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素人だから言えることもある

なぜ、日本にジャーナリズムは根付かなかったのか

 前項「ジャーナリズムの試練」で最後に佐々木氏の

僕はこれから先の時代は、マスメディアも大企業もない世界になっていくんじゃないかとイメージしています。(まぐスベインタビュー)
という言葉を引用した。どのようにしてマスメディアは消滅していくか、そして日本のマスメディアの問題点はどこか。それを探ってみたい。

マスメディアという名の官僚組織

 その前に、前項「ジャーナリズムの試練」で書き忘れたことがあった。それは、相撲界とマスメディアの共通点のことである。僕は、ワイドショー化とは何か(ワイドショー化する日本・5) で官僚主義の特徴について引用している
規則万能(例:規則に無いから出来ないという杓子定規の対応)、責任回避・自己保身、秘密主義、画一的傾向、権威主義的傾向(例:役所窓口などでの冷淡で横柄な対応)、繁文縟礼(はんぶんじょくれい)(例:膨大な処理済文書の保管を専門とする部署が存在すること)セクショナリズム(例:縦割り政治や専門外の業務を避けようとするなどの閉鎖的傾向)


これらは、一般に官僚主義と呼ばれているものである。例えば、先例がないからという理由で新しいことを回避しようとしたり、規則に示されていないから、上司に聞かなければわからないといったようなものから、書類を作り、保存すること自体が仕事と化してしまい、その書類が本当に必要であるかどうかは考慮されない(繁文縟礼)、自分たちの業務・専門以外のことやろうとせず、自分たちの領域に別の部署のものが関わってくるとそれを排除しようとするセクショナリズム)、というような傾向を指し示している。

(中略)

パーキンソンによる官僚組織の非合理性についての指摘は「パーキンソンの法則」と呼ばれている。これは、実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていくというもので、官僚組織の肥大化の特質を示している(成長の法則)。もちろん官僚が増えれば、その分仕事がなければならないが、それは実際に必要ではない仕事を創造することでまかなわれる。つまり、無駄な仕事ばかりが増えていくということである(凡俗の法則)。(官僚制-Wikipedia)

 今回の例で言えば、相撲界は組織が縦割りであり、野球賭博と言う都合の悪い情報は外に出そうとしない秘密主義であり、マスメディアはマスメディアで本来、報道しなければならない事実も自己保身のために隠してしまうという性格があるのではないか。つまり、ジャーナリストではなく、単なるマスメディア会社の一員となってしまっているのである。上杉隆氏は、「ジャーナリズム崩壊」の中でこんな例を挙げている。
 基本的にジャーナリストとして優れた記者は政治部では生き残りにくい。なぜなら、取材をすればするほど、担当する政治家の不利な情報まで知ることになってしまうからだ。仮に、そうして得た情報を読者や視聴者のために報じたらどうなるのだろうか。おそらく、その政治家は失脚し、同時に記者自身も社内で同じような災難が降りかかることになるだろう。

 このように、政治記者にとって、取材し、優れた記事を出すことは、場合によっては「自殺行為」ともなり得る。こうしたことから政治記者にとって、担当する政治家への批判は必然的にタブーとなり、結果、ジャーナリストであることを放棄し、会社員としての生き方を選択することになる。

(中略)

 彼らは、雑誌や社会部記者が政治家の身辺について取材し始めるのを察すると、すぐにその政治家に情報を与える。ときに、指南役として振る舞い、メディア対応の策を考えることもある。そしてそれでも敵わないとなると、なんとか取材を止めさせることができないか、社内の上層部に働きかけたり、場合によっては直接行動でもって、当の記者に圧力をかけることもあるのだ。


 その種の派閥記者が海外にまったくいないとは言わない。ただ、日本のように、それを記者クラブというシステムにまで昇華させてしまっている国は皆無だということだけは断言できる。(上杉隆著「ジャーナリズム崩壊」幻冬舎新書)

 これは政治部の話だが、相撲界にしても同じことだ。親方と親密になればなるほど、それなりの情報は知っているはずだ。ところが、ここで自分が報道することで、将来の自分の会社の中の立場がなくなる事を恐れるのである。彼らには、ジャーナリスト精神はなく、単なる官僚の一人である。

もともとジャーナリストはいなかったのではないか

 週刊東洋経済池田信夫・アゴラブックス代表取締役×岸博幸・慶應義塾大学教授――激論! 日本の大手メディアはクラウド時代に耐えられないという対談があった。これは、朝日新聞は、今、何を考えているか・2(ホームサーバの戦い・第68章) で朝日新聞の社長のインタビューを引用した週刊東洋経済の7月3日特大号「激烈!メディア覇権戦争」の中の対談である。この中で、興味を引く言葉があった。
池田 プロフェッショナルであれば独立してやっていけばいい。今やメディアは信じられないくらいローコストで運営できるようになった。記者クラブだって開放され始めており、もはや独立してやっていくうえでの障害はない。

