夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2)

ネット劣化は検証しない人が作る

今回のエントリーは、久々にマスメディアは人から腐るの続き。このエントリーが、佐々木氏のツィートから始まったのと同様に、前項「佐々木氏のRTの誤解の構造」の印象から始めよう。この佐々木氏への反論は、リンク先も読まず、オリジナルのツィートも検証していない。内田樹氏は、ネット上の発言の劣化についてこう書いている。
私が今のネット上の発言に見る一般的傾向はこれである。
自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。
自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。
ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。
そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。
それは自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。(ネット上の発言の劣化について)
そもそも議論をする人は、その議論の正当性を示す根拠を示さなければならぬ。ところが、最低限のリンク先も読まず、どこからか流れてきた「、と。」抜きの発言を誤解して反論するのは検証が足りないというしかない。インターネットが普及して、マスメディアに登場する文言でもその根拠を探ることが容易になっている。少なくとも、ツィッターをする人なら、インターネットで最低限の検証をしてから発言するべきなのだ。

ワイドショーの新聞読みはテレビ局のプライドを失わせる

どの局もやっているワイドショーの新聞読み。本来だったら、この新聞記事は正しいのかどうかを検証して報道すべきなのだがどの局もそれをやっていない。かつて「ザ・ワイド」というワイドショーのキャスターをやっていた草野仁氏、2007年12月号の文藝春秋でこう書いている。
ちょうど森政権の末期、ある女性週刊誌に、「支持率が悪いのに森総理がなかなか辞めないのは、退職金を少しでも余計にもらうためだ」というコラムが載ったんです。執筆者は税理士で、今、辞任すると退職金はこれだけだが、もうちょっと粘るとこれだけ増える、と数字が出ている。番組スタッフがこの記事を面白がって流用し、税理士のインタビューを入れてVTRを作ったのです。

当日の打ち合わせでVTRを見せられて、「これはまずいぞ」と慌てました。まず客観性がない。総理をやめない理由が憶測にすぎず、証明のしようもない。自民党はメディアをチェックするモニタリングシステムを強化しているから必ず突っ込まれる。「絶対だめだ」と言いましたが、そういう日に限って他のコーナーの確認作業に時間をとられ、代替案を話し合う余裕がない。しかし放送時間は迫ってくる――。これをボツにしたら番組に穴があく、とプロデューサーに泣きつかれ、私も困り果てました。

しかたがない。VTR明けの私のコメントでバランスをとるしかない。「洋の東西を問わず、権力の座に着いた方は、一日でも長くその座に留まりたいと思うのは間違いない事実。まさかそんなことはないと思うけれど、日本の総理大臣がそういう風に言われてしまうのは、なんとも寂しい話ですね、有田さん」と、印象を和らげようとしました。

しかし案の定、強い抗議がきました。さらに悪いことに、税理士の算定基準に誤りがあった。翌日の放送で謝罪しましたが、これは本当につらい一件でした。

実際、すぐ番組が打ち切りになっててもおかしくないほどの致命的なミスでしたが、残念ながら、内部での検証がほとんどなされないまま、番組関係者の中に傷として残ってしまいました。

この「2001年4月3日事件」以降、政治にはヘタに触れないでおこうという暗黙の了解が生まれ、スタッフのなかに消極的な空気が醸成された。

そこに登場したのが、小泉純一郎首相です。ワンフレーズ・ポリティクス、劇場型政治といわれましたが、まさにテレビ向けの演出で「ワイドショー化」していく小泉政治に、われわれワイドショー側が対抗できなかった。腰が引けていたことは否めません。「2001年4月3日事件」の痛手です。

北朝鮮拉致問題だけは敢然として、小泉首相といえども厳しく聞いてまいりましたが、政治全体としては、小泉さんが演出するワイドショー政治に、ワイドショーが振り回されてしまった。その批判は甘受しなければと思います。

「2001年4月3日事件」の反省点は他にもあります。他人が書いた記事の内容を検証もせず、映像化して放送するなどということは、報道の原則からもあってはならないのです。自分たちの足で稼いで、独自に裏付け取材することを第一としてきた『ザ・ワイド』の精神が、しだいに緩んでいたのでしょう。

同じ意味で、いま多くの番組で行われている、その日の新聞紙面を読み上げるコーナーも、テレビ局本来のプライドを失わせるものです。テレビ局という大組織で予算もありながら、新聞を読み上げるのは、自分たちの取材力がないと白状しているようなものでしょう。私は、『ザ・ワイド』での夕刊早読みコーナーにも反対で、何年かやっていましたが、視聴率も決してよくなかったですね。

最初にはじめたテレビ朝日の「やじうま新聞」は斬新なアイデアだったと思いますが、今や新聞や雑誌の記事をそのまま紹介してコメントする形式が、多くの情報番組でごく普通になっている。長い目で見たとき、テレビへの不信感につながるかもしれません。

