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素人だから言えることもある

〔お題〕教育におけるICT〜子供たちに学びの楽しさを教えているか

インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国から

昨日、フジテレビ「土曜プレミアム」で、インディ・ジョーンズシリーズ4作目、クリスタル・スカルの王国が放送された。僕は、上映されたころに書いた「宝物とは知識」インディ・ジョーンズを見て考えるを思い出した。その時は、正確なセリフがわからなかったが、改めて見返して、今回セリフとして表示できる。映画のラストで、息子の質問にインディ・ジョーンズがこう言う。
「黄金の都って言われてたのは?」
「ウーガ族の言葉で黄金は宝のこと。彼らの宝とは、黄金でなく、未知なる知識だったんだ」(インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国)
この言葉から、そのエントリーを書いたのである。今は考古学者は大学に閉じこもっているイメージがあるが、かつては、考古学者こそ冒険家だったのだ。
「財宝」は狭義では黄金や宝石といった換金可能なものであるが、広義においては考古学的に価値のある物品や、著名な人物の遺骨などといったものも含まれる。また、世間的には価値のない代物であっても、トレジャーハンター自身にとって貴重であると判断されれば、それは財宝とみなされるため、その基準は非常に曖昧なものとも言える。アメリカやイギリスなどでは、トレジャーハントのみで生計を立てるプロのトレジャーハンターも存在する。(トレジャーハンターWikipedia)
したがって、考古学者であるインディ・ジョーンズが冒険家として活躍するのは当たり前であり、「黄金=未知なる知識」を求めていたのだ。同様に、映画のなかで図書館にいる学生への言葉、
「よき考古学者になるには、図書館から脱出することだ」(インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国)
も同様だ。未知なる知識は、誰も書き留めていない。自分で探して初めて、自分のものとなる。

テーマは自分で探す

デジタル教科書を初めとして、これからIT機器を使った教育が増えていくのは間違いない。だが、考えなければならないのは、学ぶ意志のない人間は、いつまでも取り残されるということだ。所詮、これらの機器は道具であり、自ら学ばない人間には何の役にも立たない。今まで、教師が一方的に教えてきた形をテレビ型としたら、これからは自分でテーマを探して調べていくPC型だと思う。確かに、PCがタブレットになり、キーボードのようなものがついてないから、普通の人でも取り組みやすくなった。だが、その内容が簡単になったわけではない。インターネットで膨大な情報を検索できるようになったけど、それは日頃から検索する習慣のない人間には、いきなり大海に飛び込むようなものだ。

「学習」という言葉は、学ぶ・習うと書くが、学ぶの元は、まねぶ。習うの元は慣れるだという。つまり、先生の言うことを、慣れるまで、まねることが「学習」なのだ。学校では、教師の言うことを聞いて、ひたすらまねるのが授業である。でも、これではインターネット時代の教育とは言えない。

僕は、ブログのテーマは自分で探す。誰かの真似をしてもしょうがない。アルビン・トフラーがこんなことを言っている。

その昔、社会がそれほど変化しなかったころ、老人が尊敬されていたのは、過去を知っていたからだといわれることが多いが、そうではない。未来を知っていたからである。未来は過去とほとんど変わらなかったのだ。
いまでは変化が速いので、古い知識のうちかなりの部分は死知識になっており、若者が道を切り開いていく際に役立つとは考えにくい。そして若者は老人の知恵をそういうものとして扱っている。(アルビン・トフラー/ハイジ・トフラー著/山岡洋一訳「富の未来・上(P266)」講談社)
変化がなかった時代、「ああすればこうなる」という道理は役に立った。今は、世の中は混沌に満ち、明日のことさえわからない。これからは、自分の道は自分で切り開かなくてはならない。「学び」もまた同様だ。だからこそ、「学ぶ」ことは楽しいのだと考える必要がある。
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