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素人だから言えることもある

個性が消えつつある日本

全員集合を再び作る人間はいない

前項「もともとテレビとは」でテーマにしたのは、現在、日本ではタブーとされている「いかがわしく、危ない」部分が消えつつあるということだ。他の番組と差別化するためには、これこそが、その番組の個性なのだ。

例えば、「8時だョ!全員集合」は、今見返しても面白い。それは、話がシンプルで、世界中の人が見てもわかりやすいからだ。それでも、当時は、「全員集合」は低俗番組の筆頭だった。このように時代を超越した番組は、立派なコンテンツとなる。僕は、「今の日本のテレビで「全員集合」が作れない理由」で、居作昌果プロデューサーの言葉をこう引用している。

舞台上では、タバコ一本吸うのにも事前に地元消防署に本火使用許可願を提出して、許可をもらう必要がある。ピストルの発射音と発射光を出すための少量の火薬も、またしかりである。「全員集合」のような生放送では、何が起こるかわからない。本火使用届けには神経質すぎるぐらいに気を配っていたおかげで、事は大事に至らなかった。本火使用届なしでこの火事が起きていたら、「全員集合」は、市民会館から締め出しを食っていたに違いなかった。(居作昌果著「8時だョ!全員集合伝説」双葉社)
当時であっても、これだけの規制があった。現代ではどうだろう。全国の市民会館で芝居を生中継するなんてことをしている番組はNHK以外どこにもない。週刊ポストの「さらば、テレビ」では、「プロジェクトX」のエグゼクティブプロデューサーをしていた今井彰氏は、こんなことを書いている。
講演などで人に会うたびに、「テレビがつまらない」といわれる。私自身、はっきりいって今のテレビは観る気がしない。その理由は、作り手に「挑戦」と「個性」がないからだ
「挑戦」というのは、新しいテレビのあり方や見せ方、あるいはタブーと思われている領域に踏み込んでいくこと。しかし、挑戦するというのは怖いことだ。

私自身、国会議員から圧力がかかったり、強面の人たちから脅迫状が送られてきた経験もある。何より大変なのは社内での軋轢で、できれば波風が立たない番組にしたいという生理が上層部に行く程、強烈にある。それでも視聴者に新しいものを見せたい、真実を伝えたいという思いが上回るから、僕はそれを突破できた。しかし今やそういう抵抗を押し返してまでやってやろうという情熱がテレビマンから消えてしまった。

もうひとつの「個性」とは、端的にいえば、「誰が作ったかがひと目でわかる」番組かどうか。自分が伝えたいものがあるから制作する仕事に就いたはずなのに、その成功体験を得ないまま、無難な番組、過去のパターンを踏襲するという安全策をとる。サラリーマンになっているわけだ。(今井彰著「波風の立たない番組が面白いはずがない」週刊ポスト2011年8月19・26日合併号「さらば、テレビ」小学館)

「全員集合」作るたびに、地元の消防庁の使用許可願を出しているなんて視聴者の誰も思っていなかったし、その事実を知ったテレビ関係者はそんな手間までかけて、同じような番組を作ろうとしないだろう。だから、ドリフのコントはその後、スタジオ収録が増えたわけなのだが。

寅さんが減った

世の中には、変な人やおかしな人はいっぱいいる。だが寅さん的なとんでもない人間は減っているのではないか。寅さんシリーズを作った山田洋次監督が最近作った「おとうと」のパンフレットで音楽を担当した冨田勲氏も
——鉄郎というキャラクターがスッと心の中に入ってこられたようですね。
昔はああいう人がよくいましたよね。ちょっと破滅的というか、酔っばらうと「俺にはでっかい夢があるんだ」みたいなことを叫んでね。人間社会の枠組みから外れているというか、前の時代の名残を持っているというか。最近こういう人はめっきりいなくなりましたけどね。(「おとうと」パンフレットより) ( 映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション)
フーテンの寅が、愚兄賢妹であったが、この「おとうと」の場合は、賢姉愚弟であった。フーテンの寅が帰ってくると、いつも地元の人たちや妹のさくらが温かく見守っているのに対し、「おとうと」の鉄郎は民間ホスピスの「みどりのいえ」で家族や血のつながりのない人々の愛情に包まれて死んでいく。これは、かつての地域がしょうがないと言って寅さんのような存在を認めてきたのに対し、現代社会ではその余裕がなくなってきたのではないか。山田洋次監督は、
寅さんだって、彼の場合は不良になっちゃったけど、「本当に大事なものは何か」という価値観についてはギリギリ持ってる。だから犯罪者にはならなかった。生育の過程で、地域の人々の愛情を受けたからでしょう。みんなが「寅ちゃんは私たちの街の子だから、しょうがないね」って認めてた。とても大事な要素だと思う。小春も、もちろん街の人たちの愛情にくるまれて、愛すべきキャラクターに育ちました。(「おとうと」パンフレットより)( 映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション)
もっとも、山田監督は「おとうと」でも、理想的な地域像を描いていた。
実は、日々の暮らしについての僕の憧れを描いているんです。かつてお店と顧客との間には売り買いだけじゃない人間的な交わりがありました。店主とおしゃべりし、買い物に行った子どもが叱られたり褒められたり、小百合さんの薬局のある街には、昔ながらのそんなつながりを残している。だから、小春が結婚するときに自転車屋さんと歯医者さんがそろってお祝いを持って来る。なんとかして自分たちの街の子どもをつなぎとめようとしている。そんな愛情を住民たちが持った街なんです。(「おとうと」パンフレットより) ( 映画「おとうと」に見る家族内コミュニケーション)
人でも番組でも、個性を生かすのもつぶすのも周りの環境のようだ。よほど個性的なものでなければ現代社会では生き抜けられないらしい。また、個性的というとポジティブな面のみを強調して、ネガティブな面を排除しようとする。だが、両面があってこそ、本当に個性的なのだと思う。
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