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素人だから言えることもある

なぜ、日本のテレビは貧しくなったか(2)

なぜ、日本のテレビは貧しくなったかでは、日本のテレビドラマが海外に売れない理由を考えてきたが、今回はバラエティについて考えてみたい。最近、「テレビは余命7年」(指南役著/大和書房)を読んだので、そこから引用したい。なお、指南役という名前は、雑誌日経エンタテイメントに「テレビ証券」という、番組批評欄があり、そこで名前を聞いたことがあろう。3人で構成されるエンタテイメント企画集団のぺンネームだという。

バラエティーが長時間化する理由

最近のバラエティ特番の特徴として、夜の特番の前に昼間に同じ番組の去年の再放送が流される。おかげで、昼・夜と続いて同じ番組を見ているような気がしてくる。しかも改編期のみの長時間スペシャルが、改編期でもないのに日常化している。テレビ局としては、何を考えているのか。「テレビは余命7年」では、
え? 自分はそんなにテレビを見ていない?
ならば、あなたの日々の行動を思い返してもらいたい。帰宅してまず何をするだろうか?
とりあえず、テレビをつけてはいないだろうか?
ただ、同時にパソコンも立ち上げ、メールやブログなどもチェックしている。テレビ画面はついたままだが、ほとんど見ていない。
メールチェックが終わると、今度はコンビニで買ってきた雑誌を広げる。ここでもテレビは見ていないが、ついたままだ。(指南役著「テレビは余命7年」大和書房)
確かに、言われるとおり、現在の自分を見れば、テレビをつけながら、パソコンでブログを書いている。したがって「テレビは余命7年」では、
そう、昨今のバラエティ番組の長尺化は、テレビの作り手が自分たちを“ながらメディア”と自覚している証しでもある。もはや彼らは、4時間ずっとテレビの前にいてくれる視聴者を対象に番組を作っていないのだ。(指南役著「テレビは余命7年」大和書房)
しかも、この“ながらメディア”により、視聴率がそれほど下がらない理由でもある。「テレビは余命7年」では、その原因を「世帯視聴率」にあるという。
実は、僕らが普段、目にしている視聴率は、先から何度も出る「世帯視聴率」。世帯ごとにカウントされたものである。

例えば、4人家族であれば、誰か1人でもテレビを見ていれば、世帯数の4人全員が「見た」とカウントされる。今どき、家族揃ってお茶の間で同じ番組を見る機会なんてほとんどないのに、今もテレビの世界は「三丁目の夕日」のような昭和30年代の視聴スタイルを想定しているのだ。


だから、たとえ視聴率が20%でも、実際に見ているのはその半分以下と思っていい。どうかしたら3分の1、4分の1だってありうる。


一方、スポンサーはかなり以前から、自社のマーケティングの参考になる「個人視聴率」に変更するよう、テレビ局側に求めている。しかし、テレビ局や広告代理店が頑なに阻んでいるため、実現には至っていない。
なぜか?
当然だけど、個人視聴率だと驚くほど数字が下がるからである。先に述べた4人家族の1人しか見ていなかったから、それまで視聴率20%だった番組が、一気に5%に下がってしまうからである。
そうなると、これまで高額の広告費を収めてきたスポンサー側が、広告料金の値下げを求めてくるのは間違いない。そうさせないためにも、旧態依然の世帯視聴率が今日も続いている次第である。(指南役著「テレビは余命7年」大和書房)

かつては、メディアがテレビしかなかったころ、学校での話題に乗り遅れまいと一生懸命に見ていた。今では、インターネットで様々な情報を知ることができるから、相対的にテレビの話題は減ってくる。そのことが、バラエティーの緊張感のなさを呼んでいるのではないか。

バラエティーが画一化する理由

ワイドショーを除いて、現在ではバラエティーはVTRが主流だ。緊張感のなさは生放送が減ったのも一つの原因であるという。
確かに、生放送を収録に切り替えることで、テレビ局側は放送事故を未然に防いだり、2週分収録することで、スタジオ使用料を抑えたりといったメリットがあるだろう。
でも――それと引き換えに、多くのモノを失った気がする。
最近のバラエティで僕らが感じる“画一化”も、その1つである。
例えば、何かのVTRを流して、スタジオのひな壇にいるお笑い芸人やグラビアタレントの表情をワイプ(画面の片隅に設けられた小窓のような別画面)で映し、VTR開けに感想を述べ合う番組。ウケたコメントには大きなテロップがついたりして、流すVTRの内容が変わるだけで、大抵の番組は、大方そのフォーマットで作られている。