ただ、テレビ界の構造的な理由もあります。この10年あまり締め付けが厳しくなって、芸能ニュースなどは、大手プロダクションに所属するタレントのスキャンダルは取材できないのが実情です。かといって事務所側の発表ニュースばかりでは面白くないので、いきおい、雑誌のスキャンダル記事を紹介することになる。バブル崩壊後、取材費がかなり厳しくなったという実情もありますね。キャスターの出演料が制作費を圧迫している番組もあるようですが(笑)。(文藝春秋2007年12月号「ワイドショーは死んだ」草野仁著)

この『ザ・ワイド』が終わったのは2007年9月だから、現在はどうか。今週発売中の週刊ポストでは、「さらば、テレビ」という特集を組んでいる。
10年前の約9時間半から10時間40分へと1時間10分も放映時間が増えているテレ朝。同局の情報番組関係者が語った。
朝の情報番組の場合、独自取材はゼロといってもいい、今朝の企画会議のラインアップの95%が新聞・週刊誌から頂いた情報です。スタジオさえあればニュース素材の編集で番組が作れるから安く済む。出張取材などほとんどありません」(週刊ポスト2011年8月19・26日合併号「さらば、テレビ」小学館)
ますますエスカレートしているようである。しかも検証しているふしがない。「マスメディアは人から腐る」でこんな言葉を引用した。
第二に、仮説を検証しないディレクターが生まれた


視聴者の耳目を集める企画をディレクターは提案したい。企画は前に書いたように仮説である。取材という検証を通じて初めて番組にすることができる。いわば番組に育てる前の芽のようなものだ。その前提が崩れた。

仮説の検証の第一は、まず現場に行くことである。関係者の話を直接に取材しなければ何事も始まらないはずである。ところが、仮説を立てるものと検証する者が別々になってしまった。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)

さすが、草野氏はNHKの出身なので、検証の大切さを知っている。ところが、このエントリーで書いたように、NHKですら、このありさまである。民放では、事実の検証の大切さを指導しているのだろうか。

バラエティー化するワイドショー

週刊ポストの「さらば、テレビ」に日テレ関係者の言葉として
報道志望の子を採用しなくなっています。昨年はゼロでしたから。人もカネも食う報道番組に対して、局側は将来性を感じないのでは」(週刊ポスト2011年8月19・26日合併号「さらば、テレビ」小学館)
という。そうなると、報道番組でありながら、バラエティ志望のディレクターが作ることになりかねない。当然、事実の検証なしで取材はおざなりということになる。このような番組は報道番組とは言わない。「あるある大事典」でスタッフが言った
「われわれは科学番組を作っているのではない。報道でもないんです。われわれは情報バラエティー番組を作っているんです」(ネットがテレビを放送する日)
のワイトショー版になるのか。最近、話題になった東海テレビ「ぴーかんテレビ」の「怪しいセシウムさん」問題。
2011年8月4日(木曜日)放送「別冊!ぴーかんテレビ」内の「しあわせ通販」のコーナーで、秋田県産うどんのテレビショッピングを放送している途中、画面がコーナーとは無関係の「岩手県産のお米ひとめぼれ3名プレゼント」の当選者発表画面に切り替わり、その当選者の名前に「怪しいお米 セシウムさん、怪しいお米 セシウムさん、汚染されたお米 セシウムさん」(本来「怪しいお米」「汚染されたお米」の部分には当選者の住所(市町村名)、「セシウムさん」には当選者氏名が入る)を挙げるという不適切な内容の映像が23秒間(11:03:35 - 11:03:58、JST)にわたって表示される放送事故が発生した(切り替わったのは画面だけで、ナレーションはうどんの紹介のままだった)。(ぴーかんテレビ-Wikipedia)
などは、さしずめバラエティー志望のスタッフが書いたのかもしれない。

出版も新聞界も検証なし

その「ぴーかんテレビ」騒動の8月4日、新聞でこんなニュースがあった。
ひどいアインシュタイン伝記…自動翻訳のまま

20世紀を代表する物理学者、アインシュタインの生涯を描いた伝記本が、その翻訳のひどさで回収され、修正版が発刊される騒動になっている。

ひどい翻訳が逆に注目され、古本価格は高騰。もとの約10倍にあたる約2万円の高値がつく事態になっている。

この本は「武田ランダムハウスジャパン」が出した「アインシュタイン その生涯と宇宙」(ウォルター・アイザックソン著)で、6月に上下巻各5000部が発行された。その下巻の13章でコンピューターの自動翻訳をそのまま掲載したと思われる記述が見つかり、インターネット上で話題になった。

