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素人だから言えることもある

評論家は政治家になるべきではない

一億総評論家の時代

そもそも評論家の資質と政治家の資質は違うのではないか。例えば、テレビで、政治家をやり込める評論家がいる。視聴者は、その通りだと思い、拍手喝采をする。そして、この評論家が政治をすればと視聴者は考え始める。一方、評論家の方も、ひょっとして自分は政治家に向いているのかもと考える。人気が上がれば、現実に当選できる。だが、本当にそうなのだろうか。それは野党も同じである。

あれほど、野党時代に輝いていた菅直人氏がこれほど凋落したのはなぜか。野党は、与党を攻撃したときにメディアに載る。メディアではそれ以外は、与党の話ばかりだ。しかも、与党の悪い話ばかり。メディアに登場する政治評論家が与党の良い話をするはずもない。したがって、野党もメディアも同じ立ち位置である。インターネット時代になるとそれが加速する。一億総評論家となり、失言や失敗など揚げ足取りばかりである。これでは、国民を指導する政治家が登場するはずがない。

もう一度、政治とは何かを考えなければならない。政治家は何のためにあるか。選挙で自分たちの意見を託した人間である。1億人の国民がバラバラでは、さまざまな混乱が生まれる。できるだけ混乱をなくすためには、社会的ルールが必要だ。その社会的ルールをつくるには、国民から信任される必要がある。

菅直人氏の「総理大臣の器」では、三反園氏のあるべき「総理大臣の器」としてこんな言葉を紹介した。

卑怯なことをせず、表舞台で誠実に日本の将来をどうするかを語れる人。しかも、一輪の野花をきれいだと思う感受性豊かな、人間味のある人、そして大局的に物事を見られる人、勇気と決断力のある人だ。なぜならば、総理はあらゆる場面に直面し決断しなければならない。勇気がなければそれができないからだ。冷静な思考が、その前提であるということはいうまでもない。そして、創造性豊かな人、その原点となる夢を語れる人……。(三反園訓著「総理大臣の器」講談社+α文庫)
この言葉の中に様々なイメージがあふれている。キーワードを取り上げてみると、

卑怯でない 誠実 将来を語れる 感受性豊か 人間味ある 大局的に物事を見られる 勇気 決断力 冷静な思考 創造性豊か 夢を語れる

つまり、この言葉の中にあるのはすべて総理大臣個人の人間性であり、決して、相手をやり込める批判力や評論力ではないということだ。そこでこれらの言葉から、これから必要な政治家の資質について考えてみたい。

ビジョンかある

「将来を語れる」「夢を語れる」とは、ビジョンかあるということである。日本をこれからどうしていきたいかの展望があるということだ。それには、当然「大局的に物事を見られる」力が必要だ。自分の狭い世界の中で考えていると、結局自分の保身しか考えられなくなる。

僕は、現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で、現代日本人の問題点として「対話がない」「考えない」「希望がない」の3つがあることを述べた。その中で、「考えない」については、「先のことを考えられない人たち」でこうまとめている。

考える人とは、空間的に全体を客観的に捉え、時間的にも将来への展望を持ち、それに沿った行動に責任を取る。ところが、考えない人はいずれもが欠けている

(1) 自分勝手の論理(客観性の喪失)
「テレビが作った考えない人」でこんなことを書いた。テレビ番組というのは、限られた時間のために、わかりやすく単純化することに力を注がれる。複雑で一部の者しかわからない番組では失敗なのだ。
テレビに真実を求める一方、本当に真実かどうか確かめもしない。(事実・真実・知識への安易な取り組み)
テレビに出た科学者を簡単に信じてしまう。自分の都合のよい事実だけを信じる。(専門的知識の安直な利用)
テレビなんてそんなもんさと他人事にしてしまう。(当事者意識の欠如)

(2) 明日のことを考えない(展望の喪失)
「個人情報が輸出される「フラット化する世界」」でトーマス・フリードマンの「フラット化する世界」の中から、サミュエルソンの言葉を引用した。

「われわれはいまも自転車競争の先頭を走っていて、あとをついてくる選手の空気抵抗を減らしてやっているが、その差は縮まっている。
最先端の国というアメリカの立場は、どんどん危なっかしくなっている。なぜかというと、蓄えがきわめて乏しい社会になってしまったからだ。
すべて自分、自分、自分、そして今?他人や明日のことは、まったく考えない。問題は指導者ではなく有権者だろう・・・・・・昔は、科学者になるような頭のいい子は難しいパズルに取り組んでいた。いまはテレビを見ている。気が散ることがあまりに多いのも、自分、自分、自分、そして今、という考え方が蔓延している理由だろう」

(3) 自分が何をしなければならないのかを考えない(責任の喪失)
また、「インターネットと人類の縮退」や、「まじめに働く時代は終わったのか」で、引用した畑村教授の言葉、

