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素人だから言えることもある

善意の暴力(精神論はやめよう・2)

ひとつになるのは日本人か日本国家か

フジテレビ「ひとつになろう日本」、日本テレビ「つながろうニッポン! 」など、新聞や週刊誌だけでない。テレビも局を上げて精神論が始まった。もちろん、出演するタレントに問題はない。彼らは純粋に善意で参加しているのはわかるし、自分として何ができるかを考えて参加したのだと思う。だが、ACCMの「日本の未来を信じよう」と同じような違和感を感じる。

例えば、それは、これらのCMは「ひとつになろう日本」「つながろうニッポン!」「日本の未来を信じよう」と、対象が「日本人」でなくて、「日本」である点だ。僕たちは、「日本」は「日本人」の意味だと思っている。日本人だから信じようと思う、日本人だからひとつになろうと思う。日本人だからつながろうと思う。だが、この「日本」が「日本」という国家であるとしたらどうだ。戦時中の「挙国一致」「進め一億火の玉だ」などというスローガーンとともに、日本という国家のもとに国民を集めるというイメージが浮かんでくる。

これらのスローガンの「日本」を「日本国家」と読み替えてみよう。「ひとつになろう日本国家」「つながろうニッポン国家!」「日本国家の未来を信じよう」。そうなると、このスローガンが自己矛盾を起こしてしまう。今テレビ局が報道している原発問題で、結局、政府も、東京電力もバラバラで、情報を共有していない。「ひとつになろう」「つながろう」「未来を信じよう」と言われても、信頼に足る国家ではないし、最初にお前たちが「ひとつにつながれよ」と言いたいくらいだ

民主党は自民党と大連立を模索しているようだが、初めから「タコツボ」化している人たちである。一緒になっても、国民をがっかりさせるだけなのはまちがいない。

過去に戻ることはできない

この自己矛盾に満ちたキャンペーンは、結局、ノスタルジアであり、日本が輝いていた過去の栄光を求めているようにも見える。典型的な石原氏の発言を見ると、戦時中の「滅私奉公」を求めているようだ。言い換えれば、「国民は黙って国家についてくればいい」と言っているのである。しかし、インターネットで一人一人が発言する世界でそれは不可能だ。毎日のように、原発報道をしているのに、不安を感じるなというのが無理なように、話題を抑え込むことはできない。戦時中は、言論統制があったからこそ、「挙国一致」が可能になったのである。

震災をなかったことにはできない。日本のすべての文明はこの瞬間に切り替わってしまったのだ。アルビン・トフラーが「富の未来」でこう言っている。

新しい文明が古い文明を侵食する時期には、二つをくらべる動きが起こるのは避けがたい。過去の文明で有利な立場にあった人や、うまく順応してきた人がノスタルジア軍団を作り、過去を賞賛するか美化し、まだ十分に理解できない将来、不完全な将来との違いをいいたてる。

見慣れた社会の消滅で打撃を受け、変化のあまりの速さに未来の衝撃を受けて、何百万、何千万の欧米人が工業経済の名残が消えていくのを嘆いている。

職の不安に脅え、アジアの勃興に脅えているうえ、とくに若者は映画、テレビ、ゲーム、インターネットで暗黒の未来のイメージにたえず接している。メディアが作り上げ、若者の憧れの的とされている「スター」は、街角のチンピラや傍若無人な歌手、禁止薬物を使うスポーツ選手などだ。宗教家からはこの世の終わりが近いと聞かされている。そしてかつては進歩的だった環境運動がいまでは大勢力になり、破局の予言をふりまいて、「ノーといおう」と繰り返し呼びかけている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P332)」講談社)( 2011年は「マス消滅元年」になるか)

テレビ局の「ひとつになろう日本」「つながろうニッポン!」「日本の未来を信じよう」というキャンペーンが、ノスタルジア軍団の最後のあがきに見えるのはなぜだろうか。
いま起こっている革命が技術の動きのように見えるのは、それによって登場した技術が極端に目立つからだ。しかし、工業化、近代化と呼ばれているものと同様に、第三の波の革命も文明全体にわたる変化なのだ。株式市場の変動などの混乱はあっても、革命的な富は世界のほとんどの地域で着実に前進していく。

未来の経済と社会が姿をあらわしてきているので、個人も企業も組織も政府もすべて、過去のどの世代も経験しなかったほど急激な未来への旅に直面している。

なんともすさまじい時代に、われわれは生きているのである。

21世紀の新しい時代にようこそ。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・下(P351)」講談社)( 無用知識と無用人生)


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