夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

タブレットの次の世界を考える

ハリー・ポッターの魔法新聞

フレキシブルディスプレイという技術を知っているだろうか。これは、フィルム状で、タブレットの表面なんかに貼るものだが、これが単体で画面が映るようになれば、映画「ハリー・ポッター」に登場する魔法界の新聞に似てくる。つまり、新聞の写真部分が動画で動くのだ。

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こうなれば、あらゆる映像を丸めたディスプレイに映し出すことができるし、スマートフォンでは小さすぎ、タブレットでは重すぎるなんてこともなくなる。

電脳コイルの電脳メガネ

僕は、見えないものが見える(電脳コイルからファンタジー・バーチャルを考える) で、
子供たちの間で大流行しているウェアラブルコンピューター。「オバケが見える魔法のメガネ」として遊び道具として使われている。常にインターネットに接続していて、メガネをかけると慣れ親しんだ実際の街並みに、これをデータ化したバーチャルな街並みが重なって映し出される。メガネを使用するとゲームをしたり電脳ペットを飼ったりして電脳世界で遊ぶことができる。違法なソフトを使うと、メガネから光線を発射したりもできる。しかし、違法なソフトを使いすぎると、ウィルス駆除ソフトのサッチーにデータを消去される危険性が高くなる。(電脳コイル|磯光雄監督作品‐電脳メガネとは‐ )
と電脳メガネの説明を引用している。いわば、セカイカメラは、現在、タブレットやスマートフォンで見える世界が電脳メガネを通して見えることができる。この電脳メガネはどこまでできているか。昨年のCEATEC JAPANでドコモがこんなものを出している。

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形はともあれ、タブレットを持たなくてもいいというのも魅力的だ。

世界中はスケスケ社会

頓智ドット CEO 井口 尊仁氏は、「スケスケ社会」を提唱している。
井口氏は、「頓智ドットがセカイカメラをサービスインをして1年。カメラビューを使ったARの次の新しいジェネレーションをやろう、もしくはARの再提示をしようと考えた」とDOMOがこれまでの違う重要な構想であることを表明。「現実の社会で、同じ時間、同じ場所にいる人が接点を持てないのはもったいない。そこで、リアルワールドにおける空間や体験、モノを通じたコミュニケーションができるようなフロントエンドを生みたいと考え出てきたのがDOMOです」と説明する。

「例えばハイテクの展示会場など、同じ関心を持つ人同士が集まる場所で、“あ、こんな人がいるんだ、つながりたいな”・“会場でこんな話題が盛り上がってるのか”等ということがスケスケになり、それにより「DOMO!」とコミュニケーション機会が格段に増えるわけです。このようにリアルワールドのソーシャルネットワークになり得る、それがDOMOです」(井口氏)。(スケスケ社会を実現する頓智ドット「DOMO」構想が明らかに

これはデバイスの形の問題ではなく、新しいコミュニケーションサービスになるが、例えば、人だかりの中で、この人が何を考えているかがわかれば、近づきやすいと考えるだろう。もちろん、どこまでオープンになるかは、それぞれ問題がでてくるかもしれない。ただ、街を歩いている人に、直近のツィッターがその人物にかぶせて映し出されたら、結構面白いかもしれない。

どこでもテレビ

かつて、パソコンはディスプレイ、テレビはブラウン管と、画面の形は似ていたが、全くの別物だった。現在では、テレビとパソコンが同じディスプレイに同居しているなんてことも不思議ではなくなった。ノートパソコンやスマートフォンは、家の中だけで動いていたパソコンを外に持ち出したことを意味する。それでも、クラウド化しなければ、データもUSBメモリーなどに保存しなければならない。しかも、そのことはデータ流出の危険も増やした。クラウド化で、安全を保ちながら、どこでも好きなように見られる時代が近づいている。僕は、久夛良木氏は、クラウドについてどう考えていたか(ホームサーバの戦い・第61章) で、久夛良木氏は、こんなことを言う。
久夛良木氏は今後、あらゆる動画がネット上に存在し、テレビはそれを映し出すだけの装置になると予言する。「IPTVになれば、無数のコンテンツが世界中に存在することになる。電波の場合は周波数が有限のため、チャンネルという概念があったが、これからはチャンネルではなく、コンテンツを見るというエクスペリエンス(経験)の時代になる」(久夛良木氏)

ユーザーはいつでも好きなときに、好きな端末でネット上にある膨大なコンテンツの中から、好きなものを楽しめるようになるというのが久夛良木氏の考えだ。これまでユーザーは、テレビ局が放送した番組をリアルタイムに見るか、HDDレコーダーなどに録っておく必要があった。しかし今後は、ネットにつなげば好きなものを自由に視聴できるようになると予測する。

