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ジョブズとソニー(4)「スティーブ・ジョブズ」のソニー部分(1)

スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ」を読んだ。僕は書評を書くつもりはない。ジョブズ氏が徹底的に細部にこだわるように、この875頁の文章から、ソニーに関する部分を抜き出してみる。(過去のジョブズとソニーシリーズは、ジョブズとソニージョブズとソニー(2) MacBook Airデザインのこだわりとソニーとの接点ジョブズとソニー(3) iPodとウォークマン)

まず、今回のエントリーは、「スティーブ・ジョブズⅠ」(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳/講談社)の中から。

(1)アップルのデザイン(1981-1983)

アップルを創業し、ガレージを出て最初の事務所は、同じビルにソニーの営業所が入っていた。ソニーは特徴的なスタイルと記憶に残る製品デザインで有名な会社だったので、ジョブズは時々立ち寄ってはマーケティング資料をチェックした。

「むさくるしい格好で入ってきて、製品パンフレットに見入ってはデザインの特徴を指摘したりしていました。そしてときどき、『このパンフレット、もらっていいですか?』と聞くんです」


と語ってくれたダニエル・ルインは、当時、そのソニー営業所で働いていたが、のちに、ジョブズに誘われてアップルに移籍する。

そのころは落ちついた色調でいかにも工業製品という感じのソニー製品が好きだったジョブズだが、コロラド州アスペンで毎年開催される国際デザイン会議に参加しはじめた1981年6月を契機に好みが大きく変化する。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p204-205)

そこでジョブズ氏は、初めてバウハウススタイルのシンプルなデザインに触れることになった。
1983年のアスペン国際デザイン会議でジョブズは、バウハウススタイルを信奉していると語った。この年のテーマは「未来は変わった」だ。キャンパスに張られた大型の音楽用テントで、ジョブズは、今後、ソニー的なスタイルは廃れ、シンプルなバウハウス流に移ってゆくと予想した。

「いま主流の工業デザインはソニーのハイテク型で、ガンメタかブラックあたりで塗り、いろいろと加工をおこないます。加工は簡単ですが、すばらしいものは作れません」

と、製品の機能や特質にあったバウハウス流のデザインを提唱する。

「ハイテクな製品とし、それを、ハイテクだとわかるすっきりしたパッケージに収めます。小さなパッケージとすれば、ブラウン社の家電製品のように、白くて美しい製品を生み出すことができます」

ジョブズはまた、アップルはすっきりとシンプルな製品にすると繰り返し強調した。

「明るくピュアな製品、ハイテクらしさを包みかくさない製品とします。ソニーのように、黒に黒の工業製品的外観にはしません

「当社はこのようなアプローチとしています。とてもシンプルです。また、近代美術館に収められてもおかしくない品質をめざします。会社の経営、製品の設計、広告とすべてをシンプルにするのです。とてもシンプルに」

このモットーは、「洗練を突きつめると簡潔になる」という表現でアップル初期のパンフレットにも表紙にも大きく掲載された。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p205-206)

ジョブズ氏は、世界的なデザイナーを見つけるためにデザインコンテストをする。
選ばれたのはハルトムット・エスリンガー。ソニーのトリニトロンテレビのデザインをしたドイツのデザイナーである。すぐにジョブズは、バイエルンまで会いに行き、彼のデザインに対する情熱に感動するとともに、メルセデスを時速160キロ以上の猛スピードでぶっとばす若々しさにも感嘆した。

エスリンガーはドイツ人だが、「アップルのDNAにはアメリカ生まれの遺伝子」があり、そこから、「ハリウッドと音楽、若干の反逆者魂、自然なセックスアピール」に触発されて「カリフォルニアグローバル」な雰囲気が生まれるようにすべきだと提案。彼は、形態は機能に従うという有名な言葉をもじった「形態は感情に従う」を基本的な考え方としていた。

コンセプトを示すために作られた40種類のモデルを見たとき、ジョブズは、

「そう、これだよ!」

と叫んだ。角をわずかに丸めた白いケースに通風と装飾を兼ねた細いスリットが印象的なスノーホワイトデザインは、その少しあと、アップル?cに採用されている。ジョブズは、カリフォルニアに来てくれるなら契約しようと手を差し出す。エスリンガーがのちに語るように、この握手から工業デザイン史上有数のコラボレーションがはじまった。1983年半ばには、年間120万ドルの契約をアップルと締結し、エスリンガーの会社、フロッグデザイン(frogdesign)がパロアルトに事務所を開設。その後のアップル製品には、必ず、「カリフォルニアでデザイン」の一言が謳われるようになる。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p215-216)

