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素人だから言えることもある

自由報道協会とマイノリティ憑依

ジャーナリストの江川紹子氏が、自由報道協会を退会したそうだ。僕は、自由報道協会に何のイメージも持っていない。ただ、最近、佐々木俊尚氏の「当事者の時代」を読んだため、この<マイノリティ憑依>を説明するケースにふさわしいので取り上げてみる。ここで、組織というものは、作ったころの理想が変容していくものだということを証明したいと思う。

さて、自由報道協会と言えば、ジャーナリストの上杉隆氏を代表にするフリージャーナリストの組織である。2011年7月1日現在の設立準備委員会のメンバーは、

東浩紀/伊田浩之/岩上安身/上垣喜寛/烏賀陽弘道/江川紹子/小川裕夫/おしどりマコ/上出義樹/重信メイ/渋井哲也/島田健弘/白石草/神保哲生/田中龍作/津田大介/中澤大樹/西岡千史/畠山理仁/ピオ・デミリア/日隅一雄/藤本順一/村上隆保/山口一臣/渡部真
(日本自由報道記者クラブ協会-Wikipedia)
Wikipediaにある通り、江川紹子氏は、今年の1月25日に退会のツィートをしている。(江川紹子「身内の人だけ大事な自由報道協会。」)ところが、5月になってまたもや自由報道協会批判。(自由報道協会は役割を終えた)
この原因を探ってみると、1月の小沢氏受賞騒動ではなくて、代表の上杉隆氏の言動に不信を抱いたようだ。たとえば、江川紹子氏のブログ、福島の今とこれから、そして報道について考えたでは、
そういう今の時期には、報道の仕事にも、よりきめ細やかな配慮が大切になってくる。
たとえば周囲に比べて高線量の地点が見つかった時、できるだけ具体的に、評価を交えずにそれを伝えるなら意味はある。それによって、人々は「この場所は避けて通ろう」などと行動に役立つ情報として受け止めるだろうし、行政に「ここは早く除染などの対策をすべきだ」と働きかけることもできる。あるいは、自治体ごとの比較として伝えれば、遅れている地域の対策を急ぐよう、尻叩き効果があるだろう。測定の方法についての提言なども有益だろう。
ところが、線量計を持って側溝や植え込みなどの線量の高い場所を探して周り、「福島は(あるいは郡山市は)、まだこんなに汚染されている!」「○○にはまだ線量が高いところがいっぱいある」とおおざっぱな伝え方をする人たちがいる。こんな風に、特定の場所の線量を、その地域全体が同程度に汚染されているかのような印象づけをして伝えるのは、むしろ有害だ。
ましてや、測定場所もあいまいな虚実取り混ぜた情報を、「郡山市に人は住めない」といった、おおざっぱで根拠不明の素人評価を押しつけて流布するなどといった行為は、メディアやジャーナリストが、今の福島に関して最もしてはならないことだ。あるいは、原発の影響による病気や体の異常をいち早く見つけようと前のめりになっている報道姿勢も問題だと思う。
問題や時期によっては、多少正確性を犠牲にしても急いで伝えなければいけない事柄もある。問題の所在を多くの人に気づいてもらうために、人を驚かせる大げさな表現になることがないとは言わない。しかし、今、福島の人たちと放射線の影響を語るのには、どちらの手法も不適切だ。間違っても訂正すればいい、などという考えでは、無責任に過ぎる。プロの情報発信者なら、まずは間違えないように努めるのが大前提だ。(福島の今とこれから、そして報道について考えた)
ここでは、ジャーナリストの名前が明らかにされないが、(注)+アルファでは、
上杉氏は、著書などを通じて、マスメディアについて「真相を隠蔽して虚報を流し、バレても責任を取らない。それでいて正義の旗を振りかざす横暴ぶり」と糾弾。マスメディアが国民をだましていると非難している。だが、そうした糾弾や非難は、そっくり今の彼に当てはまりはしないか。

