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素人だから言えることもある

怪談「都市八分」・人間はモノに変化した

消えた村二分

 村八分という言葉がある。
村八分(むらはちぶ)とは日本の村落の中で掟や秩序を破った者に対して課される消極的制裁(共同絶交)行為についての俗称。
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話(死体を放置すると腐臭が漂う、また伝染病の原因となるため。また死ねば全てを許されると言う思想の現れとも)と火事の消火活動(延焼を防ぐため)という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つこと(残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行)。また、「八分」は「はじく」(爪弾きにする)の訛ったもので、十分のうち二分を除いたものというのは後世の附会であるとの説もある。(村八分-Wikipedia
 最近起きているニュース、例えば、30年間も死体と生活していた家族とか、1ヶ月も子どもを閉じ込めていた母親とか、何年も前に出て行った親の年金をもらっている子どもとか、葬式という根本的な習慣である村二分すら行われていない現実がそこにある。まるで、人間をモノのように扱っている。きっとそう嘆く人も多いだろう。そう、人間とモノの関係がこの数十年で変化してしまったのだ

人間、モノと近づく

 かつて農村の大家族制度の中、濃密な人と人とのつながりがあった。テレビのホームドラマで都市にあこがれ、ドライな人間関係を夢見て都会に出て行った。核家族になった子どもたちは、ひとり電子機器と遊んだ。心理学者の小此木啓吾氏はこんな事を書いている。
たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています
「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。
それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス

 このメディアは、人工物だから自分の都合でON・OFFできる特徴がある。メールができなかった時代の 携帯電話は、相手の都合を気にしなければならなかった。だが、メールができるようになって、そんな相手の都合も関係なくなる。その瞬間、自分のパーソナルな空間がその分広まったような気分になる。そしてこの友達関係も簡単にON・OFFできる関係となってしまった。(メディアはなぜ孤立化を好むのか

 高度成長期、右肩上がりの時代はそれでも良かった。総中流時代と呼ばれたその頃、サラリーマンたちは先輩の真似をして仕事をすればそれでよかった。やがて、会社にもパソコンが入り、サラリーマンたちはパソコンに向かい合うのが仕事になった。親も子どもも、生身の人間の間にモノが入り込むようになったのである

人間、モノになる

 それらのモノは、人間にとって便利この上ないものだ。だが、それらにはまると生身の人間よりもモノに依存した関係となる。
 ケータイを使い出すと、常に身につけていないとどうも不安な気分に陥ってくる。「常につながっていないと気が休まらない」という感覚——それは、私たちがコミュニケーションの媒体を共有という事実にもとづいて、集団としての連帯を確認するようになってきたことを示唆している。

(中略)

メル友と交信する若者は、対面場面で伝えにくいことでも、メールなら可能と言い、顔を合わせて会話する方がかえって疲れてつらいとこぼす。しかし、人間ひとりひとりの存在は、いつまでたっても時間と空間の拘束を免れることはない。 しかもすでにふれたように、個々人は公的世界へ出て他者との交渉のなかではじめて自己実現を遂げるのである以上、空間上の近接性と時間上の持続性を欠いたコミュニケーションというものには、おのずと限界が生じてくるのである。その問題がもっとも先鋭的な形で浮上してくるのが、「相手とどのようにして信頼関係を結んだらいいのか」という「疑念」なのだと言えよう。どこにいるのか確かでない相手との、瞬間瞬間の交渉のなかで、いかにして信じ合えばよいのか、見きわめる術を見出せないでいる。(「ケータイを持ったサル」正高信男著・中公新書

 これもまた生身の人間との関係を避け、彼ら自身もケータイというモノに同化した存在になりつつある事を示しているのではないか。僕は、「現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で、現代日本人の特徴を「対話がない」「考えない」「希望がない」と書いた。もちろん、ケータイやパソコンはコミュニケーションツールである。対話がないとは何事かと思うかもしれない。「映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション」で語ったとおり、ケータイのメールで伝達する関係は対等な対話の関係ではない。冒頭の消えていく高齢者の例でも、そもそも家族との対話がない事を意味している。また、当然ながらモノは「考えない」し「希望がない」のは当たり前である。僕は、この三種類の「三ない主義」が達成された瞬間、見事にその人間はモノとして変化したのだと思ったのである。なお、タイトルの「都市八分」とは、現代日本人の都市の八分はすでにモノに変化した事を表している。
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