例えば「マックス・ボルンの妻ヘートヴィヒ」というくだり。マックスは物理学者の名前の一部だが、訳文は「最大限」と誤訳し、「ボルンの妻ヘートヴィヒに最大限にしてください」となっていた。「『科学の人里離れている寺』に尊敬します」「これらのすごいブタが、あなたの精神に触れるのに最終的に成功したと立証します」といった意味不明な記述もあった。
(2011年8月4日14時35分 読売新聞)

その「アインシュタイン その生涯と宇宙」を載せているAmazonにこんな書評
私は本書の上巻の5-11章の翻訳を担当した松田です。この下巻の12,13,16章、特に13章を巡る、滑稽かつ悲惨な内部事情を知っている範囲でのべ、読者にお詫びをすると同時に、監修者と訳者の恥を濯ぎたいと思います。

本書の翻訳は数年前に監修者の二間瀬さんから依頼されました。私は自分の分担を2010年7月に終えました。翻訳権が9月に終了するので急ぐようにとのことでした。ところがいっこうに本書は出版されず、今年6月になり、いきなりランダムハウスジャパンから、本書が送られてきました。そして13章を読んだ私は驚愕しました。

私は監修者の二間瀬さんに「いったい誰がこれを訳して、誰が監修して、誰が出版を許可したのか」と聞きました。二間瀬さんは運悪くドイツ滞在中で、本書を手にしていませんでしたので、私は驚愕の誤訳、珍訳を彼に送りました。とくに「ボルンの妻ヘートヴィヒに最大限にしてください」は、あきれてものもいえませんでした。Max BornのMaxを動詞と誤解しているのです。「プランクはいすにいた。」なんですかこれは。原文を読むと、プランクは議長を務めたということだと思います。これらは明らかに、人間の訳したものではなく、機械翻訳です

先のメールを送ってから、監修後書きを読んで事情が少し分かりました。要するに12,13,16章は訳者が訳をしていないのです。私は編集長にも抗議のメールを送りました。編集長の回答によれば12,13,16章は、M氏に依頼したが、時間の関係で断られたので、別途科学系某翻訳グループに依頼したとのことです。ところが訳のあまりのひどさに、編集部は監修者に相談せずに自分で修正をしたようです。12,16章の訳はひどいなりにも、一応日本語になっているのはそういうことだと思います。ところが13章は予定日までに完成しなかったらしく、出版期限の再延期を社長に申し入れたが、断られた編集長は、13章の訳稿を監修者に送ることもせずに、独断で出版したらしいです。重版で何とかしようとしたようです。出版を上巻だけにして、下巻はもっと完全なものになってからにすればよかったのに、商業的見地からは、上下同時出版でないとダメだそうです。

二間瀬さんは社長に、強硬な抗議文を送り、下巻初版の回収を申し入れました。社長も13章を読んでみて驚愕したようです。そして回収を決断しました。

自動車のリコールがときどき問題になります。そして社会的指弾を浴びます。しかしあれは発売時点では欠陥に気がついていなかったはずです。ところが本書の下巻は、発売時点で、とても商品として売れるものでないことは明らかでした。本書下巻を2000円も出して買った読者は、怒るに違いないと、二間瀬さんに指摘しました。またアマゾンで書評が出たら星一つは確実だとも述べました。

本書の原書は名著です。私は自分の担当の部分を訳して、とても勉強になりました。ですから本書は日本の図書館に常備されるべき本だと思います。ところがこの13章の存在のため、もし初版が図書館に買い入れられたら、監修者と訳者の恥を末代にまで残すことになります。より完全な下巻の完成を期待しています。

また、この事件を報道する記事に対して、Books and the Cityというブログで
今回のこの事件を取り上げたマスコミも程度が低いっつーか、もう少し努力できんのか、と呆れる。おそらく本も手に入れずに、他のサイトに載っていた訳文をそのまま写してお茶を濁している記事ばかり。
出版業界のこの「自転車操業」という暗闇に突っ込めないのは、どのマスコミも傘下に同じことをしている書籍出版社があるから、ということなのだろうか。
それより、件の本についてもう少し。
それじゃあ、原書を手に入れて、どういう文章がどうなってしまったのか、検証してみようという記事はひとつも見かけない。著者や出版社に問い合わせて、「日本語版の本がこんなことになっていますが」と言ってコメントをとったところもない。
マスコミの人間なのに、誰も著者名の「ウォルター・アイザックソン」ってのを聞いて誰なのかちーっともわかってないんだろうな。彼の名前を聞いて、お、あのCNNの社長だった人?とか、あのタイム誌の副編だった人?とか、オバマ政権の放送管理委員会の人?とかって気づかないんだから。(機械翻訳をそのまま出版?トンデモ本の裏にあるもの)
確実にメディア崩壊が始まったようだ。
ブログパーツ