それでも、彼の関心の対象が政治家やマスメディアに向いている間は、それぞれ反論する力や機会のある人や組織であり、私などがあれこれ言うことはないと思っていた。経歴を巡る脚色があったのかなかったのか、という点も、彼の読者や視聴者が判断すればよいことだと考えていた。
しかし、彼の事実に基づかない記事やお喋りによって、ただでさえ原発事故の多大な影響を受けて生活している福島の人たちを不安に陥らせ、ストレスとなり、あるいは福島の人々への差別を生みかねない事態になっているとなれば、話は別だ。なのに、彼のファンからの非難や揚げ足取りなどのリアクションを面倒がったり、同業者を批判する後味の悪さを嫌がって黙っていることは、結局、彼がやっていることに加担するのに等しいのではないか。なんども迷った挙げ句、そのように考え、思い切って本稿をアップすることにした。((注)+アルファ)

いわば、上杉氏は、<マイノリティ憑依>に陥っているのだ。佐々木俊尚氏は、「当事者の時代」で、こういう。
メディアの記者は<マイノリティ憑依>し、自分の側へと物語を引き寄せようとする。それは当事者のつくる物語とは位相が異なっている。だがその位相の食い違いは、エンターテインメントとして記事を受け取る読者にはほとんど気づかれない。その差異に気づくのは、本当の当事者だけだ。
しかしこの圧倒的な津波の現場は、その位相の差異をくっきりと際立たせてしまったように思えた。
被災地に立つ私の眼前では、一九七〇年代から日本のメディアがつくり上げてきた<マイノリティ憑依>というパラダイムが音を立てて崩壊しようとしていた。(P101被災地の瓦礫は二重の層でできている)
被災者に向かって言うことと、読者に向かって言うことは違ってはいけない。それはもちろん、当然なことだ。ところが読者にサービスとして、いささか大げさに伝えたものを、そのまま被災者に伝えると、二重に被災者を傷つける。また、政治批判と被災者の現実を同じように語ることも困難だ。佐々木氏は、「ノルウェイの森」を引用してこう語る。
ノルウェイの森』の緑のセリフを、もう一度引用しよう。
「こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子感心させて、スカートのなかに手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち」
学生たちは自己否定から世界を変えていくために、「帝国主義的搾取」「産学共同体粉砕」といったスローガンを口にする。しかしそれらの言葉には、実体が伴っていなかった。自分たちでもそういう「帝国主義」や「産学共同体」がどのように自分とつながり、社会をどう構成しているのかという具体的なイメージを持つことができなかったのだ。
「政府のやってることは全然だめだね」「政治家や金持ちが私らをだましてるんだ」。社会を抽象的に語り、抽象的に批判するのはたやすい。
「学費値上げなんてひどい」「ぼくらは単なるサラリーマンになるしかないのか?」。そういう自分の問題を、自分の言葉で素直に語るのも、たやすい。
難しいのは、自分の問題と社会の問題に橋を架けて、自分の問題と社会の問題を同じ地平で接続させていくことだ。それも、抽象的な空理空論ではなく。
こんなことができる人間は、昔も今もそんなに多くない。たいていの人間は、自分の問題を具体的に語る一方で、社会の問題については空理空論でたやすく批判してしまう。そういう落とし穴からほとんどの場合は逃れられないのである。(P44自己批判の理念とその困難さ)
政治を批判するのは簡単だ。だが被災者の現実を政治に正確につなげるという、本来の役割ができているメディアが果たしてあるか。もし、それができるとしたら、まさにそのメディアは当事者の役割を果たしていることになる。現場を知らない政治家との討論なら、偉そうなことは言える。しかし、そのことを本当に被災者の前で言えるか。

すべての組織は、最初の理想を忘れ、個人の思いよりも組織の延命を図る道具になっていく。そうなると、報道される弱者たちは、単なる飯の種だ。
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