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素人だから言えることもある

「学び」について考える

前項「抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談より」で学んだことは、次のようなことである。特に、池上彰氏の言葉は、対談の結論をまとめるのがさすがにうまい。

1、学ぶことは、真似ることである

池上 今、先生が学ぶことは真似ることとおっしゃいましたけれども、最初は私、記者で入りましたから、あの原稿が書けなければいけませんよね。まず、先輩の記者の原稿を見て、夜、こっそりそれを書き写すということから始めましたね。
印刷がなかった時代、人々は書き写すことしかできなかった。聖書も仏教の経典も、僧侶が書写して伝えてきたものである。人間は、手本を書き写すことでしか、学ぶことはできない。

僕は、ブログで、なぜこれほどまで引用するかと言うと、データベースにすること=頭に入れることのためには、書き写す重要性があるからである。

2、学ぶことは、自主的であって、強制された「勉強」は身につかない

池上 でも、やっぱり、基本的に上から押し付けて、「これやりなさい」ってやりませんよね。それは、何かこうほっておいても、何かひとつ、あっ、これ面白いなと思うものをうまく見つけることができるとやるんですよ。

池上 「強いて勉める」でしょ。勉強は上から押し付けられてやらされるイメージがあります。学びというのは自分から自主的にやろう。

よく、ポイントを覚えればいいと言う考え方があるが、それは試験のための学問であって、決して自分のものにならない。自分なりの疑問を持ち、あっ、こうしたらいいな、こうやったらどうだろうと考えることが大切である。

僕のブログの考え方として、まず最初にできるだけ生の資料を提示する。そして、次のブログで、他のブログと付き合わせたりして論考する。前項「抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談より」が資料部分なら、本稿は論考部分である。

3、学ぶ楽しさを身につけるには大人のヘルプが必要

池上 大体、これまでの授業ってそうなんですよ。「いずれ分かるから」「いずれ分かれば面白くなるよ」って「だから我慢してやってろ」っていう授業があまりにも多くて。そうじゃなくて、ちょっと実は面白いんだよってさわりを見せて、あっ、面白いんだな、じゃあ、この後の話を聞こうかっていう工夫が必要なんですよ。映画におけるつかみですよね。
鈴木 今、池上さんが言われたようなことですね、大人がヘルプするって言うか、そういうことは絶対必要だと思いますね。だけと、ヘルプだけ続けると、なんでも大人のヘルプを期待する子どもになっちゃう。これは逆効果
教育には、教える部分と学ぶ部分がある。教師は、その学問の面白さのさわりを見せて、子どもは自分で興味を持って独自に学んでいく。教師は、子どもに学習意欲をつけるきっかけを作るべきなのだ。ところが、日本では、一方的に先生が教えて、生徒はそれを覚えるだけ。これは、学んだことになるのだろうか。
宮根 学ぶということが、面白さとか楽しさへの出会いのチャンスを増やしてくれる。
池上 まったくそのとおりですよね。あっ、学ぶことが楽しいなと分かれば、あとはほっといても学ぶんですよね。

4、日本の教育は、大人目線

池上 そうなんですよね。いつもいつも、日本の教育の歴史っていうのは、「今はダメだよ、変えようよ」の繰り返しなんですよね。実は終戦直後、アメリカ式のあまり詰め込みじゃなくて、自由にものを考えるってことから、実は始めたんです。そしたら「これじゃ知識が足りないじゃないか」と「詰め込み教育」が始まって、私の頃は、大変な「詰め込み教育」で、これじゃあまりに「いろいろな弊害があるよ」といって、「ゆとり教育」って実は随分前から言われてきて、それが今になってみたらまた詰め込みだとなった。あと、5年から6年すると、今の詰め込みは問題だともっとゆとりが必要だという話きっとになりますよ。
学習は時間や量ではない。物をたくさん知るよりも、その根源を学べば、バラバラの知識も系統化できるし、自分独自の思考方法も育てる。ところが、受身で学んでいると、自分の思考方法ではなく、教えた教師の思考方法になってしまう。

