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素人だから言えることもある

コミュニケーションツールがコミュニケーションを破壊する

コミュニケーションは外から見えること

たとえば電話がそうだ。昭和30年代、各家庭には、一台の黒電話が電話台の上に電話帳と一緒に置かれていた。そこに置かれていると、家族の誰が電話を取り、どんな話をしているか筒抜けになる。現代では、携帯電話が当たり前になり、家族の誰が誰と話しているのかが分からなくなった。そのため、家族内のコミュニケーションが断絶していることは、「三丁目の夕日’64」と「麒麟の翼」をつなぐテーマ「コミュニケーションのない家族」(ネタバレあり) でも考えたことである。

また、パソコンでも同じだ。600万人の社内失業者で内田研二氏のこんな言葉を引用した。

どれだけ大事な仕事を効率良くやっているかは本人にしかわからない。外見では他人の仕事ぶりが分かりにくい。じっとパソコンの画面を見つめている人は、真剣に問題を考えている場合もあれば、表の罫線の消し方がわからなくて悩んでいる場合もある。真面目な顔で腕組みしている人は、大事な問題を考えている場合もあれば、前日の二日酔いで仕事に集中できない場合もある。忙しくキーボードを叩いている人は、重要な企画書を作っている場合もあれば、同僚に飲み会の連絡メールを流している場合もある。

(中略)

昔であれば、働いている様子を見れば大体その社員の仕事ぶりを推測できた。手際が良いとか、困っているとか、トラブルに巻き込まれているとか、それなりに周りの人が感じ取ることができた。近くにいる人ほどその社員の人柄や能力もわかりやすかった。昔の職場では複数の社員が仕事を分担していたので、いい意味でも悪い意味でもお互いに干渉しなければならなかったからだ。(内田研二『成果主義と人事評価』講談社現代新書)(増田不三雄著「社内失業 企業に捨てられた正社員」146ページ/双葉新書)

つまり、コミュニケーションの本質は、顔と顔を合わせることだ。ところが、これらのケータイやパソコンのようなコミュニケーションツールが、顔と顔を合わすコミュニケーションを阻害している。

好きな時間に参加して好きな時間に落ちるコミュニケーション

一方で、IT機器は会社や家族という限定されたグループではなく、もっと世界を広げることができる。たとえば、マラソンブームの陰に「お一人様」を支えるソーシャルコミュニケーションツールでは、スカイプを使って自宅で二次会をするのが流行っているのだという。
バーチャル二次会は飲み会から自宅に帰る途中にコンビニなどで自分のつまみや飲み物を購入した上で家に帰り、好きな時間に参加して好きな時間に落ちる(=やめる)ことができる。最近の大学生は、ルームシェアなど節約をして共同生活をしている人も多く、自宅に友人を連れ帰って二次会というのも難しいのかもしれない。経済的にも安く済み、好きな時間に好きなだけ参加できることは極めて合理的で、いろいろな意味でのリスクも少ないと思う一方で、もっと泥臭い人間関係やしがらみを経験できないという意味で、偏った経験になってしまうのではと心配される方もいるかもしれない。

ただ、デジタルネィティブになればなるほど、リアルの体験とバーチャルな体験の違いがなくなってきているということは言えるのではないだろうか。(マラソンブームの陰に「お一人様」を支えるソーシャルコミュニケーションツール)

僕は、この中の「好きな時間に参加して好きな時間に落ちる(=やめる)ことができる。」という言葉に注目する。僕は、メディアはなぜ孤立化を好むのかで、心理学者の小此木啓吾氏の言葉を引用している。
たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています。

「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。

それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス

もちろん、この文章は、30年前のウォークマン時代の記事である。僕は、その「メディアはなぜ孤立化を好むのか」で、こう説明している。
このメディアは、人工物だから自分の都合でON・OFFできる特徴がある。メールができなかった時代の 携帯電話は、相手の都合を気にしなければならなかった。だが、メールができるようになって、そんな相手の都合も関係なくなる。その瞬間、自分のパーソナルな空間がその分広まったような気分になる。そしてこの友達関係も簡単にON・OFFできる関係となってしまった。(メディアはなぜ孤立化を好むのか)
リアル社会から見れば、バーチャル社会のコミュニケーションは理解しがたいだろう。いくら批判したところで、元に戻ることはできない。彼らがそれを望んだからだ。そして、現代のIT機器は、しっかりと〇・五の機器になっている。現実の友達の関係だと、30分と話し続けられないのに、ケータイだと何時間でも話している。この関係こそが、オンオフできないリアルの関係とオンオフできるバーチャルな関係の違いともいえる。だから、どうしても表面的な関係になってしまう。より深く付き合うと、抜けられなくなるのを恐れている。やはり、小此木啓吾氏のいう山アラシのジレンマのように。
そもそもこの問題について精神分析学者がしばしば喩えに使うのが、ショーペンハウエルの「山アラシのジレンマ」の寓話です。山アラシというのは日本ではあまりなじみがありませんが、ドイツではとても身近な動物です。ある寒い冬の朝、二匹の山アラシが「寒い、寒い」と言っていた。そこで二匹が寄り添って暖めあいたいと思ったが、お互いにトゲがある。そのお互いのエゴイズムのトゲで相手を傷つけあって、「痛い、痛い」といろいろなトラブルが生じる。そこで離れて距離をとったけれど、そうなると寒くて耐えられない。しまいには適度に暖めあって、適度にお互いのエゴイズムのとげの傷つけあいに耐えるという距離を発見した。小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス
いくら、昔に戻れといったところで文明の進化は止まらない。むしろ、IT機器を積極的に活用していくことが重要だ。コミュニケーションツールの良いところは、好きな趣味嗜好で集まることができる。そして、相手のいやな部分を見なくてもよい。でも、どこかで自分自身に向き合わなくてはならない。それには生の対話が必要だ。この両面を意識して活用していくことが必要である。たとえば、「希望のない国から希望の国へ」で書いたように、ネットの活用としてウィークタイズをとりあげた。
自分と違う世界に生き、自分と違う価値観や経験を持っている友だちからは、自分の頭で考えるだけで得られなかった様々な多くの情報が得られたりするものだ。(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ)
インターネットこそウィークタイズの宝庫である。これほど違った職業、違った年齢の人たちが集まった環境があるだろうか。好きな人と好きな趣味を語り合うのもいい。だが、もっと目を外に向ければ全く違う世界がそこに広がっている。それが、リアルとバーチャルが入り混じった世界だ。
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