今まではチャンネルのあるものがテレビだった。しかしこれからは、画面が付いているものはみんなテレビだということになる。どこでもドアのように、見たいものがすべてどこでも見られるようになる」(久夛良木氏)(久夛良木健氏と麻倉怜士氏が描く、テレビの未来とは)

ネットはタブーを破りやすい媒体

先ほど述べたように、ネットとテレビはどんどん融合してくる。どこでもテレビが見られるということは、どこでもネットができるということだ。「スケスケ社会」と「どこでもテレビ」、この2つがそろうと問題になるのが、プライバシーと著作権の問題だ。クラウド化によって、きちんとユーザーと著作権がしっかりと結びつくことが重要になるだろう。また、人間は自由に何でも語れると勘違いする人がいるかもしれないが、ツィッターの不倫スキャンダルが物語るように、一人一人が自らの権利意識を高める必要が出てくるのではないだろうか。映画「誰も守ってくれない」のパンフレットの中に、キーワードとして「タブー」という項目がある。
<タブー>
オウムで、何かが「タブー」を超えてしまった。戦争でも使わなかったサリンが使われた。「タブー」とは、やってはいけないこと。それはたぶんに感覚的なものだ。犯罪とは別に僕らがやってはいけないこと。それを軽々超えてしまった。

ネットもそうだ。「タブー」を超えている。いま、ネットでは「正義」という名の下に「タブー」が超えられているような気がする。人それぞれの中に感覚的にあった「タブー」が、いま崩壊しかけているような気がする。おそらくネットは「タブー」を破りやすい媒体だったのだ。(「誰も守ってくれない」プログラムより)

僕は、「誰も守ってくれない」(君塚良一監督)で「正義を振りかざすもの」というエントリーを書いている。この映画は殺人犯の妹をマスコミから守る刑事を描いた映画である。そのエントリーの中で、
映画の始めのほうで、容疑者の家族を保護するために、離婚手続きをして、母親の姓にもどし、父親は、母の婿養子になる手続きがされることには驚いた。容疑者は未成年であるが、苗字から家族の居場所が知られることを恐れたからだ。だが、マスコミは執拗に追いかける。新聞記者が「被害者は容疑者の家族にも死んでお詫びをしてもらいたいと思っている」マスコミ特有の、自分の立場を被害者に成り代わり、自分こそ正義であると思い込んでいる。(正義を振りかざすもの)
と書いた。マスコミですら、正義感に駆られて行動しているのに、全く無関係なネットユーザーはどうか。無関係をいいことに、平気でタブーを破るのではないか。君塚監督は、こう言う。
正義って胸に秘めておくものだったんですね。いまはみんなそれぞれが孤立してしまって、孤立をうめる方法もなくて、誰を攻撃していいか、信じていいかわからないときに、おそらく別のアイコンとして正義という言葉が出てきたと思う。かつての“正義の名の下に”という言葉の“正義”じゃない。正義という言葉を使って攻撃することで一体感を得たり、自分が生きている証を作ろうとしている。孤立を解消するための言葉にすぎないし、ねじれているし、間違っていると思う。それは正義じゃないよ………。正義はそれぞれが胸に秘めておくべきものだと、僕は今でも信じています。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
また、グーグルのエリック・シュミット氏は、
同氏は「人々は、記録が残る世界で生活しているということについて、今よりもはるかに注意深くなるだろう」と述べた。いたるところにカメラがある、ということにも気を配る必要があるだろう。
Schmidt氏は「常に、何らかの形でメディアに露出していることになる。誰もが携帯電話を持つようになり、携帯電話にはカメラがついているわけだから、誰もがカメラを持っているということになる。誰もがデジタル写真のカメラマンなのだ」と説明した。(グーグルCEO、新メディアとその政治的影響を語る)(現代社会に完全なプライバシーなどは存在しない)
結局、自分のプライバシーは自分で守らなくてはならない。映画の刑事役の佐藤浩市氏は、
一見、ネガティヴにも聞こえるけど、現実的には人と人とのつながり方を自分が認識しているからこそ“誰も守ってくれない”んだと。自分でやらなきゃいけない。自分で守らなきゃいけない。そう言える意味合いもこのタイトルには含まれてると思います。(「誰も守ってくれない」プログラムより)
無縁社会になり、人間はネットによって、どんどんつながりを求めるだろう。だが、一方で、彼らは簡単に他人になりきることができるのだということも忘れてはならない。
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