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素人だから言えることもある

非現実が現実になる時(現実がひっくり返る年・4)(ネタバレ注意)

ここは現実じゃない

WOWOWで「インセプション」が放送された。この映画については、夢の中のミッション「インセプション」考(ネタバレあり) で書いたが、その中で、自殺したモルの話が出てくる。
人間には、しばしば夢の世界に行ったきり、戻ってこれない人がいる。モルは自殺したが、なぜかコブの夢の世界に登場する。それは、コブがモルのことをあきらめきれないからだ。だから、さかんにモルは「ここは現実ではない」「死ねば現実に戻れる」と言うのだ。(インセプション」考(ネタバレあり) )
改めて、見直すと、モルが「ここは現実ではない」と言ったのは、コブがモルに対してインセプションをしたからだった。つまり、この映画の「インセプション」の成り立ちの原点は、コブがモルに対して成功したからである。
すべてが自分達の思い通りになる夢世界に入り浸り、もはや夢と現実の区別がつかないどころか、現実の方を封印してしまったモルを、何とか子供達の待つ現実世界に帰したかったコブが考えた苦肉の策は、「ある単純なアイデア」をモルの深層心理にインセプションする、というものであった。

上の層からキックして無理やり連れ戻せなかったのは、ひとつには虚無(limbo)から脱出するには死ぬしかない、という点と、たとえ無理やりに連れ帰っても、またすぐに戻られては意味がないと考えたからだと思われる。

その単純なアイデアとは『ここは現実じゃない』というもの。 そして『現実に戻るには死ぬしかない』とも。

結果はコブの狙った通りになったのだが、問題はその後にあった。

モルの頭の中にはインセプションされたアイデアがガン細胞のように増殖していき、現実に帰っているにも関わらず、『死んで現実の世界に戻らなくては』と考えてしまうのだ

結局モルはコブとの記念日の日に、コブの目の前でホテルから飛び降り自殺をして死んでしまう。(コブとモルの過去の真相を徹底解説!)

現実の反対は夢ではなく死であった。この事実は何を意味するだろうか。

非現実の夢想家

毎日新聞に、小説家の村上春樹氏の「非現実の夢想家として」というカタルーニャ国際賞スピーチ原稿が載っていた。この「非現実の夢想家」という言葉も面白い。非現実=夢想=原発反対派という構造になっているからである。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。


原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。(村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下))

原発推進派から見れば、原発=原爆=核という論点は我慢ならないだろう。僕自身は、推進派でも反対派でもないが、今回の原発事故により、今まで、見なくてもよいものが見えてきたということは考え直す必要がある。

村上氏の言う原発推進派は「現実を見なさい」という言葉で、現実を維持するには原発が必要だという。一方、「非現実的な夢想家」である村上氏は、原発=死であるという。

僕は、この言葉になぜか、インセプションされたモルの言葉『ここは現実じゃない』が重なる。だから、本当の現実に戻らなくてはという思いさえ感じるのだ。だが、反対派が成功するためには、原発の利益を受けてきた人たちを夢から目覚めさせることが必要である。それが、今回の震災・原発事故という膨大なエネルギーがきっかけとなった。


僕は、今年は「現実がひっくり返る年」だと書いた。現実がひっくり返るとは、今まで当たり前だと思っていた価値観が、逆転することを言う。震災・液状化・原発問題などにより、今まで裕福のステータス・シンボルである、オール電化・超高層ビル・海沿いの生活が否定されることになった。このような、現実と非現実が逆転するためには、今回の大震災のような巨大なエネルギーが必要である。

おそらく、原発推進派は現在の現実を肯定するために、原発を肯定したのであり、反対派は原発が存在していなかった過去の現実に戻るために、原発を否定したのである。

だが、どちらも、これから登場する現実が見えていないことは変わらない。これを「インセプション」でとらえれば、モルの言う『ここは現実じゃない』『現実に戻るには死ぬしかない』というのは在りし日の、すでに失われた過去への望郷であり、これはまた原発反対派の原発なき時代への過去への望郷に似ている。

一方、コブの言う『ここは現実じゃない』『現実に戻るには死ぬしかない』というのは、モルをこの虚無を抜け出すための一手段であった。これは、原発を認めていたちょっと前の現在の現実に戻れれば、また同じ生活を繰り返せるという思いがあったのではないか。だが、それは、現実にはそんなに単純なものではなく、福島の原発事故による脱原発の流れは、世界規模になってしまった。

人間は過去と比較することはできるが、まだ見ぬ未来と比較することはできない。そのこれから来る現実は推進派・反対派がともに過去に思い描いていた現実と全く違う様相になるというのだけは確約できる。
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