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素人だから言えることもある

インターネット時代に「日本の自殺」を読む(タブレットがテレビになる時・2)

「日本の自殺」と「日本沈没

37年前、月刊誌文藝春秋にて「日本の自殺」というものが発表された。その「日本の自殺」についての一端を、日経新聞パンとサーカスがはびこる「日本の自殺」と題して書かれたものを、僕は「宇宙戦争」と「日本の自殺」として引用した。最新の文藝春秋三月特別号にオリジナルの「日本の自殺」の再掲載(抄録)されたので、インターネット時代の現在にこの論文について考えてみたい。ただ、ほぼ20ページにわたる掲載なので骨子と部分引用で紹介したい。この「日本の自殺」のテーマについて、こう書かれている。
小松左京氏は『日本沈没』という極めて優れた風刺的作品を発表したが、われわれの問題意識は、日本沈没の可能性が単に地質学的レベルで存在するのみならず、政治学的、経済学的、社会学的、心理学的レベルでも存在しているのではないかということであった。もしかすると、日本は地質学的に“沈没”してしまうはるか以前に、政治的、経済的、社会的に“沈没”してしまうかもしれない。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
この「日本の自殺」が書かれたのが、1975年(昭和50年)。「日本沈没」が出版されたのが1973年(昭和48年)である。小松左京氏は、この「日本沈没」発想の理由をこう書いている。
そもそも昭和48年(1973年)に出版された『日本沈没』第一部を書きはじめたのは、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年だった。悲惨な敗戦から20年もたっていないのに、高度成長で浮かれていた日本に対して、このままでいいのか、ついこの間まで、「本土決戦」「一億玉砕」で国土も失いみんな死ぬ覚悟をしていた日本人が、戦争がなかったかのように、「世界の日本」として通用するのか、という思いが強かった。そこで、「国」を失ったかもしれない日本人を、「フィクション」の中でそのような危機にもう一度直面させてみよう。そして、日本人とは何か、日本とはどんな国なのかを、じっくりと考えてみよう、という思いで、『日本沈没』を書きはじめたのである。

(中略)

したがって、国を失った日本人が難民として世界中に漂流していくことが主題だったので、当初はタイトルも「日本漂流」とつけていた。しかし、日本を沈没させるまでに9年間もかかり、出版社がこれ以上待てない、ということで、「沈没」で終わってしまった。そして、「第一部 完」としたのである。(小松左京・谷甲州著「日本沈没 第二部」小学館・あとがきより) )(追悼・小松左京(現実がひっくり返る年・5))

「日本の自殺」を書いたグループ1984年も、1970年代には、社会的衰退のムードや社会病理現象が数多く観察されたという。

ローマ帝国の滅亡

そこで没落の原因をローマ帝国の滅亡に求めた。プラトンによれば、
ギリシャの没落の原因は、欲望の肥大化と悪平等主義とエゴイズムの氾濫にある。道徳的自制を欠いた野放図な「自由」の主張と大衆迎合主義とが、無責任と放埓とを通じて社会秩序を崩壊させていったというのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
グループ1984年は、このような結論を導き出した。
過去のほとんどすべての没落した文明は、外敵の侵入、征服、支配などのまえに、自分自身の行為によって挫折してしまっていた。ほとんどすべての事例において、文明の没落は社会の衰弱と内部崩壊を通じての“自殺”だったのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
いかにしてローマは滅亡したか
(1)巨大な富を集中し繁栄を謳歌したローマ市民は、次第にその欲望を肥大化させ、労働を忘れて消費と娯楽レジャーに明け暮れるようになり、節度を失って放縦と堕落への衰弱の道を歩みはじめた。
(2)ローマ帝国各地から繁栄を求めて流入する人口によってローマ市の人口は適正規模を超えて膨張に膨張を続け、遂にあの強固な結束をもつ小さくまとまった市民団のコミュニティを崩壊させた。
(3)ローマ市民の一部は一世紀以上にわたるポエニ戦争その他の理由で土地を失い経済的に没落し、事実上無産者と化して、市民権の名において救済と保障を、つまりは「シビル・ミニマム」を要求するようになった。よく知られている「パンとサーカス」の要求である。
(4)市民大衆が際限なく無償の「パンとサーカス」を要求し続けるとき、経済はインフレーションからスタグフレーションに進んでいくほかはない。
(5)文明の没落過程では必ずといってよいほどにエゴの氾濫と悪平等主義の流行が起こる。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)

日本の危機

グループ1984年は、外面の危機と日本人の内面の危機と分け、この内面の危機が一番恐ろしい危機だと説く。

日本が直面する困難
(1)資源・エネルギーのきびしい制約。
(2)環境コストの急上昇。
(3)労働力需給のひっ迫と賃金コストの急上昇。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)