フロックデザインについてはジョブズとソニー(2) MacBook Airデザインのこだわりとソニーとの接点で触れている。

(2)マッキントッシュのソニー製ディスクドライブ騒動(1983)

ジョブズとソニーで、
そのときスティーブは、自社開発にこだわり、さまざまな問題を何とか解決しようとしていました。その背後でマッキントッシュチームはソニーの新型ドライブの検討をすすめ、一度などは、スティーブが突然現れたために、ソニーのチーフエンジニアたちをクローゼットに隠すということまでしました。

結局、リサ(Lisa=マッキントッシュと同時に開発していた業務用コンピューター、ジョブズの娘の名)用フロッピーが抱えていた問題は解決のめどがたたず、発売の4ヵ月前というぎりぎりになって、ソニー製ドライブの採用が決定。ソニー製ドライブが、カリフォルニアのマッキントッシュ組立工場まで空輸され、1984年1月、この小型ドライブを搭載したコンピュータが発売されました。そして、後に、このソニー方式業界標準とされるのです。(「スティーブ・ジョブズ偶像復活」)

と引用したが、「スティーブ・ジョブズⅠ」ではもっと詳しく書かれていた。
マックチームの古参メンバーは、ジョブズに反論しても大丈夫だとわかっていた。問題をきちんと理解していれば反論してもジョブズは怒らないし、にっこり笑って褒めてくれることもある。そして1983年ごろ、現実歪曲フィールドに詳しい一部メンバーは、その先があることを発見する。必要なら指示を黙殺しても大丈夫なのだ。その結果うまくいけば、権力を無視する意志の力や反逆者精神が評価される。そもそも、彼自身がそうしてきたのだから当然かもしれない。

そのような例の中で特に重要性が高かったのはディスクドライブだろう。アップルは社内に大容量記憶装置の部門があり、ツイギーというコードネームのディスクドライブを作っていた。きゃしゃな5.25インチのフロッピーディスクを読み書きするドライブだ。しかし、リサの出荷がはじまった1983年春ごろ、ツイギーには問題が多いと判明する。ハードディスクドライブを搭載しているリサはそれでもなんとかなる。ハードディスクのないマックは危機に直面したとハーツフェルドは言う。

「マックチームはパニックでした。フロッピーディスクのツイギーが1基あるだけで、保険となるハードディスクはなかったからです」

この問題については1983年1月のカーメル合宿で相談がおこなわれ、ツイギーの故障率データもデビ・コールマンがジョブズに提出。数日後、ジョブズサンノゼにあるアップル工場まで、ツイギーの製造現場を確認に出かける。製造工程の段階ごとに半分以上が不良品としてはねられていた。ジョブズは激怒した。ここにいる全員をクビにすると、顔を真っ赤にして怒鳴る。その彼を、マックのエンジニアリングチームを率いるボブ・ベルヴィールがなだめて駐車場に連れ出し、ふたりで歩きながら対応策を検討した。

そのひとつはベルヴィールが考えていたもので、ソニーが開発した新しい3.5インチのディスクドライブを採用するという方法だった。しっかりしたプラスチックケースにディスクが収められており、胸ポケットに入れることもできる。このクローンをアルプス電気に作らせる方法も考えられた。日本の小さなメーカーだが、アップル?用のディスクドライブはそこから供給を受けていたし、アルプスはソニーとライセンス契約を結んでいた。アルプスが間に合えば、かなりのコストダウンが期待できる。

方針を決めるため、ジョブズとベルヴィール、それに古株のロッド・ホルト(アップル?用電源を設計した人物)の3人が日本に飛んだ。東京からは新幹線でアルプスの工場に向かう。だが、不完全なモデルだけでプロトタイプさえなかった。そのモデルをジョブズはすごいと思ったが、ベルヴィールはぞっとした。1年以内にマック用ドライブが完成するとはとても思えなかったのだ。

日本では数社を訪問したが、どこに行ってもジョブズの態度はひどいものだった。相手はダークスーツを着ているというのに、ジーンズにスニーカーで会いに行く。日本の慣例で渡されたお土産は置いてくるし、ジョブズがお土産を渡すこともなかった。ずらりと並んだエンジニアがお辞儀をして製品を差し出す様子をせせら笑った。製品も、おもねる様も気に入らなかった。

