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素人だから言えることもある

情報難民を作ってきた日本人の空気

何が正しいかわからない

前項「脱原発がなぜ脱福島になってしまうのか」で、福島の花火騒動を取り上げたが、それについて、主催者側の反省の記事があった。
会談後、インタビューで中止を判断した是非を繰り返し問われた萩野市長は、何度も答えに詰まり、最後に「正しい判断でなかった。放射能の問題をしっかり整理し、客観性をもって判断すべきだった」と対応の甘さを認めた。

ただ、市長は「正直何が正しかったのかいまだに分からない」とも述べ、「市民の不安」と「被災地の思い」の板ばさみで苦しい選択を迫られたつらさを漏らした。(「何が正しいか分からない」日進市長謝罪、課題残した花火問題 福島/MSN産経ニュース2011.9.23)

おそらく、被災者に元気をつけてもらおうと、精いっぱいの応援のつもりで企画したものだろう。だが、このことが住民の不安を巻き起こした。市長の判断は、どこで曲がってしまったのか。例えば、政府が判断すべきだったのか。前項「脱原発がなぜ脱福島になってしまうのか」では、政府が最低限の情報を出さなかった責任を指摘した。記事にも、
会談で古川町長は「町には計画的避難区域の山木屋地区もあるが、菅野さんの工場はまったく別の場所だ。花火は昨年に製造されており工場の管理もしっかりしていた」と説明。

さらに、作業場の空間線量率が最高でも毎時0・45マイクロシーベルトにすぎず、花火表面の放射線量も微量だったデータを示して理解を求めた。

県内ではこうした放射線への知識はかなり定着している。しかし、愛知県では行政当局でも、安全性の判断ができず、結局、一部市民の強い声に押し流されたようだ。(「何が正しいか分からない」日進市長謝罪、課題残した花火問題 福島/MSN産経ニュース2011.9.23)

とある。地域の行政は、それなりの知識を持っていたが、住民を納得させられなかった。

インターネット以前、マスコミを通してしか抗議できなかった時代があった。せいぜい電話や投書欄の抗議など、住民の前にはかなりの高いハードルがあった。ところが、今のように、インターネットが普及して、いとも簡単に行政にメールで抗議できる時代になると、相対的にマスコミの力を通さずともプレッシャーをかけることか可能になった。このパワーバランスの変化を市長たちは、読み切れなかったのだろう。

かつて存在していた高い壁であった行政やマスコミは、住民たちに簡単に意見を言いづらい「空気」を作ってきた。しかし、パワーバランスが変わってしまった今、市民の声という新たな「空気」によって、左右される危険が増えてくる。

もちろん、その意見が、しっかりと理論に裏付けられるものなら文句は言わない。だが、先のことを考えず、単純に多数派に就くというような「空気を読むこと」で進むとしたら、「相変わらずこの国は何も決められないのだな」と他の国から言われても仕方がない。
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