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素人だから言えることもある

プロシューマーの登場(マス消滅元年・4)

マス時代の福祉制度の終焉

高度成長期は「一億総中流」などと呼ばれて、日本国民全体がマス文化を存分に取り入れた時期だった。何しろ、年金・医療など社会保障制度そのものが、がっちりとマス化していたからだ。「福祉と政治、何が問題なのか、改めて考える。」で、
「第一に、年金や医療保険などが公務員、大企業、自営業といったように職域ごとに分立したかたちをとったことである。これは、雇用レジームにおいて企業あるいは職域ごとに男性稼ぎ主を囲い込むしくみが形成されたことに対応している

(中略)

第二に、福祉レジームの規模は小さかった。日本では、生活保障の軸が雇用レジームに置かれたため、社会保障支出は抑制された

(中略)

第三に、その抑制された社会保障支出が人生後半の保障、すなわち年金、高齢者医療、遺族関連の支出に傾斜したことである

(中略)

このことはいったん会社と家族が揺らぎ始めると、若い人々を支えるセーフティネットが脆弱であったがゆえに、ここに低所得リスクが集中することを意味する。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)

と引用したとおりである。日本だけの問題でもなく、世界全体の福祉制度が揺らぎ始めたのは、「マスから個人への動きは世界規模で起こっている(マス消滅元年・2) 」で取り上げた。

プロシューマーの誕生

したがって、マスに頼りきったシステムから、非マスのシステムに切り替えていかなければならない。そこで、トフラー氏が目をつけたのが、プロシューマーである。「すべてのブロガーはプロシューマーである。」で、
生産消費者 (せいさんしょうひしゃ、prosumer) もしくは生産=消費者、プロシューマーとは、未来学者アルビン・トフラーが1980年に発表した著書『第三の波』の中で示した概念で、生産者 (producer) と消費者 (consumer) とを組み合わせた造語である。生産活動を行う消費者のことをさす
なお、プロシューマーと言った場合はプロダクト(product、商品)と消費者を組み合わせたマーケティング用語、あるいはプロフェッショナル (professional)と消費者を組み合わせ商品に詳しい消費者といった意味で使用されていた場合もある。
(生産消費者-Wikipedia)
Wikipediaでは説明しているが、単純に生産活動を行う消費者のことだと考えると、トフラーの言う「プロシューマー」の言葉のイメージを損なう。そのWikipediaの概要では、
トフラーは、人々は市場を通じた交換に依る経済活動だけでなく、市場を通さない、自分自身や家族や地域社会で使うためもしくは満足を得るための無償の隠れた経済活動で多くの富を生み出しているとし、そうした市場外の生産活動を行う人々を「生産消費者」と呼んだ

トフラーが1980年に発表した著書『第三の波』では約一万年前に始まった農耕の開始による農業革命(歴史学で使われる18世紀の「農業革命」とは異なる)を「第一の波」、18世紀に始まった産業革命を「第二の波」と定義し、それに続く「第三の波」の訪れを訴えている。トフラーによると第一の波の社会の中では市場の占める範囲は小さく、生産活動の多くは市場を通さない生産消費者としての自分達が消費するための生産であった。第二の波が訪れた社会では生産者と消費者が分離し、生産消費者の役割も小さくなった。そして第三の波の社会では、社会の非マス化(均一性が失われること)や製品のカスタマイズ性の向上、生産消費者の活動を助けるサービスや製品の登場などにより分離した生産者と消費者が再び融合する傾向を示し、新しい形で生産消費者が復活すると説いた。

またトフラーは2006年に発表した『富の未来』で生産消費者の無報酬の仕事が生み出す金銭では数えられない富と金銭経済によって生み出される富をあわせ「新しい富の体制」と呼んでいる。(生産消費者-Wikipedia)

としている。トフラー自身は
金銭経済で販売するための財やサービスが作り出されるとき、それを作る人は「生産者」と呼ばれ、その過程は「生産」と呼ばれる。だが、金銭が絡まない簿外の経済に関しては、「生産者」にあたる言葉はない。

そこで1980年に刊行された『第三の波』で、筆者は「生産消費者」という言葉を作り、販売や交換のためではなく、自分で使うためか満足を得るために財やサービスを作り出す人をそう呼ぶことにした。個人または集団として、生産したものをそのまま消費するとき、「生産消費活動」を行っているのである。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上」講談社/p284)

例えば、インターネットで書くブログは、無給で書いているし、読むほうも課金されない。このように金銭のやりとりはないが、知識のやりとりはある。このようなブログや、ボランティア活動、子供のしつけなどはすべてプロシューマーである。問題は、これらのプロシューマー活動を経済的価値として評価されてこなかったことにある。それぞれの知識を正当に評価するシステムが作り出されなければならない。

また、このようなプロシューマーの登場は、僕は、生産者・消費者と切り分け、マス化していくことがナンセンスになったという意味に捉えている。流行語になった「無縁社会」が現すのは、会社・家族・地域・親戚などのマスからの脱落を意味しているのではないか。そして、「自分自身という個人的価値」の存在価値が脅かされているのではないか。社会環境はすでに、「マス」の時代は終わったのだ。それでも、人々はどこかに所属している事を求めている。

ネットを使ったブログと言う発信は、自分はここにいるという存在価値を訴え、新たなネットワークを求めているのではないのか。どこかに属しているのではなく、自分は自分らしく生きるのだという新しい価値を作り出そうとしているのではないだろうか。トフラーは、「富の未来」の最後にこう書いている。

いま起こっている革命が技術の動きのように見えるのは、それによって登場した技術が極端に目立つからだ。しかし、工業化、近代化と呼ばれているものと同様に、第三の波の革命も文明全体にわたる変化なのだ。株式市場の変動などの混乱はあっても、革命的な富は世界のほとんどの地域で着実に前進していく。

未来の経済と社会が姿をあらわしてきているので、個人も企業も組織も政府もすべて、過去のどの世代も経験しなかったほど急激な未来への旅に直面している

なんともすさまじい時代に、われわれは生きているのである。21世紀の新しい時代にようこそ。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P351)」講談社)


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