ミーティングでは、

「こんなものを見せてなんになるんだ? こんなのはガラクタだ。誰でももう少しましなものが作れるぞ」

などとわめく。あぜんとする人が多かったが、一部は、がさつで鼻持ちならないとうわさに聞くジョブズとはこういう人物か、と楽しんでいる人もいた。

最後に訪れたのは、東京のうらぶれた下町にあるソニー工場だった。乱雑だし費用をかけすぎだとジョブズは思った。手作業が多かったのだ。気に入らない。

ホテルに戻ると、ベルヴィールがソニーのディスクドライブを推してきた。ジョブズは反対。アルプスに作らせると決め、ソニーとの作業はすべて打ち切れとベルヴィールに指示する。

しかし、ベルヴィールはジョブズの指示を一部無視した方がいいと判断。状況をマイク・マークラに説明し、ディスクドライブを確実に用意するために必要なことをしろ、ただしジョブズに見つからないようにという内々の指示を取りつけた。ベルヴィールは一部エンジニアの協力を取りつけるとともに、ソニーのディスクドライブをマッキントッシュで使えるようにしてほしいとソニー重役に依頼する。アルプスが間に合わなかったらソニーに乗り換えられるように。この要請に応え、ソニーはドライブの開発に携わったエンジニア、嘉本秀年を派遣した。嘉本はパデュー大学卒で、この極秘任務をこなすユーモアも持ち合わせていた。

ジョブズが本社のオフィスからマックチームの仕事場を訪れるたび(つまりほぼ毎日午後)、チームは、嘉本を隠れさせる場所を急いで探さなければならなかった。クパチーノのニューススタントでふたりがはち合わせし、日本で会った人間だとジョブズが気づいたこともあったが、幸い、それ以上は疑われずにすんだ。一番危なかったのは、嘉本がキュービクルで仕事をしている最中に突然、ジョブズが事務所に駆け込んできたときだろう。近くにいたエンジニアが嘉本の肩をつかみ、掃除用具のロッカーを指さす。

「急いであのロッカーに隠れて。さあ、早く!」

ハーツフェルドによると嘉本は不思議そうな顔をしていたが、急いで言われた通りにしたという。結局、嘉本は5分ほど、ロッカーに隠れていなければならなかった。出てきた嘉本にエンジニアが謝る。

「別にいいですよ。それにしても、アメリカのビジネスというのはおかしなものですね。いや、本当に変です」

事態はベルヴィールの予想通りになった。1983年5月、ソニーのディスクドライブの開発にはあと18カ月かかるとアルプスから連絡が入る。パハロ・デューンズの研修会で、マークラは、これからどうするつもりだとジョブズを詰問した。ジョブズがじっくり責められたあと、じつは代替品を短期間で用意できるかもしれないとベルヴィールが申告。ジョブズは一瞬、えっという顔をしたが、すぐ、ソニーのディスク担当者をどうしてクパチーノで見かけたのかに気づく。

「この野郎!」

その声に怒りはなかった。それどころか満面の笑みである。ベルヴィールが隠れて何をしていたのかを知ると、ジョブズはプライドを抑え、命令に背いて正しいことをしてくれてありがとうと感謝した。逆の立場であれば自分がそうしていたはずなのだ。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p234-237)

(3)ジョブズ追放とソニーの断片(1983-1985)

なお、「スティーブ・ジョブズⅠ」の後半に3か所に渡り、ソニー関連の記述が出てくる。
ジョブズ氏は、自ら経営には向いてないと思い、ペプシのジョン・スカリー氏を招へいする。
「一生、砂糖水を売り続ける気かい? それとも世界を変えるチャンスに賭けてみるかい?」(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p246)
といったのはあまりにも有名だが、ソニーの名前が出てくるのは、スカリー氏を自宅に迎えたところ。
とある土曜日、スカリーと妻のリージーは朝食といっしょにジョブズの家に招待された。そのころジョブズは、レジス・マッケンナで働く頭がよくて控えめな美女、バーバラ・ヤシンスキーといっしょにロスガトスに住んでいた。チューダー風のありふれた、しかしすてきな家だ。リージーはフライパンを持参し、ベジタリアンのオムレツを作った。(このころジョブズは、絶対菜食主義を少しひかえていた)。

「あまり家具がなくてすみません。そこまで手がまわらなくて」

ジョブズにとってはいつものことだった。職人芸へのこだわりと簡素を旨にする性格から、どうしても欲しいと思わないと家具が買えないのだ。ティファニーのランプ、アンティークなダイニングテーブル、レーザーディスクプレイヤーにソニーのトリニトロンテレビがあったが、ソファや椅子はなく、床にスタイロフォームのクッションが置かれていた。これを見たスカリーは、若いころ、ニューヨークの乱雑なアパートで質素な暮らしをしていた自分と同じだと誤解する。

