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「USTREAMがメディアを変える」から読み解くテレビ局の変質

AVライターの小寺信良氏の「USTREAMがメディアを変える」(ちくま新書)を読んだ。

小寺氏は1980年代から10年以上テレビ局の編集マンをしていたそうだ。その頃と現代のテレビ局を比べて興味深い話があった。その中でいくつか取り上げてみる。

(1) 制作セットが安っぽくなった

たとえばスタジオ収録物でも、カメラのカット割りを見ていると、全体を映した構図、いわゆる「引き絵」がない。引いたと思ったら、画面の左右までセットが足りず、スタジオの汚い壁が見えていたりする。この時代、ハイビジョンサイズ未対応は言い訳にならないはずだ。

また昔に比べて、タレントの座り位置が、ものすごく密集している。特番は別として、レギュラー番組ではもはや大きなセットが組めなくなっているのである。お笑い番組でも、漫才やトークなど、1セットでいけるものばかりだ。本格的なコントは、スタジオ費やセット、衣装費がかかるので、やらせてもらえない。(小寺信良著「USTREAMがメディアを変える」ちくま新書)

確かに、一見華やかなスタジオだが、ほとんどの番組はそのセット以外から出たことがない。しかも、コント番組がどんどん減っているような気がする。安上がりに、安上がりにと向かっているようだ。

(2) 作り手の世代交代がない

80年代のギョーカイでは、テレビの編集マンは30歳でアガリと言われていた。つまりそれぐらいになると徹夜徹夜の現場についていけなくなるし、元気のある若手がどんどん台頭してくるので、管理ポストへ異動するわけである。

しかし、バブルが崩壊したあたりから、事情が変わってきた。現場に若手が入っても、すぐに辞めてしまって続かない。したがって今では30歳すぎ40歳すぎの編集マンが、自分より年下の局プロデューサーに薄くなった頭を下げながら、同じ現場で同じ立場で仕事を続けている。昔のテレビ業界には、頑張れば上にいけるという、ある意味天井知らずのところがあった。しかし全盛期に人を取りすぎたせいで、大量に上がつかえてしまった。(小寺信良著「USTREAMがメディアを変える」ちくま新書)

(3) 搾取構造の階層化

2007年に発覚した「発掘!あるある大事典?」のねつ造問題をきっかけに、番組制作の発注が子供、孫、ひ孫請けにまでなっていることが多くの人に明らかになった。

筆者がバラエティ番組の編集者として働いていた1980年代では、これほどまでに階層構造にはなっていなかった。多くの番組は、だいたい局から直接受注した制作会社自身が制作していたものである。せいぜい担当ディレクターが制作会社の契約社員、といったぐらいの入れ子構造だった。

これが後に過剰に階層化されていったのは、やはりバブル経済の崩壊の影響が少なくない。 バブル期というのは、多くの才能のある人が次々に会社を飛び出し、フリーランスとして独立していった時代だった。なまじ会社で給料を貰って制作に従事するより、一本単価、あるいは時給単価で貰った方が、はるかに稼ぎが良かったからである。


しかしバブル崩壊後は受注も厳しくなり、生臭い話で恐縮だが、テレビ局とのパイプが太い製作会社しか受注できなくなっていった。 そうなるとフリーランスは、孫請け、ひ孫請けのパーツとして入るほかない。これでは稼ぎにならない。そこで少しでも上流で受注できるよう、数人のフリーランスが集まって会社を作る。すると今度は会社を存続させるために、現場に出す人間を安く雇い入れる。

この構造が延々と続き、入れ子構造のようなひ孫請けひひ孫請けが発生し、現場には安いギャラでもそこにしがみつくぐらいしか居場所がないような人間が、大量に吹き溜まることになる。(小寺信良著「USTREAMがメディアを変える」ちくま新書)

