 NHKスペシャル無縁社会」制作者座談会)

 番組は、無縁死した人たちの生前の足取りをさぐることで、人生を浮き彫りにするが、夜10時の追跡A to Zの「無縁社会の衝撃」では、1月放送の「無縁社会」のときに“祭り”になった30〜40代をメインにする。
1月末に放送したNHKスペシャル無縁社会」。放送後、“無縁“な人たちの間で、大きな反響を呼んでいる。NHKに届いた反響は1500件を超えた。その多くが、「無縁な自分の将来が不安だ」と訴える内容だった。とりわけインターネット上では、「祭り」といわれる異常現象が頻発。視聴者が番組を見ながらネット上に書き込みをするツイッター、掲示板、ブログで数十万を超える異常な頻度で書き込みがあった。

特に目立ったのは30〜40代の書き込みだ。「ネットだけが“つながり”だと信じてきたのに、それだけでは救われないのではないか」、「結婚をはじめて考えるようになった」など、働き盛りの世代が自分と社会とのつながりを不安視する記述が目立つ。(「無縁社会」の衝撃)

 この番組の鎌田キャスターは、最後に地縁・血縁を復活すればいいのかということに疑問だという。人々が都会に出てきたのは、地縁・血縁を嫌ったからだ。現代では、そのようなつながりではない別のつながりが必要だというのである。

無縁社会」と「三ない主義」

 僕が現代日本人の精神の貧困「三ない主義」を書いた理由は、今、起こっているのは単なる格差問題ではなくて、もっと日本人のメンタル的なものではないかと思ったことだ。そして、そのために日本人はひどくコミュニケーションが下手になったのではないか。ツィッター・ブログ・メールなどコミュニケーション手段は豊富になったが、それは人と人との生のコミュニケーションではない。「ヤマアラシのジレンマ」という言葉がある。僕は、メディアはなぜ孤立化を好むのかで、
そもそもこの問題について精神分析学者がしばしば喩えに使うのが、ショーペンハウエルの「山アラシのジレンマ」の寓話です。山アラシというのは日本ではあまりなじみがありませんが、ドイツではとても身近な動物です。ある寒い冬の朝、二匹の山アラシが「寒い、寒い」と言っていた。そこで二匹が寄り添って暖めあいたいと思ったが、お互いにトゲがある。そのお互いのエゴイズムのトゲで相手を傷つけあって、「痛い、痛い」といろいろなトラブルが生じる。そこで離れて距離をとったけれど、そうなると寒くて耐えられない。しまいには適度に暖めあって、適度にお互いのエゴイズムのとげの傷つけあいに耐えるという距離を発見した。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス
 例えば昔の田舎など地縁・血縁の濃い社会では、若者はべったりとつながっていると、お互いを傷つけあうから、それを嫌って都会に出る。しかも、都会で発展したコミュニケーションツールは、しゃれていて、つながりたい時はつながり、自分からつながりを絶つことができるという便利な道具である。
 たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています。
 「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。
 それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス
 ネットでツィッターなどを書いていると、反応があるのでつながっている気分になる。ところがやはり一・五の関係なので、「無縁社会」を解消するわけではない。その上、好況のときは、親子で対話をしなくても、考えなくても、ただ、先輩の言うとおりについていくだけで希望を持つことができた。つまり、それだけで成り立っていたので、精神的なセーフティーネットは家族に、経済的なセーフティーネットは企業に負担させてきたともいえる。

 ところが、不況になり、正社員のパイが小さくなり、三分の一が非正規になると、今まで無視してきたコミュニケーション能力がとたんに必要であったことに気がつくのだ。日頃から、親子で本気で対話をしてこなかったので、親たちは、好況の頃の自分と比べて「自己責任」問題にしてしまう。どんどん自分を責めていくと、孤立化するしかない。本当に必要なのは、生の人間の対話であり、先の事を考えることであり、希望を持つことだと思ったのである。
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