夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

キュレーターの役割は考える読者を作ること

マスメディアが作った考えない人

僕は、現代日本人の特徴を「三ない主義」として次の3つを掲げた。
「対話がない」
「考えない」
「希望がない」(現代日本人の精神の貧困「三ない主義」)
本来、テレビのある茶の間は家庭団欒の場であるはずなのに、会話がなく、いつのまにか暇つぶしの場になっている。さらにテレビが2台以上ある家庭も珍しくなく、食事が終わったら、それぞれの個室でテレビやケータイで巣篭もりをしている風景も見られる。家庭の中で孤立しているという、それだけでも大問題なのだが、テレビの特性として、見ている人に考える隙間を与えないという、困った習性がある。「ねつ造の心理?退屈が怖い」では、アメリカのジャーナリスト・ディヴィッド・ハルバースタム氏の言葉を紹介している。
(1)「いまや、アメリカのテレビニュースで絶対に避けなければならないのは、間違っていることでもない、不正確なことでもない、それは視聴者を退屈させることだ」 (佐藤二雄著「テレビとのつきあい方」岩波ジュニア選書)
退屈させてしまったら、チャンネルを変えられてしまう。そのため、視聴者を考えさせまいと努力しているのである。しかも、人間というのは、考える時間がないと、記憶に残す意欲を失ってしまうのか、最後の三分間しか覚えていないなんてこともざらである。テレビにはディレクターがおり、新聞や雑誌には編集者がいる。いずれも、マスメディア側にいる。彼らは、ニュースの順番を決め、どうやったら興味をつないでくれるか考えている。こうなると、ますます視聴者は考えなくなってしまう。

読者の間から生まれたキュレーター

一方、ミドルメディアには、キュレーターが誕生しつつある。もちろん、専門家出身のキュレーターもいるし、マスメディア出身のキュレーターもいるだろう。当然、読者の間からもキュレーターも生まれる。だが、彼らはマスメディア側でないという事に注目すべきである佐々木俊尚氏は、キュレーター定義の後半で、
「そんなもののどこがジャーナリズムなのか!」と怒る人もいるかもしれない。たぶん古い新聞業界や出版業界にいる組織ジャーナリストにとっては、キュレーションをジャーナリズムと呼ぶのは耐え難い屈辱に映るだろう。しかし、考えても見てほしい。ジャーナリズムの本来の役割は、何かのことがらについて専門家から取材し、そのことがらが意味すること、それがもたらす社会的影響や未来像について読者にわかりやすく提示することである。(キュレーション・ジャーナリズムとは何か)(リスクゼロ社会の幻想)
と書き、また「読売新聞「新聞が必要 90%」の謎」で引用した佐々木氏の「ブログ論壇の誕生」からも
記事というコンテンツは、「一次情報」と「論考・分析」という二つの要素によって成り立っている。新聞社は膨大な数の専門記者を擁し、記者クラブ制度を利用して権力の内部に入り込むことによって、一次情報を得るという取材力の部分では卓越した力を発揮してきた。だがその一次情報をもとに組み立てる論考・分析は、旧来の価値観に基づいたステレオタイプな切り口の域を出ていない。たとえばライブドア事件に対しては「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」ととらえ、格差社会に対しては「額に汗して働く者が報われなければならない」と訴えるような、牧歌的な世界観である。

このようなステレオタイプ的な切り口は、インターネットのフラットな言論空間で鍛えられてきた若いブロガーから見れば、失笑の対象以外の何者でもない。彼らは新聞社のような取材力は皆無で、一次情報を自力で得る手段を持っていないが、しかし論考・分析の能力はきわめて高い。ライブドア事件にしろ格差社会問題にしろ、あるいはボクシングの亀田問題にしろ、読む側が「なるほど、こんな考え方があったのか!」と感嘆してしまうような斬新なアプローチで世界を切り取っている。

今の日本の新聞社に、こうした分析力は乏しい。論考・分析の要素に限って言えば、いまやブログが新聞を凌駕してしまっている。新聞側が「しょせんブロガーなんて取材していないじゃないか。われわれの一次情報を再利用して持論を書いているだけだ」と批判するのは自由だが、新聞社側がこの「持論」部分で劣化してしまっていることに気づかないでいる。ブロガーが取材をしていないのと同じように、新聞社の側は論考を深める作業ができていないのだ。(佐々木俊尚著「ブログ論壇の誕生」文春新書

と、マスメディア側が取材力に強く、ミドルメディア側が論考・分析力に強い点を上げている。もちろん、今までの取材力を否定するわけではない。しかし、環境は変わったのである。

一方的に発表する場がマスコミに限定された時代と違って、現在では、誰でも、インターネットで発言する場を与えられている。探ろうとすれば、比較的簡単に情報が手に入る時代となった。そして、情報が限定されるために鵜呑みせざるを得ない時代から、キュレーターの論考・分析力によって、いろんな風にニュースを捉えることができる時代になった。そのため、ジャーナリズム・リテラシーは必要になってくるが、今までの一方的な受身でいる読者の壁を突き破って、誰もが自分の主張によって主体者になりうる時代にパラダイムシフトしたのである。これほど、大きな変化はあろうか。そして、キュレーターが活躍すれば活躍するほど、考えない視聴者・読者から、考える読者に転換していくのだ。これこそ、読者によるジャーナリズムの夜明けが始まったと思うべきである。
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