畑村 これもコミュニケーションの一種といえますが、人とシステムの関係もおかしくなっていると感じます。人とシステムの間にも、やりとりしなければならない情報はたくさんありますが、人々の多くは情報を狭い意味でしか捉えていないという感じがします。
情報をやり取りするということが本質的にどういう意味を持ち、自分が何をしなければならないのかを、きちんと考えている人はほとんどいません。だから日本の社会全体で、ものすごい退歩が起きています。人間が致命的にダメになる状況、“縮退”へと急激に進んでいるのです。(「失敗学」のすすめ)

このような考えない人たちは、そして、ひたすら自分の利益になることしか考えられなくなる。決してそのことがこれからどうなるかを考えることができないのである。

評論するという行為はどういう行為であるか。マスコミの体質上、その時その時の問題を短時間でまとめなければならない。だが、そのことは、全体を見渡せないことを意味する。攻撃される与党は守る側に回らざるを得ない。一面では、自己保身からくる面がある。野党の立場からは、与党を攻めていれば、自分たちは傷つかない。同じように、マスコミを通して叩くときも、自分たちが叩かれることはほとんどない。

一方、政治家は、自分を捨てなければならないこともある。大局的に立つということは、自分の立場を保守する発想を捨てなければならない。ビジョンがあるということは、考える人ということである。

冷静な対話ができる

評論家が熱くなると、揚げ足取りが多くなる。そうなると与党は、失言をとられまいと話をしたがらない。そのため、対話は進展しない。

政治家は、国民との対話の中から、傾向をまとめ、何を求めているかを冷静に判断しなければならない。ところが、政治家が国民に対して、上から目線でいると、国民はいかにも「政治家にやっていただく」という気持ちになり、こんなことをお願いしてはと我慢をしてしまう。冷静な判断や冷静な対話をするには、平等な立場が必要である。

僕は、映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーションでこんな言葉を引用した。

——対話ができる人たちは、ぶつかりながらも円滑に生き、対話できない関係はダメになってしまいます。小春の元夫の「向き合って何の話をするんですか」という台詞が象徴的でした。

あれはイプセンの「人形の家」のなかの有名な台詞なんです。「何を話し合えと言うんだ」「ちゃんと向き合って、真面目な事を真面目に話したい」というのはノラの台詞。小春と結婚した医者の卵にはまったく理解できないことで、夫婦の間には真面目な問題なんてないのではないかと思っている。彼は生活者としての知的レベルはかなり低いと思うんですよ。夫婦に話し合うことなんて必要ないと思ってるんだから。そうじゃないんですよ、夫婦だからこそ、きちんと真面目に話し合わなきゃいけないということは19世紀のイプセンがすでに語っていることでね。(「おとうと」パンフレットより)

夫婦の関係でも対話が必要であるのはもちろんだが、国民と政治家の関係も同じである。

政治家にもテレビに向いている政治家と、テレビに向いていない政治家がいる。テレビに向いている政治家は、短時間に応答できる評論家体質である。テレビ局は、そのようなテレビ政治家を求める。テレビに出演する政治家は知名度が上がり、選挙に有利である。しかも、そのようなテレビ政治家は、評論家やマスコミの意見に振り回され、国民一人一人の意見を無視してしまう結果になりかねない。

一方、テレビに向いていない政治家は、時間をかけてじっくり国民一人一人に耳を傾ける。そのような政治家ほど、テレビに登場しないので、当選が難しくなる。しかも、国会がテレビ政治家ばかりになってしまえば、国会と国民の間にマスコミが介在することになる。

希望を持っている

評論家の体質は、その場その場で対応できるが、大局的判断には向いていない。しかも、楽観的より批判的・悲観的である。僕は、希望のない国から希望の国へで、こんな言葉を引用した。
「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。(希望学とは
この「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」という言葉を政治にあてはめて思い出されるのは、マニフェストだ。マニフェストとは、
従来の選挙公約とは異なり、何をいつまでにどれくらいやるか(具体的な施策、実施期限、数値目標)を明示するとともに、事後検証性を担保することで、有権者と候補者との間の委任関係を明確化することを目的としている。つまり、いつ(実施時期)の予算(目標設定)に何(具体的な施策)を盛り込んで実現させるのかを明文化するものであり、必然的に政権を取り予算を制定し行政を運営することが条件となるため、「政権公約」という訳があてられ2003年の衆議院議員総選挙以降定着しつつある。(マニフェスト-Wikipedia)
つまり、具体的な施策、実施期限、数値目標によって、「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」が可能になる。だが、現実には民主党マニフェストは不可能になった。したがって、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。はずである。これは、評論家体質の野党やマスコミがつぶしたのか、そもそもマニフェスト自体に具体性がなかったのか。ともかく、マニフェストを掲げることは否定しない。少なくとも、その政治家たちには希望があったからである。
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