自ら、ニュースソースを狭めるべきではない
地デジ化以後、テレビから離れた人もいる。ネットで分かるから新聞を読まないという人もいる。もちろん、その行為は本人の決心であり、別に批判するべきことではない。しかし、いくらマスコミは消滅するからといって、耳目を閉じていいのだろうか。むしろ、無駄かもしれないが、そこから新たな発見が見つかるかもしれない。
良い本ばかり読んでいても、その本がどれほどよい本かわからない。悪い本も読み、その比較の上で、自分で見つけることに価値があるのだ。
学ばない人は何を見ても学ばない
地デジであろうとアナログであろうと、新聞であろうとネットであろうと、そのニュースから何を学びとるかが大切である。僕は、「学び」について考えるで池上彰氏のこんな言葉を引用している。池上 でも、やっぱり、基本的に上から押し付けて、「これやりなさい」ってやりませんよね。それは、何かこうほっておいても、何かひとつ、あっ、これ面白いなと思うものをうまく見つけることができるとやるんですよ。(抜き書き・「たけしの新・教育白書」〜頂上対談より)おかしいのは、「これを読んだらわかりますか」といって、参考書を求めてくる連中である。もちろん、参考書は読者にわかりやすくするために書かれている。だが、どんな本でも、新聞・ネットでも、「これ面白いなあ」と思った文章がある。だが、参考書を面白く読もうとしない人には、その参考書はわからないだろう。自ら、面白いと思って読まなければ、その面白さが理解できないのだ。必要なのは、読者の学習意欲である。それさえあれば、地デジになっても、ネットでも新聞でもその価値は変わらない。
批判のために読む本はつまらない
この人を批判してやろうと思って読んだが、何を書いているのか、さっぱりわからない本がある。そうなると、読み続けるのが苦になる。それと違って、面白い本は、読むたびにこれは面白いと思わせる文章が、自分に迫ってくる。数を書くには、数を読むしかない
セレンディピテイという言葉がある。セレンディピティ(英語:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。(セレンディピティ-Wikipedia)ノーベル賞受賞者の鈴木章氏は
『セレンディピティ』思いがけず大きな発見をする能力このセレンディピティは、数多くの実験、数多くの読書をひたすら繰り返す。参考書のようなものはないし、参考書で書かれているような実験はあらかた出尽くしている。つまり、参考書に書かれていないような記事をひたすら求めるしかない。そして、それを面白がることだ。「成功者の絶対法則セレンディピティ」にこんなエピソードが紹介されている。
偶然に出てくるんじゃなくて、いろんなことに対する興味とか、それを見つけるおおらかな気持ちとか一生懸命頑張るとか、そういう気持ちがあればセレンディピティに接することができる。一生懸命努力することによって幸福の女神が微笑むチャンスがある。(成功と失敗のセレンディピティとニワトリ会議)
Aさんは設計の仕事に関与しているのですが、アイデアに行き詰ることがあります。そのようなときに、ふと素晴らしいアイデアが生まれると、これを「小人さんが来てくれた」と表現するのだそうです。ここでいう「小人さん」とは、グリム童話『小人の靴屋』に出てくるあの「小人さん」を指します。この「小人さん」が、あなたの頭の中にひらめいた時、初めてあなた独自の発見となる。
(中略)
・考え抜かないと現れない
・考え抜いても必ずしも現れない
・とても気まぐれである
・「偽の小人さん」はよく現れる
Aさんは、実際の童話と同じように、「小人さん」は、努力してまじめにやっている人のところにのみ、たまにやってきてくれる気まぐれな人だと解釈しています。そこで、いつでも来てくれるよう準備しておかなければとも思うのでした。(宮永博史著「成功者の絶対法則セレンディピティ」祥伝社)
(1億総キュレーター時代にはセレンディピティが重要になる