(4) ひっぱりCMと巻き戻しの横行

視聴者を引き付けておいて、いいところでCMに入る手法を、業界では「ひっぱる」と言う。筆者がバラエティ番組を編集していた1980年代から徐々に、「ひっぱる」手法が定着していった。民放のテレビ番組制作者にとって、語りたいストーリーのどこにCMを挟むかは、悩み多き問題である。今多くの人はこの「ひっぱる」手法を、スポンサーのCMを見て欲しいからやっていると受け止めているようだが、そもそもの発祥は違っていた。

それは、「CMの後も引き続き興味を持って番組を見ていて欲しいから」という理由で生まれた手法だったのである。つまりCMを見せるというよりも、番組視聴率を下げないようにするという工夫だった。番組視聴率というのは株価のようなもので、上がりさえすればそこに絡んでいるみんなが幸せになる。努力目標として非常に単純化できる仕掛けなのである。

「ひっぱる」手法と時を同じくして出現したのが、「巻き戻し」である。これはCM開けの番組本編で、CMに入る前のシーンをもう一度見せる手法を指す。この手法の出現は、ストーリー展開の演出論からすれば「ひっぱる」とセットの関係となる。

ストーリーの山場は、直前から積み上げてきた謎や緊張感といった助走部分がないと、うまくインパクトを与えることができない。CM前でこの助走部分だけを見せておいて、CM開けでいきなり山場を持ってくると、ちっとも山場に見えないという問題が出てきたのである。そこでCM開けに少し話を前に戻して、視聴者の意識を番組に引き戻し、助走をつけてから山場を見せる必要があったのだ。

最初の頃はこの巻き戻しも、今のようなスタイルではなかった。せいぜい直前の話を10〜15秒程度で振り返るぐらいのことで、しかも前ロールの最後のシーンをそのままくっつけるということはしていなかった。当時は、ストーリーは戻すが、編集ポイントや使用するカットを変えていた。つまり巻き戻し部分も、いちいち編集し直していたのである。

実はテレビ番組の編集セオリーとして、「同じ番組内で同じ編集を二度やらない」という暗黙のルールがある。もちろんクイズ番組や解説・検証番組の問題部分など、ちゃんと理由があるケースは別にして、である。すでに視聴者に見せた同じシーンを丸ごともう一回見せるという手法は、放送事故と取られる可能性があり、編集論として、「そりゃやっちゃダメだろう」とされていたのである。

これが今のようにかなりの時間分、しかも丸ごとコピーした状態で巻き戻すようになったのは、主としてザッピング対策である。1980年代半ばから、テレビのチャンネルリモコンが普及した。もちろんリモコン対応テレビ自体はもっと前から存在するものだが、昔はテレビなど一度買ったら10年ぐらいは買い換えなかったので、普及のタイミングは登場よりもずっと遅れるのである。

リモコンによってCM中に別のチャンネルを見るという行為が一般化すると、一周して最初の番組に戻ってきたときには、ストーリーが進んでしまって、わからなくなってしまう。そうなると番組の続きを見る意欲が減退し、見なくなる傾向が表れた。それを救うために、大きく巻き戻す必要が出てきたわけである。(小寺信良著「USTREAMがメディアを変える」ちくま新書)

これらの事柄が重なってくると、テレビの内容はどんどん薄まり、つまらなくなっていく。金がないなら頭を使えばいいのだが、もともと今のテレビ局の管理職はそういう発想ができないという。
予算がないとおもしろいものが作れない理由は、今テレビ局内でエラくなっている人たちが、低予算での番組作りの経験がないというところが一番大きい。バブル華やかなりし80年代は、「オマエら頭ねえんだから金使え!」とハッパをかけられていた、そういう時代だった。

テレビ番組とはすなわち、多大な金と時間をかけてバカをやって見せる、そういうものだったのである。バカの部分は、ロマンを追うとか違うものにいろいろ置き換えてみると、なんでもあてはまる。(小寺信良著「USTREAMがメディアを変える」ちくま新書)

テレビとは、結局「金持ちのおもちゃ」なのかもしれない。視聴者が貧乏になれば、テレビの内容が視聴者とミスマッチになってくるのは当然のことである。
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