この日、ジョブズは、自分は早死にすると思うので、シリコンバレーの歴史に名前を残せるようにいろいろ早期に達成したいとスカリーに打ち明けた。


「僕らは皆、少しのあいだしか地上にいられない。本当にすごくて上手にできることなんて、たぶん、ほんの少ししかないんじゃないかな。どのくらい地上にいられるかなんて、誰にもわからない。もちろん、僕にもわからない。でも、若いうちに多くのことをしなければならない――そう思うんです」(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p248-249)

ジョブズ氏は、1955年の生まれだから、1983年は、28歳のころ。やがて、1985年には、スカリーと敵味方に分かれ、アップルから出ていかざるを得なくなる。この原因は、苦労して売り出したマッキントッシュが売れなかったこと。
1984年の第2四半期、発売に伴う興奮が収まるとマッキントッシュの販売は急激に落ち込みはじめる。根本的な問題があったからだ。

すばらしいコンピュータではあったが、同時に処理能力不足で嫌になるほど遅いコンピュータでもあり、その点は何をどう宣伝しても言いつくろえるものではなかった。この機種の魅力はGUI。どんよりと暗いスクリーンに緑色で生気の感じられない文字が脈打ち、ぶっきらぼうなコマンドラインを使わなければならなかった従来のインターフェースに比べると、マックは陽光に満ちた遊戯室という感じだった。しかし、それは同時に最大の弱点でもあったのだ。

テキストベースのディスプレイなら、1バイトも使わずに1文字を表示できるのに対し、マックではピクセル単位で文字を描き、エレガントなフォントとするため、メモリーが20倍から30倍も必要になる。だからリサにはRAMが1000K以上も積まれていたが、マッキントッシュは128Kでやりくりしなければならなかった。

マックにはハードディスクドライブが内蔵されていないのも問題だった。そういう記憶装置が必要だとジョアンナ・ホフマンは主張したが、ジョブズは「ゼロックス病」だと取り合わなかった。結局、マッキントッシュに用意されたのはフロッピーディスクドライブが1基だけ。そのため、データのコピーでは、新種のテニス肘になるのではないかと思うほど何度も2枚のフロッピーディスクを入れ替えなければならなかった。

ファンもなかった。コンピュータの静けさを損なうとジョブズが意地でもファンを付けさせなかったのだ。その結果、マッキントッシュは動作がおかしくなることが多く、「ベージュトースター」というありがたくないニックネームまで付いてしまった。その魅力から最初の数カ月は良く売れたが、コンピュータとしての限界が知られるにつれ、売れ行きは落ちていった。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p293-294)

ジョブズ氏の過激な言動もまた、アップル社内の孤立を深めていく。ジョブズ氏は、社長のスカリー氏を追放しようと画策するが、味方だと思った人からの拒絶は大きかった。そこに再び、ソニーの名前が出てくる。
「強烈なパンチを食らい、空気が肺から叩き出されて息ができなくなった――そんな感じだった」

なかでもアーサー・ロックの支持を失ったことがつらかったとジョブズは語っている。

「アーサーは僕にとって父親のような人、保護者だった」

ロックにはオペラについていろいろと教えてもらったし、サンフランシスコでもアスペンでも自宅に招いてもらった。贈り物をあまりしないジョブズも、日本出張でソニーのウォークマンを買ってくるなど、ロックには何度かプレゼントを贈っている。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社/p328)

スティーブ・ジョブズⅠ」で最後にソニーの名が出てくるのは、冒頭で紹介したダニエル・ルイン氏の話だ。ジョブズ氏は、アップルから離れ、新会社設立のためにアップル退職希望のメンバーを集めたとき、出てきたのが彼の名である。
もうひとり、どうしてもチームに必要な人物がいた。新製品を大学に売り込める人間だ。第一候補はダニエル・ルイン。ジョブズがパンフレットの勉強に通ったソニーのオフィスで働いていた人物だ。ジョブズが1980年に引き抜いたあと、ルインは、マッキントッシュの共同購入をおこなう大学のコンソーシアムを組織する仕事をしていた。クラク・ケント似の整った顔立ち、プリンストン出身らしい上品さ、大学水泳チームのエースを務めた風格を併せ持つ人物だ。このように生い立ちは大きく異なるが、ルインとジョブズには、共通点もあった。ルインはプリンストンの卒業論文でボブ・ディランとカリスマ的リーダーシップについて取り上げたし、ジョブズもこのふたつについては、ちょっとしたものだった。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズ1」講談社/p333)

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