「無縁社会」とテレビドキュメントの限界
NHK「新春TV放談2011」から
相変わらず正月のテレビ番組は、大勢のお笑いタレントが登場して、盛んに視聴者に笑いを届けている。人々はこうやって周りに満ち溢れている不安や不幸を見過そうとしている。テレビは現実と幻想を橋渡しするものであるが、現実が厳しくなればなるほど、テレビの中は幻想に満ち溢れる。そんな時に現実を振り返る、異色な番組「新春TV放談2011」を見た。ほとんどは、2010年のテレビの回顧だったが、その中で、「無縁社会」についての会話が注目に値する。僕も、「無縁社会」については、「無縁社会と三ない主義」や「日本はどこで道を間違えたのか」等で言及している。ここでは、その個所を書き起こしてみたい。
橋本菜穂子(アナウンサー) (投書を読む) 新潟県すみれさん39歳女性、会社員の方、NHKスペシャルや追跡AtoZで放送された「無縁社会」。鈴木氏やテリー氏は、バラエティーの人間であり、森氏はドキュメンタリーの人間である。バラエティーでは、どんなに深刻な話でも、最後に解決策が示され、視聴者はカタルシスを感じることができる。したがって、視聴者に自分の周りにある不安を思い出させてはいけない。
「無縁社会」は他人事ではない。現代社会を反映しているし、自分がそうなったらどうしようと、将来のことを考えながら見ていた。」
ということです。
鈴木おさむ(放送作家) ぼくも見てて辛いんですよ。正直、チャンネル変えたくなるんですよ。でも、その、事実、こういうことが起きていて、自分にも起きえることかもしれないじゃないですか。どんどん、こうね、無縁なんていうか、まあ、親戚とか何もいない人がどんどん死んでいってというのを見てて、辛くてつらくてしょうがないんですよ。正直、後味悪くて、ただ、もう絶対一生忘れないと思うんですよ。まあ、こうなんだとか、こういう人がいるんだとか、自分の周りの人にもたぶんいるんだなということは、一生忘れないんですけど、だから、ああいうドキュメンタリーっていうか、ああいうものをテレビで流す意味っていうのは、何なのかなって考えましたけど、ちょっと。
森達也(映画監督・作家) あのー、今鈴木さんおっしゃったように、見ながらチャンネル変えたくなるわけですよね。テレビにとっちゃ、それ、本当は一番やられたくないことですよね、たぶん、実際にあれ見ながら、チャンネル変えた方いると思います。でも、それを恐れていたら、今度は、この分野はもう表現できなくなっちゃうわけで、てことは、市場原理の束縛から解放されている局でやるしかなくて、それはNHKですよね。やっぱり、NHKはこれからああいったテーマをどんどんやってほしいし、それは覚悟していると思いますよ。
テリー伊藤(演出家) 見終わった時に、どうしたらいいんですか。
鈴木 いや、それは。
森 見る側ですか。
テリー うん。
森 人それぞれでしょうけど、やっぱり、引きずりながら考えたり、作る側としては考えてくれってのが一番…。
テリー それで、投げ出しちゃっていいんですか。丸投げして。
森 いい、悪いじゃなくて、それ以上できないと思いますよ,ドキュメンタリーは。それほどの影響を与えられないと思います。
テリー 僕はね、あんまりそういうの、好きじゃないんですよ。というのは、易しいことは提案しているのに、難しいことはあんたかってに考えてくれ。あのー、ダメかもわかんないけども、こんなことがあるかもわかんない。こんなことだったら、もしかしたら、楽になるかもわかんない。楽しく生きれるかっていうことを、なに、そんなの無理だよって言われるかもわかんないけど、そこをやってもいいんじゃないかなって。
森 あのー、僕はもう、ドキュメンタリーっていうのは、作る側の主観であり、テーマであり、メッセージであると思っています。それは言い換えれば、当然、こうしてほしい、こうあってほしい、こうなりたいってあるわけですよね。あと、その、どう語るかは手法の問題であって、それはこれこれこうなんですよって言ってしまうと、飛びすぎちゃうんですよね、そうでなくて、自分はこうありたいと思うものを、見る側が考えてわかって、ああこれかと分かったほうが、はるかに獲得する力って強いんですよ。だから、それをそこまで何とか行ってほしいなって、ですから、今、テリーさんがおっしゃったような、こういうなんかこういうものがあるよ、こういったものがあるよって実は出してるつもりなんです。あとは、だから、取りに来てくれと、こちらが与えるんじゃなくて、ここにあるから、これに手を伸ばすなり、あるいは、まあ、声を出すなりしてほしいというね。たぶん、手法はいろんなありますよ、でもこうあるべきなんだという思いはだれにももっていると思います、作る人は。(NHK「新春TV放談2011」から)
そう考えると、鈴木氏が「ああいうドキュメンタリーっていうか、ああいうものをテレビで流す意味っていうのは、何なのかな」というのは、バラエティー番組が一番やってはいけない反則なのではないか。
また、テリー氏が、「あのー、ダメかもわかんないけども、こんなことがあるかもわかんない。こんなことだったら、もしかしたら、楽になるかもわかんない。楽しく生きれるかっていうことを、なに、そんなの無理だよって言われるかもわかんないけど、そこをやってもいいんじゃないかなって。」というのもそうだ。テレビというパッケージの中に解決策を入れることで、番組なりの形を整えるということではないのか。
結局、鈴木氏やテリー氏が言うのは、テレビ局側で編集権を持ち、視聴者に影響を与えたいというマスメディア側の意思がかいま見える。だから、視聴者に丸投げして、不安を与えるのは素人同然だと考えているのかもしれない。
一方、森氏の「自分はこうありたいと思うものを、見る側が考えてわかって、ああこれかと分かったほうが、はるかに獲得する力って強いんですよ。」という言葉は、ドキュメンタリーというものは視聴者と製作者が共同でつくるものという意識が表れている。ただ、バラエティーに比べて、ドキュメンタリーは視聴者に高いリテラシーを要求する。
民放で、ドキュメンタリーが深夜に追いやられていくのは、「市場原理の束縛」、つまりスポンサーがつかないからである。バラエティーはこういうもの、視聴者はこういうもの、テレビはこういうものという感覚が、民放関係者に蔓延し、いつの間にか視聴者と離れてきているのではないだろうか。