没落の真の危険

つまり、没落の真の危険は、日本人がこの危機や試練を正確に認識する能力を失いつつあることのなかに、この危機や試練に挑戦しようという創造性と建設的な思考を衰弱させつつあることのなかに、また日本人が部分を見て全体をみることができなくなり、短期のことしか考えず、長期の未来を考えることができなくなり、エゴと放縦と全体主義の蔓延のなかに自滅していく危険のなかに存在するというべきなのである。現在の日本社会のなかに働いている自壊作用こそ真に恐るべきものであり、これこそが、一切の束縛から解放された自由精神が全力を挙げてたたかっていかなければならないわれわれの「内部の敵」なのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
これは、僕が現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で考えたことであり、また、日本社会はどこまで失敗を許すかで失敗を恐れてチャレンジしないことでもある。

豊かさの代償
(1)資源の枯渇と環境破壊。

豊かになればなるほど、一方で資源消費量が増大して資源不足や資源価格の高騰を招き、他方で生産、消費の過程での廃棄物が増大して環境の質の悪化をもたらす。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
(2)使い捨て的な大量生産、大量消費の生活様式が人間精神に与えるマイナスの諸影響。
使い捨ての生活様式は、単に資源の浪費、廃棄物の増大による環境破壊をもたらすのみならず、その生活の質の点で大きなマイナスの副作用をもたらす。使い捨て的な生活は一時性、新奇性に高い価値を与えるが、このように人間とものとの関係がかりそめの一時的な関係になり、絶えず新しいものを追い求める結果、その生活は心理的に極めて安定を欠いたものとなる。欲望は絶えず刺激されて肥大化し、いつになっても充足感が得られない状態になってしまうのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
(3)便利さの代償
生活環境が温室化すればするほど、教育は人為的にでも厳しい挑戦の場を子供たちに提供すべきなのに、教育はのちにも触れるように過保護と甘えのなかに低迷していた。こうして、自制心、克己心、忍耐力、持続性のない青少年が大量生産され、さらには、強靭なる意志力、論理的思考能力、創造性、豊かな感受性、責任感などを欠いた過保護に甘えた欠陥少年が大量に発生することになった。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)

現代文明がもたらす幼稚化

グループ1984年は、ここでホイジンガの言葉を引いている。
「判断能力の発展段階からみて、それ相応以下に振舞う社会、子供を大人に引き上げようとはせず、逆に子供の行動に合わせて振舞う社会、このような社会の精神態度をピュアリリズムと名付けようと思う。今日、このピュアリリズムは日常茶飯事にわたってみられ、その例はどこにでも転がっている」。そしてこの精神状況を特徴づけるものは、「適切なことと適切ではないことを見分ける感情の欠落、他人及び他人の意見を尊重する配慮の欠如、個人の尊厳の無視、自分自身のことに対する過大な関心である。判断力と批判意欲の衰弱がその基礎にある。このなかば自ら選びとった昏迷の状態に、大衆は非常な居心地のよさを感じている。ひとたび倫理的な確信のブレーキがゆるむや、いついかなる瞬間にも危険極まりないものとなりうる状況がここにある」(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
このような思考力・判断力の幼稚化は高度現代文明それ自体の産物だとグループ1984年は言う。

思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化
(1)便利さの代償

現代人はこの便利な技術世界のなかにあって、文字通り子供のように振る舞っている。押しボタンを押すだけで、かれはいながらにしい世界中をあちらこちらと覗き込むことができる。ボタンを押すだけで、パンが焼け、飯が炊け、洗濯物が仕上がり、部屋が涼しくなる。街角ではやはり、ボタンを押すだけで、自動販売機からたばこや缶ジュースや週刊誌が飛び出してくるし、切符を買うだけで飛ぶ機械や走る機械が自動的にどこへでもかれを連れて行ってくれるのである。
押しボタンの世界の中で生活していくのに、現代人はどれほどの思考力、判断力が必要とされるであろうか。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
(2)マスコミの発達と教育の普及による情報化の代償
かつての時代の農民、漁民あるいは職人たちは完全に自分自身の生活体験を通じてテストした知識の枠内で図式を作り、それでもって人生や世界を測っていた。かれらの持っている知識や情報は確かに限定されたものであったかも知れないが、しかし少なくともかれらの生きている生活空間に関しては現代人の到底及びえない賢明さと生活の知恵を持っていた。それに引きかえ、現代人は自分の直接経験をしっかりと見つめる時間を失い、自分の頭でものを考えることを停止したまま、皮相な知識の請け売りで、アラブがどうした、韓国がどうだと世界中の出来事に偉そうに口をはさんでいらいらと生きているのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
これなどは、タブレットがテレビになる時で引用した、
ITの潮流の一つにアンビエントな世界というビジョンが語られている。センサーネットワークが全てを検知し、人間が何もしなくても温度調整や、健康管理といたれりつくせりな生活を提供してくれる世界だ。
このような世界になることによって、ITを使えない人もITのメリットを享受出来る。その一方で懸念されているのが「人間が馬鹿になる」という点だ。そんなことは無いだろうと思っていたが、昨今の「思考を放棄し始めた人々」を見ていると、あながちその懸念は間違っていないかもしれないと感じる。
人間が思考を忘れ、機械が思考する。果たしてどちらが人と呼ばれる存在になるのだろうか。これからのITの進化は人を退化させるかもしれない。(思考を放棄した人々、大元隆志さんのフィードから―)
の思考停止状態の人々を思い出す。