 これまで新聞社にとって輪転機や専売店は資産だったが、今では負債。テレビ局にとっても、1兆円をかけて全国に整備したデジタル放送の中継局はいきなり負債だ。ネットがものすごく情報の流通コストを下げたわけで、それは逆らいようがない。実際、新聞社が次々と潰れた米国では、記者が個人メディアをつくって活躍している。

 そこが米国のジャーナリズムの優れているところでもある。紙の発行をやめてもウェブ上で価値のある報道を続けている。しかし日本の新聞社の記者は、ジャーナリストと称するサラリーマン。新聞社が潰れれば、別の仕事に行ってしまうように思う。(池田信夫・アゴラブックス代表取締役×岸博幸・慶應義塾大学教授――激論! 日本の大手メディアはクラウド時代に耐えられない)

もちろん、マスメディアに入った人たちも、ジャーナリストの精神を学んで入ったに違いない。(ジャーナリズムの試練参照)

でも多くのマスメディアが、求めていたジャーナリズムとほど遠いものであった。そして、今、マスメディアの形が大きく揺らごうとしている。

ジャーナリストごっこの日本人

 前項ジャーナリズムの試練では、民衆の間から革命が起こったことがないという話をしたが、日本人は個人の能力よりマスメディアの組織を信じる傾向があるのではないか。それは、日本人の教育観に根ざしていると思う。「学校なんて大嫌い(異文化文献録) 」でこんな話を書いている。
 英語のEDUCATION・教育の語源は「引き出す」である。「能力」は個人個人がそれぞれ持っているものである。教育はその「能力」を引き出す手助けをしているに過ぎないのだ赤祖父哲二「英語イメージ辞典 」三省堂)。従って人により引き出される能力はさまざまであり、違って当たり前なのである。


 それに対して、日本の教育は同じ知的水準を要求する。いわばアメリカの教育が、「お前はお前、俺は俺」の教育なのに対して、日本の教育は「みんな一緒」の教育なのだ。「みんな一緒」の服を着て、「みんな一緒」の教科書を使う。だから、母親がよく言う言葉に「あの子に負けるのはお前の努力が足りないから」という。決して、ウチの子に能力が無いなんて考えもしないのである。だが、アメリカでは「努力」という言葉はほとんど使われない。「能力」の無い者に「努力」を強調しても無意味だという考え方があるからだ(加藤恭子、マーシャ・ロズマン「言葉で探るアメリカ 」ジャパンタイムズ)。この考え方も、大変厳しい考え方である。無能力者と烙印をされたら、その分野での死を意味するからだ。学校の環境が日本よりも楽に見えるが、勉強をしない人間に厳しい点は、アメリカは日本以上なのである。

 「みんな一緒」の教育を受けた人間は、独創的で個性的な人間を排除しようとする。目立つことはチームワークを乱す元だからだ。この点もアメリカと逆だ。アメリカでは、オリジナリティーの無い人間は認められない。独創的な人間は自分の能力に自信を持っている。このことがアメリカ国民の層の厚さとなっているのである。確かに日本の知的水準は上がっている。文盲率もゼロに近い。だが、この中に自分の本当の能力に自信を持っているものは何人いるだろう。真の教育とは、生徒に自分の持つ好奇心を最大限に引き出し、学ぶ楽しさを教えて生きる自信につなげることなのだ(稲垣佳世子・波多野誼余夫「知的好奇心」「無気力の心理学中公新書)。

 この教育観の違いが、おそらく日米のマスメディアの違いを生んだのだ。東大卒の先生をあてがえば、自分の子は天才になれるという誤解を生んだように。と同時にこのような価値観が日本独自のガラパゴス文化を生んだのではないか。他の国に理解してもらう必要がないために。

 ジャーナリズムの使命が

チェック機能は、ジャーナリズムの生命である。欧米では象徴的にウォッチ・ドッグ(watchdog番犬)と表現されるこの監視・チェック機能こそ、メディアが健全な社会を作り維持するためにもっとも期待されている役割だ。メディアの存在理由であり基盤である。これを忘れてメディアが権力と癒着したり、メディア自身のモラルを低下させてセンセーショナリズムに走ったりすることは許されない。((MSN質問箱)( ジャーナリズムの試練)
という能力が、マスメディアと言う組織よりも個人の能力に根ざしているため、メディアがマスになればマスになるほど、「日本の新聞社の記者は、ジャーナリストと称するサラリーマン。」(岸博幸慶應義塾大学教授)(池田信夫・アゴラブックス代表取締役×岸博幸・慶應義塾大学教授――激論! 日本の大手メディアはクラウド時代に耐えられない)になってしまう。日本では個人のジャーナリストは少なく、組織を背にしたジャーナリストは多い。このようなジャーナリストは、組織を離れたとたん、ジャーナリストとしての存在価値を失ってしまう。組織尊重社会が、日本に似非ジャーナリストをはびこらせた元凶かもしれない。インターネットは、それを一端、チャラにして本当のジャーナリズムを個人から築き始めるチャンスを作ってくれたのではないだろうか。


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