夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

政治とネットは相性が悪い

集団の意思と個人の心

ネットは速すぎて政治は遅すぎる。いつも、ネットに流出してから政治が追いかける。政治とマスメディアは対決の構図を描いていて、あまり気にしていなかったが、ネットメディアが登場して、初めて両者が集団の意思であることに気がついた。メディア・リテラシー-Wikipediaにこんな記述がある。
一つの物事について様々な捉え方がある事、また自分なりの捉え方に基づき情報を発信出来るという事自体は、思想・表現の自由上、望ましいことである。しかし、マスメディアは、発信する情報に私見を加えることを極力避け、偏った内容にならないように最大限、心がける必要がある。 これは極めて多数の人間がマスメディアを利用しており、それだけ社会に及ぼす影響力が大きいからである(当然、公的機関にも同じ事が言える)。逆に言えば、マスメディアが虚偽報道をしたり、ある意図(例えば特定の人物、勢力を有利、あるいは不利な状況に導く等)に基づいた報道を行えば、その影響も大変強いものとなる事を意味する。そのため、マスメディアには信頼性・中立性が求められる。マスメディアがしばしば「第四の権力」と呼ばれる理由も、ここにある。(メディア・リテラシー-Wikipedia)
現実はどうあれ、マスメディアにはこのような枠がはめられている。

一方、ネットメディアは個人の心に近い。今までは、マスメディアを通して、自分の意見を言うしかなかった。ネットメディアによって、その日、その日で違った自分の心を世界に表現することができる。

かといって、政治を無視するわけにはいかない。私たちがネットの中で表現の自由を得ているのは、政治によって、民主主義が成り立っているからだ。政治は、ルールを作り、その規範の中で人々の行動を制限する。当然ながら、ルールを破ったものは罰せられなければならない。情報は管理できても、個人の心は管理できない。政治は、同じ集団の意思であるマスメディアを理解し、処罰することはできる。しかし、政治はネットを理解できないし、一度流出した情報をなかったことにすることはできない。

「知る権利」とネットメディア

政治は、ネットに対応するために、情報管理を強めようとするだろう。ただ「知る権利」を個人の心に求めてはならない。それを認めてしまったら、何でもありになってしまう。また、政治家が勝手に国民の「知る権利」を決めるものでもない。政治家が決めたら、その国は独裁国家になってしまう。つまり、どこまでが国民の「知る権利」であるかどうかには、その基準が必要である。「知る権利」について調べてみると、
表現の自由より派生した権利としては、「知る権利」がある。アイザイア・バーリンが著書「二つの自由の概念」で自由は積極的自由と消極的自由があると述べていることと同じく、国などに対して情報の提供を求める権利(積極的自由)と国民が国家の妨害を受けずに自由に情報を受取る権利(消極的自由)がある。

(中略)

国民が自由に情報を受取る権利としての知る権利は、表現の自由に由来すると見ることも出来るが、国家による検閲の禁止からも導かれる。たとえ、表現の自由を保障したとしても、それを受取る側の受取る自由が確保されなければ無意味になるからである。この自由は、マスメディアの発達により情報の送り手と受け手の分離が著しくなった現代においては重要な権利であるが、近年のインターネットの普及により送り手側と受け手の分離は解消されつつある。(表現の自由-Wikipedia)

この文章では、ネットメディアがマスメディアと受け手の分離の緩衝役を期待されている。しかし、現実は、今回の事件にみられるがごとく、ネットが政治やマスメディアを先行し、マスメディアの本来の目的が見えなくなってきた。別に、ネットメディアがマスメディアに変わるものではないし、本来目的が違うはずである。だが、政治から見れば、管理できないマスメディアのようなものがもうひとつできたことになる。しかし、マスメディアが国民の「知る権利」を満たしきれない以上、ネットメディアに傾かざるを得ないのは必定である。それ以上に、中国・北朝鮮のように独占的にマスメディアを管理している国家にとって、「個人の心」を表現するネットメディアの脅威は大変大きい。
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