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素人だから言えることもある

抜き書き週刊フジテレビ批評「日本人社会の言論とマスメディア」

本日、フジテレビで放送された「新週刊フジテレビ批評」のクリティックトークに、「当事者の時代」の佐々木俊尚氏が登場し、ジャーナリストの江川紹子氏とともに約20分間討論をした。著書「当事者の時代」をテーマにネットとテレビの将来の在り方についての発言が興味深い。

<VTR>
NA 今、メディア関係者の間で注目を集める一冊の本がある。「当事者の時代」。著者はジャーナリストの佐々木俊尚氏。マスメディアの使う言論が、21世紀の時代状況に、追いつけなくなっていることを解き明かし、それが日本人社会での言論そのものに影響を及ぼしていることを論理的に分析しているのだ。
3年前、「2011年 新聞・テレビ消滅」というタイトルの本を出版、既存のマスメディア批判の急先鋒として知られている。
佐々木氏は、今の日本社会におけるマスメディアを「当事者の時代」によってどう読み解いたのだろうか。そこで今日は、佐々木氏とともに、「日本人社会の言論とマスメディア」をテーマにクリティックトーク。

<スタジオ>
奥寺健キャスター テレビの現在や未来を様々な角度から掘り下げるクリティックトーク。今朝はジャーナリストの佐々木俊尚さんにお越しいただきました。おはようございます。

佐々木俊尚 おはようございます。

西山喜久恵アナウンサー よろしくお願いします。

佐々木 よろしくお願いします。

奥寺キャスター さて、今日のテーマは、「日本人社会の言論とマスメディア」です。佐々木さんは、元毎日新聞の記者で、現在はフリージャーナリストとして、ITメディア分野を中心に取材、執筆をしていらっしゃいます。
で、こちらのですね。「2011年 新聞・テレビ消滅」、今もVTRにありましたけれども、などの著書やインターネットでの発言でも既存のマスメディア批判の急先鋒として知られる佐々木さんなのですけれども、最新刊となる「当事者の時代」、こちらではマスメディア批判ではなく、日本人のメディア言論について「ネットメディアもマスメディアと同じように岐路に立たされている」ということを書いていらっしゃいます。
しかも、この「当事者の時代」、もう一冊持ってきましたけれど、結構、固いタイトルで、しかも分厚いんですよね。ちょっと薄めの辞書と言ったら言い過ぎでしょうか。それくらい…(聞き取り不能)どうでしょうか。

佐々木 普通の本の3倍くらいの分量。

奥寺キャスター ありますかねえ。結構、これ固いタイトルでもあるし、この辺、何かお考えも。

佐々木 そうですね。今の時代、何でも分かりやすいものを求められていて、すごくわかりやすい、こうすればうまくいくみたいなね、本ばかりあふれている。そういう本の中で、そんなに世の中わかりやすいもんじゃないし、複雑なものを複雑なままに受け止めつつ、みんなでものを考えていかなければいけない、そういう状況になってきているんじゃないか。そういう意味を込めて、固い難しいタイトルにしているっていうのもあるんですね。
もう一つはですね、日本人のマスメディア言論とかね、感情的に語る人がすごく多い、たとえばよく言われるのが、新聞記者が取材力落ちたとか、テレビは面白くなくなった。それって、昔、本当に面白かったか、昔は、取材力あったのかということまでみな突き詰めてないんですよね。そういうようなその感情的になる子はダメになった、今の若者はダメだ、そういうような議論ではなくて、もう少しきちんとロジカルに、僕はテクノロジー分野が専門なので、構造的にものを考えるというのがすごく習慣的にやっているんですけれど、そういう観点から、その戦後のメディア、戦後の日本人のやってきたということをもう少し捉えなおすことが必要なんじゃないかなと。すごく、この戦後、始まってすぐに、終戦の時に日本人は何を考えてきたのか、1960年代、70年代の学生運動を軸にあの当時の若者は何を考えてきたのか、というところから解き明かして、すべてその戦後のメディア史を総括しなおすということをずっとやってたら、こんな分厚さになってしまった。

