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日本人に民主主義は合わないのか~情報共有から始めよう

日本は会社主義社会だった?

日本の年金制度や社会保障制度は、高度成長期にできた。僕は、福祉と政治、何が問題なのか、改めて考える。で、北海道大学政治学教授の宮本太郎氏の著書「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」の言葉を引用している。
日本では、雇用レジームにおける雇用保障が、福祉レジームの機能の一部を代替している。この傾向は、1970年代の半ばからはっきりしてきたが、こうした雇用レジームとの連携の結果、日本の福祉レジームそのものは次のような特質を備えるにいたった。

第一に、年金や医療保険などが公務員、大企業、自営業といったように職域ごとに分立したかたちをとったことである。これは、雇用レジームにおいて企業あるいは職域ごとに男性稼ぎ主を囲い込むしくみが形成されたことに対応している。雇用保障と社会保障の対応関係は、さらに厚生年金基金のような公的年金企業年金化によって補強された。その結果、日本では企業、業界などを単位として雇用保障がなされ、これを社会保障が補完する「仕切られた生活保障」とでも言うべきしくみが形成されたのである。年金などの「一元化」の課題は、今日まで持ち越すことになった。

第二に、福祉レジームの規模は小さかった。日本では、生活保障の軸が雇用レジームに置かれたため、社会保障支出は抑制された。雇用保障は男性稼ぎ主を対象としていて、とくに大企業ではその賃金は家族の生活費も含めた家族賃金という性格を強めたために、雇用レジームが家族主義を支えることになった。(中略)また、介護や保育などの公共サービスも、近年になって介護保険などでサービス供給の拡大がはかられるまでは、広がりを欠いていた。

第三に、その抑制された社会保障支出が人生後半の保障、すなわち年金、高齢者医療、遺族関連の支出に傾斜したことである。(中略) 生活保障における雇用保障の比重が高く、したがって人生前半に関しては会社と家族が諸リスクに対応したため、狭義の社会保障は、会社勤めから退き家族の対応力も弱まる人生後半に集中することになったのである。だが、このことはいったん会社と家族が揺らぎ始めると、若い人々を支えるセーフティネットが脆弱であったがゆえに、ここに低所得リスクが集中することを意味する。(宮本太郎著「福祉政治−日本の生活保障とデモクラシー」有斐閣Insight)

このことにより、福祉制度が極端に企業に依存する形になってしまった。不況に入り、雇用が正規・非正規に分かれると、非正規社員は圧倒的に不利になった。また、このような極端な企業依存は、他の企業や地域との横のつながりがなく、「24時間働けますか」的なモーレツ社員を生み、正社員には過重労働を、非正規社員には不安定な雇用となった。

このような縦割りシステムは、企業ばかりでなく、家族も教育も地域もあらゆる社会が企業とともに縦割りになっていく。そして、かつてのような1億総中流は幻想となった。特に問題なのは、マスコミによる一方的な情報過多である。どうしても、視聴者は受け身になり、学校でも企業でも話を合わせるために夕べのニュースを話題にした。それを話題にしなければ、企業の中でも浮いた存在になってしまうからだ。つまり、縦割り社会の中で横のつながりを保つために必要なのは、唯一マスコミから流される情報であった。

消費型から蓄積型へ

インターネットが登場することで、この情報の取り扱い方が変わっていく。マスコミによって流された情報を消費するだけで過ごしてきた受け手が、その情報を自分なりに蓄積できるようになったのである。一握りのコレクターや研究者に限られたものが、インターネットを持っているすべての人間が共有できるようになったのだ。

だが、現在、インターネット上で流れているのはマスコミの亜流的なサイトが多い。その場その場でマスコミの流した情報を話題にするが、それは次の瞬間、消えている。なぜ、蓄積したデータを過去のデータと比較しないのか。脊髄反射的に、揚げ足を取ったり、攻撃するためにレッテル張りすることではなく、もっと自分の知識として活用しようとしないのか。

今回の震災で分かったことは、誰も真実を知らないということだった。いわゆる専門家たちは、マスコミという「揚げ足取り」消費型システムにより、タレントと同じように消費されていく。

そうではなく、間違ったら修正すればよい。失敗したら学べばよい。それが、蓄積型のインターネットシステムにふさわしい。

まず、最初に、お互いに情報を持ち寄り、優れた知識なら引用して、情報の共有を図ることだ。どこかの専門家に頼ることではない。それは、マスコミと同じく消費しているにすぎないのだ。たとえ間違った専門家でも、学ぶべきところはあるはずだ。まず、一人一人がこの方面は強いという情報を収集し、共有していくことで、受け身の民主主義でなく、本当の民主主義の土台が築かれる、と僕は思う。

僕は、tsujirincof氏のブログものづくり社長 VS ホリエモンのコメント欄でこう書いている。

僕は「ブログにおいて情報の共有」の必要性を感じています。データベースとしてのブログという意味で、いろんな本から引用するのは、その材料を元に読者に考えてもらいたいからです。しかも、それをベースに、また新たな発想が生まれ、他の人の考えと結びつく。普通だったら、ニュースに関してコメントを出すだけで、話はそこで終わってしまいます。その時話題の、映画やベストセラーの本を話題にしても、その映画を見た人や読んだ読者としか話はかみ合いません。そうなると、いくら情報を発信してもその場限りでおわってしまいます。ブログはそんなものと思ってしまえばその通りですが、それではブロガーの考えは深まらないでしょう。僕が、過去のエントリーを何度も引用するのも、その場限りで終わらせず、いわば蜘蛛の巣状に知識と知識が広がる場所でありたいと思うからです。もし、そのブログに行けば、また新たな発見がある、そんな場所にしたいと思っています。
追記

佐々木俊尚氏からツイートがありました。

情報を消費型から蓄積型にしよう、ってとても賛成。揚げ足とって脊髄反射して消費するのではなく、自分の中に咀嚼しながら蓄積していく。ネットだから可能に。/日本人に民主主義は合わないのか~情報共有から始めよう http://j.mp/j6Jm2j

http://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/72806020581306368
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