夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

引用なしでは一歩も前に進めない

研究書はなぜ難しいか

それは、読者がその専門の研究者だからである。研究者なら当然知っている基礎知識を前提に書かれているからだ。もし、ターゲットを一般にしたら、たちまち本が何倍も分厚くなるに違いない。そして、基礎の基礎、研究者が学んだ知識の引用から始めるだろう。

同じように、映画の感想も、同じ映画を見た人を読者ターゲットとして書かれている。だが、これでは、その映画を見たごく少数の人や、上映中の短い期間しか読むに耐えないことになる。僕は、その映画を見たことのない人にもわかりやすくその映画の意義を伝えたい。

書評でもそうだ。本来は、その本を読んだことのない人に勧めるのが目的なのに、いつのまにかその本を読んだものしかわからない読書感想文になっている。僕は、その本の中で、ブログの読者に今伝えたい生の言葉を探すことにしている。個人的な感想より、よほど役に立つ。

個人の知識は他人の知識の寄せ集め

僕は、このブログを、様々な本やネットのデータから取り出したスクラップブックにしたいと思っている。普通、スクラップブックに、新聞の切り抜きやら、本のコピーなんかを貼る。ブログに書く文章の下書きにあたる。僕は、その下書きそのものを、ブログのエントリーに載せる。そして、翌日になれば、新たな知識を手に入れて、昨日のエントリーを材料に新たに考えを練る。

よく、オリジナルな言葉を大切にというが、学校の授業で学んだことも誰かの知識の寄せ集めでしかない。普通は、それらの知識を自分の言葉に置き換えて、自分の文章にする。だが、それはその個人のオリジナルな文章なのか。結局、元ネタがあるだろうし、そこから抜け出すことはできないだろう。それだったら、素直に、ここから引用しましたと書けばいい。新聞記事はそれを書かない。僕は、ブログはスクラップブックで、こんな言葉を引用した。

編集者はネタ元を明かさない。キュレーターは引用元を明示する。
「情報ソースの秘匿は編集者の義務であり、責任である」そんな言葉を何度か聞いたことがあります。編集者にとって、ネタ元は財産であり、あまり積極的に開示しない傾向があるように思います。実際は孫引き記事なども多いのですが・・・。一方キュレーターは、一次情報に価値を置いていないので、引用元があるならば、積極的に明示します。きちんとサイトリンクまですることが作法となっています。(私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。)

かつて、よほどの研究者でない限り、新聞を比較することができなかった。だが、今では簡単にネタ元を探ることができる。だから、数日でリンク切れになるWEB新聞が多いのだが。

ともかく、スクラップであるから、ネタ元の表示は重要である。過去のエントリーを材料にして新たなエントリーのために、思索を巡らすことができるから。もし、ただ、その時その時のニュースに反応するだけだったら、そのブログは何の発展も蓄積もないのだから。


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