夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

検証することは、自分の頭で考えること

検証とは事実を確かめることである。

前項「検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2) 」で、考えた「検証」はそう難しいことではない。ようするに、自分の頭で考えよということだ。疑問があったら自分で調べればよい。「検証-Wikipedia」にはこう書いてある。
検証(けんしょう)とは、事実を確かめることである。(検証-Wikipedia)
マスメディアで検証がないがしろにされているのは、仮説を立てる人と検証をする人が別々だからである。仮説を立てる人は立場が高く、検証をする人間は下請けになる。
提案が採択になったら、下請けを選んで発注する。発注元は企画を仮説だとは言わない。仮設を定説のように示しがちだ。取材してみれば、仮説がまっとうだということが判明することもあるが、反対にとんでもないインチキと分かることもある。発注元はそれをしていない。

実際取材する下請けの担当者はどうか。発注と下請けという力関係にアンバランスがあり、しかも仮設を定説としてこだわる発注元がいると、仮説が間違いと分かっても指摘しにくい。逆らって顔をつぶすことになっては、次の仕事に支障が出る。取材してみて間違いを発見するだけの能力と気持ちがあればまだいい。発注元に命じられたことを命じられたとおりに仕上げて「一丁あがり」にするほうが、波風が立たずに平和的に収まる。(小出五郎著「新・仮説の検証 沈黙のジャーナリズムに告ぐ」水曜社)( マスメディアは人から腐る)

こうなったら、事実が仮説に合わせて捻じ曲げられる。下請けは、発注者に従順な人ほど選ばれやすいし、いちいち反発する人間は避けられる。これか「空気」を読むということである。彼らにとって、報道が正確かどうかなんては関係ない。

なぜ、そのことが事実かどうかを確かめないのか。疑問を持つことで、仕事が進まないことを恐れるからである。従順に相手の顔色を伺って、疑問を発しない。それがマスメディアの価値を落としていることに気が付かない。

一次資料を確かめる

前項「検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2) 」で気になるツィートがあった。
この記事も一次情報があまりないのがどうかと思う。RT @sasakitoshinao まともに検証しない人が多いという観点からは、いまやネットもテレビも大差ないという指摘。草野仁さんの4年前の記事が面白い。/検証なきメディアは価値がない- j.mp/nN7PDs

https://twitter.com/#!/bunkazai/status/100735460611080194

僕の引用する文章は、ネットブログも含めて紙資料を含めた一次資料ばかりである。おそらく、誤解があると思われるのは、草野氏の記事はネット検索より見つけたものだが、僕はそのあと、図書館で文藝春秋を見つけて引用したものである。したがって、巷にネットに流れる草野氏の文章は、
【テレビ】ワイドショーの“新聞読み”やめろ!梨本勝&草野仁がテレビ局の安易な姿勢に警鐘〔11/29〕
梨元勝氏の名前が、梨本勝氏になっている。この文章の中で、僕のエントリと共通する文章は、
新聞紙面を読み上げるコーナーも、テレビ局本来のプライドを失わせるもの」です。「テレビ局という大組織で予算もありながら、新聞を読み上げるのは、自分たちの取材力がないと白状しているようなもの」でしょう
だけである。僕は、梨元氏の元記事「週刊文春」も探したが、図書館のバックナンバー保存期間が1年間なので、探すことはできなかった。このように、文章にするには、オリジナルに発表したものを探すことに気を使っている。僕は、「ブログはスクラップブック」でこう書いた。
インターネットが普及して、かなりの知識を即座に手に入れることができるようになった。コピペが簡単にできる時代に、わざわざ本や新聞から書き写す意味は何か。

教師と生徒、一番物を覚えるのに適しているのはどちらか。僕は、教師だと思う。人間は、目で読み、手で書き写し、口で話す。教師は、この三種類の動作をこなす。生徒は、目と手ぐらいなものだ。社会人になって、本を読むことぐらいはするだろうが、書き写すことまでしないだろう。だが、書き写す作業がなければ、知識として残らないのである。(ブログはスクラップブック)

頭を使って考える

現代日本人がなぜ考えなくなったか。考えなくても、社会が順調に動いてきたからだ。しかも机の上にパソコンが並ぶと、他人が何をしているかがわからなくなった。「600万人の社内失業者」で引用した内田研二氏の言葉が思い出された。
内田研二氏は、「今日の職場を見渡してみるとき、10年前の職場風景から最も大きく変わったのは、一人一人の机上にパソコンが置かれるようになったことだろう」と指摘する。

どれだけ大事な仕事を効率良くやっているかは本人にしかわからない。外見では他人の仕事ぶりが分かりにくい。じっとパソコンの画面を見つめている人は、真剣に問題を考えている場合もあれば、表の罫線の消し方がわからなくて悩んでいる場合もある。真面目な顔で腕組みしている人は、大事な問題を考えている場合もあれば、前日の二日酔いで仕事に集中できない場合もある。忙しくキーボードを叩いている人は、重要な企画書を作っている場合もあれば、同僚に飲み会の連絡メールを流している場合もある。

(中略)

昔であれば、働いている様子を見れば大体その社員の仕事ぶりを推測できた。手際が良いとか、困っているとか、トラブルに巻き込まれているとか、それなりに周りの人が感じ取ることができた。近くにいる人ほどその社員の人柄や能力もわかりやすかった。昔の職場では複数の社員が仕事を分担していたので、いい意味でも悪い意味でもお互いに干渉しなければならなかったからだ。(内田研二著『成果主義と人事評価』講談社現代新書)(増田不三雄著「社内失業 企業に捨てられた正社員」146ページ/双葉新書)

一人一人の仕事がバラバラになれば、中に社内失業者がいてもわかりにくい。業務は直接の上司から与えられるからだ。頭を使って勝手なことをされるよりも、従順にモノを言わない部下の方が都合がよい。だが、この変革の時代では、それでは間に合わない。未来学者のアルビン・トフラー氏は、
その昔、社会がそれほど変化しなかったころ、老人が尊敬されていたのは、過去を知っていたからだといわれることが多いが、そうではない。未来を知っていたからである。未来は過去とほとんど変わらなかったのだ。

いまでは変化が速いので、古い知識のうちかなりの部分は死知識になっており、若者が道を切り開いていく際に役立つとは考えにくい。そして若者は老人の知恵をそういうものとして扱っている。チキン・スープは風邪にきくといった昔からの言い伝えも、ときには役立つかもしれない。だが若者はそれに従っていない。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P266)」講談社)(無用知識と無用人生)

今の世の中は流れが速いので、大学や先輩から習った知識はたちまち無用となる。アプリのバージョンアップがたびたびあるように、会社も1年ごとにバージョンアップする。そのたびに、私たちは、個人で学んでいかなければならない。そうやって、現在何が起きているかを知るために絶え間ない検証を続けていかなければならないのである。
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