5、池上氏がいつも「一の一から学んでいきましょう」という理由

宮根 池上さんのニュース解説でもそうなんですけど、今更聞けないよな、でも知らないよなって言うことがあるじゃないですか?
池上 ありますね。そもそも、ニュースを誰かに説明するときに、まず自分が理解しなければいけませんよね、自分で、一生懸命理解しようとすると、そうだったのかと分かる一瞬がありますよね。それを誰かに伝えたいって思うわけですよ。そのときに、「あっ、こういうことだったのか、分かった」ってことは、つまり、基礎からやってきてようやく分かったってことですよ。その基礎から含めて皆さんに説明しないと、たぶんお分かりいただけないだろうな。じゃ、そこからやろうと言うことになったわけです

専門的なブログは、ある程度の知識が必要だ。そのことが、一般の人への高いハードルとなる。僕のブログは、素人なので、素人なりに考え、ネットに発表された優れた文章を引用するしかない。そして、僕はそれから何を学んだのかを次のブログに書く。また、それによってブログが専門家だけのクローズからオープンになるきっかけになればいいと思っている。

6、学ぶ意欲には、貴賎は関係ない

鈴木 それはね、苦労したといえば苦労したかもしれませんけど。今は、昔と違ってですね。どこへ行っても、図書館は整備されている。だから、本を借りて読むことはいくらでもできるわけですね。これ、質問が難しいんですけれども。上の学校に行くには金がかかる。これ、当然ですから。そうじゃなくて、基礎の勉強をするということに、そんなに僕は金がかかるということにはならないじゃないのか。

たけし 我々先進国の人は勘違いしてるんだけど、頭は我々いいと思うじゃない。ところが、とんでもない、同じ子どもだったら、後進国も先進国も関係ない。同じ勉強の機会を与えれば同じなの。その、どうやって勉強するかってお金なくてどうやって勉強するかと言う技術だって勉強だよ。どうやって先生に会って、どうやって聞いちゃうかと言う、それだって勉強の手段だから。

子どもの才能は、国境によって変わるわけではない。同じ教育環境を与えれば、それなりに伸びていく。ところが、これほど教育環境が進んだ日本でも、疲弊している子どもたちがいる。それはなぜだろうか。

7.大人も子どもも「何をすればいいのかわからない」

子どもが、学校で疲弊している姿と、好奇心に目を輝かせて学んでいる姿の違いは、やはり大人とのかかわり方の違いが大きいと思う。「この国には希望だけがない」で、僕は村上龍氏の言葉を引用した。
何をすればいいのかわからない」というのが、現在の日本を読み解くキーワードではないのか、ということだ。

多くの政治家や官僚、不良債権を抱える多くの銀行、債務に苦しむ多くの衰退企業、貸し渋りに喘ぐ多くの中小企業、リストラされた中高年、フリーターの若者、社会的ひきこもりの人びと、犯罪に走る少年たち、ホームレスの人びと、彼らはダメになっているのではなく、「何をすればいいのかわからない」のではないだろうか。

「何をすれば」というときの、「何」は、生きる意味や人生の目的といった曖昧なものではなく、どうやって充実感と報酬を得るのか、という仕事に結びつくものではないかと思う。(「13歳のハローワーク・おわりに」村上龍著/冬幻舎

この充実感の部分を「学ぶことの面白さ」と言い換えてみれば分かる。この面白さが「わかった!」という充実感に繫がるからだ。そして、それは自分で発見するものである。ところが、親や教師は、それを押し付ける。日本の子どもたちは、いつも親や教師の言うとおりに動き、だから疲弊しているのである。

そして、大人たちだって、実は「何をすればいいのかわからない」のである。だから、「詰め込み」と「ゆとり」の間を行ったり来たり。不満が見えるたびに、「今はダメだよ、変えようよ」(池上氏)となるわけだ。大人たちは、自分がしっかりした自信を持てないために、不安と不満で揺れ動いている。そのために、子どもたちもすっかり疲弊しているのである。しかも、鈴木氏の言う「だけと、ヘルプだけ続けると、なんでも大人のヘルプを期待する子どもになっちゃう。これは逆効果。」となる。

大人のヘルプで、どうやって子どもの独自な学習意欲を伸ばしていけるかが、「学び」の大切な要素となるのではないだろうか。
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