情報洪水による人間の劣化

1975年の論文なので、ここではテレビなどのマスコミによる情報について考察している。

情報化の代償
(1)直接経験の比重が相対的に低下し、マスコミによる情報の間接経験の比重が増大したことによる副作用

マス・コミュニケーション発達は一方において人間経験の世界を、各個人が直接経験できる時間・空間の限界を越えて外延的に拡大させる。ところで他方、この外延的に拡大した経験世界の内容はますます希薄化し、断片化し、空虚なものとなる。それはこの外延的に拡大した間接経験の世界ないしは記号経験の世界がますます現実の各個人の直接的生活経験と遊離し、自らの直接経験と思考を通じてのその両者の対応をつけたり、その妥当性を検討することが一層困難になってくるからであり、その大量の間接経験のバラバラな断片をひとつのトータル・イメージに合成することがますます難しくなるからである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
インターネット時代になってくると、その情報はますます断片的になっていく。しかし、一方でテレビと違って、努力次第で、より深く関連付けて学ぶことも可能である。一方、テレビは、どうしても表層的な情報になってしまい、なかなか深い情報を伝えることが不可能に近い。

(2)情報過多による不適応症状
(3)情報の同時性、一時性

膨大な現在進行型の情報の氾濫のなかで情報のライフ・サイクルは短縮化し情報は消耗品化し、情報使い捨ての傾向が極端になってくる。大量高速情報から自己を防衛するひとつの安易な適応方法は、忘れっぽくなること、つまり健忘症になることであり、歴史的な連続性の感覚を喪失して刹那主義的な生き方を採用することである。こうして、一時性の情報環境のなかで深い人間的感動をともなう経験の昇華の余裕のないままに、浅薄な好奇心だけが肥大化させられ、人間は精神的・情緒的安定を失って「今、今、今……」をうわべだけで追い求めるようになる。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
(4)情報受信と発信との極端なアンバランス
本来、人間の思考能力や創造性は受信と発信の反復を通じてはじめて可能となるものであるのに、この思考のプロセスをじっくりと通過させないために、短絡型の、論理的思考能力のない人間が量産されてくることにもなる。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)
(5)マス・メディアによる異常情報、粗悪情報の過度拡散傾向
大量に見られる現象はニュース・バリューがないとして記事にならず、異常現象だけをこれでもか、これでもかとばかり拡大してみせつけるというメカニズムが異常に肥大化し、その結果、マスコミは異常な、虚構の世界を作り上げることとなり、国民の欲求不満を異常に高めることになったのである。(共同執筆・グループ1984年著「預言の書『日本の自殺』再考」文藝春秋三月特別号)

自分の道を決めるのは自分だけである

「日本の自殺」では、この後、「自殺のイデオロギー」「疑似民主主義」「没落を阻止するための教訓」と続くのであるが、後半は、政治的な話が強くなってくる。もともと、ローマ帝国の滅亡から始まったのだから当然だとは思う。確かに、現代社会を見れば、同じような兆候がより強く出ているのでうなずける部分もある。ただ、待てよと思う部分もある。それは、果たして1975年当時にインターネットのようなメディアを想定していたとは思えないからだ。
1970年代、マス・メディアは、一般国民にとって、あって当たり前の時代だった。比較するものは、テレビがなかった時代しかなかった。テレビがなかった時代から、テレビの時代を見て、あの頃より劣化していると思うのも当然だろう。なぜなら、比較者は過去の時代が良いと思っているのだから。同じように、インターネットのある現代もそう考えるかもしれない。
でも、視聴者はテレビ時代では発言することすら許されなかった。それが、一人一人インターネットで発言するチャンスが与えられたのだ。僕は、タブレットがテレビになる時でこう書いた。
外見が似ていても、テレビとPCはまったく目的が違う。タブレットでできるのはリモコン以上のものだ。だが、使いこなせない人間にとっては、リモコン以上のものにはならない。タブレットをツールとして使うことで、自ら頭を使って学ぶことができるはずだが、タブレットがテレビとなった時、テレビの受け身性を持っているので、そこから抜け出せない人間が増殖する。
使いこなせない人間はますます劣化し、使いこなせる者のみ生き残る。いくら批判したところで、進化は昔へ戻せない。その時代、その時代に合った方法で生きのびるしかない。
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