なぜ、そんな画一的な番組が増えたのか?
その種の番組は、オンエアの3倍くらいの時間をかけてカメラを回し、いいコメントだけを摘んで編集すれば、それなりに形になるからである。
まぁ、オンエアされたものを見ると、それなりに面白い。何しろ面白いカットしか使っていないのだから当然だ。でも、どこか人工的な匂いもする。スタジオに緊張感がないというか、すべてにおいて展開が予定調和なのだ。(指南役著「テレビは余命7年」大和書房)

VTRのワイプも画一的な面だが、CMの前に必ず次のコーナーのフリをするのも画一的だ。その原因は、リモコンだったという。
その昔、視聴者はCMになっても、滅多にチャンネルを変えることはなかった。リモコンがないので、わざわざ席を立ってチャンネルを変えるのは面倒だからである。
一方、テレビ局の側も、当時はそんな視聴者を信頼して、いわゆる「CMまたぎ」を気にせず番組を制作できた。例えば、クイズ番組などは、ちゃんと解答まで放送してからCMに入った。CMが明けて、改めて次の問題が始まるのだ。
ところが、これが80年代になってリモコンが普及すると、まず子どもたちが面白がってザッピングを始めた。CMに入ると他局を巡回するようになったのだ。だが、この時点では、まだ大人たちは「ザッピングは下品な行為」と、その行為を慎んでいた。ところが、それが90年代に入ると、今度は大人たちもザッピングを始める。
キッカケはフジテレビ――ではなく、日本テレビだった。

現在のバラエティ番組は、CMの前に「フリ」を入れるのがお約束になっている。
例えば、クイズ番組なら、答えを発表する寸前でCMに入る。すると、視聴者は答えが気になり、CMの間もチャンネルを変えられない。もしくは変えても、答えが気になり、すぐに元のチャンネルに戻ってくる。そしてCM開け――ご丁寧にも問題がリピートされ、ようやく解答が発表されるのだ。
クイズ番組以外でも、そのパターンは同じである。「この後、とんでもないことがぁ〜!」とナレーションで大いに煽ってCMに入る。そして、CM開けにご丁寧に2分ほど番組をさかのぼり、それまでの流れをおさらいして、ようやく先の展開が放送される。もちろん、それが「本当にとんでもない」ことは稀である。

実は、これら今日のバラエティでお馴染みの手法は全て、90年代初頭に日本テレビが発明したものだ。
話は25年ほどさかのぼる。1980年代半ばの日テレは、開局以来の低迷期を迎えていた。かつてTBSと並んで2強と言われた視聴率はフジに抜かれ、4位のテレビ朝日にも肉薄されつつあった。
そこで、日テレは80年代後半、様々な改革プランを立ち上げた。その1つが、プロパーにこだわらず、外部から積極的に人材を登用することだった。このときに中途入社したのが、のちに「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」や「エンタの神様」を生み出す五味一男さんや、主にダウンタウンの番組を手掛ける菅賢治さんらである。そして、彼らの同期に、広告代理店から広報部に転じた人物もいた。彼は元広告マンのノウハウを生かし、いかにすれば「毎分視聴率」が落ちないかを徹底して研究したという。
そうして編み出された手法が、先のCM前の煽りやCM明けのリピート、定時より前に番組をはじめるフライングスタートをはじめ、番組開始からしばらくCMを入れなかったり、タイトルをなるべく遅らせたり、2時間番組なら定時またぎに番組のピークを持ってきて他局への流出を防いだり――などなど、チャンネルを変えさせない手法であった。(指南役著「テレビは余命7年」大和書房)

「テレビは余命7年」によれば、バラエティの長時間化も画一化も、結局、視聴率競争のためであった。視聴率が高ければ、スポンサーからの広告収入も増えるという民放ならではの方式がある。だが、これは結局、視聴者の方向を向かず、スポンサーの方向を向いてるだけじゃないのだろうか。
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