夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

なぜブログに感想を書かないか(知識を伝える・5)

感想は読者を狭める

 僕のエントリーのほとんどは、感想を書かない。特に、映画のエントリーを見てもらえばわかるが、ほとんどは、映画のパンフレット(プログラム)の引用で組み立てられている。それは、映画監督がどのような思いでその映画を作ったかがわかるからだ。他人のブログを見ると、多くの者が映画の感想や、役者のできについて言及している。しかし、これらの情報は、同じ映画を観た人間しかわからないし、多くの読者にとってはほとんど意味がない。読者は、その映画を観ていないという前提で語るべきなのである。僕は、「ブロクがなぜ続かないのか」でこんな事を書いている。
 「映画の感想」や「書評」などを書いている人にも言えることだが、彼らは、なぜ同じ映画を見た人や同じ本を読んだ人向けに文章を書くのだろうか。圧倒的に、それ以外の人が多いのに。むしろ、その映画の肝の部分(これは、ストーリーを明らかにするということではない。監督が言いたかったこと、作家が書きたかったことを自分なりにまとめることだ)を書くことで、読者にその映画を見てみたい、その本を読んでみたいと思わせることである。
 ところが、多くの書き手はそれを勘違いし、上っ面をなぞったり、出来がいいとか悪いとか批判したりする。僕は、むしろ、その映画から何を学んだかが重要だと考えている。読む人が持ち帰るお土産は何か(知識を伝える・2) でも、
彼の口癖は、「観る人たちが持ち帰る“お土産”は何かね」だった。この言葉に導かれ、観た人の心にいつまでも残る、キャラクターに根ざした本物の感情を描く物語が紡ぎ出されていった。(カールじいさんの空飛ぶ家・映画プログラムより)
という言葉から、ブログからの“お土産”について考察した。単なる批評であっては、その映画の価値はそこで止まってしまう。それよりも、その映画から何かを学びとり、それをブログの読者に伝えていくことが大切だと思っている。

展開の仕方によってブログは大きく膨らむ

 僕は、たまたま見た映画「おとうと」から対話論を展開させた。映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーションに顕著であるが、映画のパンフレットのインタビュー記事を再構成し、山田洋次監督の「対等に話し合える知性的に結ばれた間柄」について考察した。このことは、後の、現代日本人の精神の貧困「三ない主義」に結実できた。そして、それはまた、現代日本人のメンタル面の脆弱さを明らかにした。つまり、一つのブログが、新たに発展し、様々なエントリーとつなぎあうのである。感想で終われば、そこで終わってしまったエントリーを次のエントリーにつないでくことこそがブログを考える楽しさだと思っている。
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