奥寺キャスター 証拠がいっぱい詰まっているから、この厚さになってしまったということですね。

佐々木 そうです。

西山アナウンサー そこで佐々木さんに、テレビや新聞などマスメディアが抱える問題点3つを上げていただきました。こちらです。

<マスメディアが抱える問題点>
1.「当事者」意識のなさ
2.“みんな”という幻想
3.組織より“個人の意見”の発信を
西山アナウンサー という3項目です。

奥寺キャスター ちょっと、思いっきり整理をしたところからスタートするわけですけれども、まず一つ目の「当事者」意識のなさというのはどういうことになるんですか。

佐々木 そうですね。だから、よく、テレビのですね。ニュース番組で司会者やあるいはコメンテーターがおっしゃるのは、「我々庶民の代弁者であって庶民の目線で語ろう」、新聞の中でも市民目線でとかですね、市民の視点が大事だ、あるいは国民の視点が大事だといわれている。じゃ、そこに言われている庶民や市民や国民っていったいどこの誰なのかって突き詰めて考えたことは誰もないわけですよね。そこにいる誰かか、自分の知っている誰かなのか、そういうわけでもない。ひょっとしたら、それは幻想の存在で、現実にはいない人を勝手に、使っているんじゃないのか。さらに、よく、その市民とか庶民の代表選手として「市民運動家」の方を、取り上げるケースも多い。たとえばデモであったりとかですね、その市民運動家が反対運動を起こしました。でも、その市民運動家がマジョリティではないケースが多いわけですよね、その社会の中で。すごく突出した人たちで、優秀な人たちなんだけど、それはすごく一部の人たちなんです。一部の人たちにそれを代弁させて、国民全員がそう思っている、庶民がこう思っているって、全く意味がない、根拠がないんじゃないかと、いうことですね。それが、本来は当事者ってあるということですはね、なんというのかな、自分自身の立ち位置でものを考えなくちゃいけないということなんだけど、勝手に存在しない誰かを代弁してしまっていることに、これまで日本のメディアに当事者性、「当事者」意識の薄さというのが、表れているんじゃないのかっていうことですね。

西山アナウンサー 具体的なエピソードっていうと、最近ではどういうものがあげられますか。

佐々木 たとえばですね、典型的な例でいうと、その震災、東日本大震災以降ですね、たとえば東京電力・政府は悪魔、それに被害にあっているお母さんや子供は善だと、これは確かに、そういう面はあるかもしれない。でも、その間にいる方、たとえば、首都圏にいるわたし、あるいは大阪に住んでいるあなた、この人たちは絶対的な、善ではないわけですよね。福島で被害にあっている、お母さんや子供ではない、にもかかわらず、自分たちが絶対、善であるかのように、考えて、たとえば、東京電力けしからん、政府けしからんというふうに言ってしまう。でも、本当は僕らって、福島の子どもでもなければ、東京電力・政府でもない。その中間の地点にいる。ぶらぶらどこにいるかわからない。宙ぶらりんの存在なわけじゃないですか。宙ぶらりんの存在だと認識しなけりゃいけないのに、まるで自分たちが被害者を絶対的な善であるかのようになってしまうというのが典型的な例だと思います。

奥寺キャスター それが一つ目の「当事者」意識のなさということですね。

西山アナウンサー つづいて、“みんな”という幻想ということなんですが、これはどういうことですか。

佐々木 そうですね。マスコミという言葉の「マス」っていうのは、ようするに我々みんなという意味だと思うんですけれど、今の時代って、完全に日本人全体っていう意識を持っている人たちがだんだん減ってきている。もうすごい、いろんな分断が広がっているわけですよね。たとえばもう、東京と地方では全然考えていることが違うとか、格差社会化が進んで、豊かな人と貧しい人と考え方が違う。震災以降、図らずも明らかになったのが、同じその日本国民であっても、津波の被災地にいた人たち、あるいは福島の原発の近くにいた人たち、全然考え方が違う、受け止め方が違う。さらには、仙台みたいな津波被害に会わない内陸の人たちでも、全然違う。さらには、首都圏にいる人間と、被災地に会った人たちも違う。福島の原発の放射線問題がかなり気にかかっている首都圏にいる人たちと、全くそのことを気にしてない人たち、大阪・西日本の人たちと全然違う。そこには温度差がすごい勢いで広がっていく。そこでは求めている情報さえも違うわけですよね、震災についての。っていう状況の中で、マスっていう考え方自体が成り立たなくなってきているんじゃないか。っていう、そういう問題があるのに、いまだに「みんな」っていうことを言いたがる。ちょっと、問題が起きているんじゃないかなということです。

奥寺キャスター これまでは、マスメディアは、みんなの代弁というそのスタンスがずっと変わらずに、来たんですよね。

佐々木 そうなんですよね。そこはもう、代弁できないのであれば、もっと違う形で、自分たちの情報を発信していく、もちろんテレビ局や新聞社の役割があるわけで、必要なんですけれども、その立ち位置をもう一回、捉えなおしましょうと。そういうことだと思うんですよ。

奥寺キャスター その立ち位置ですよね。非常に難しいことだと思うんですけれど。江川さんは、そのことについて、何か思う事ありますか。

江川紹子 そうですね。これだけほんと多様化していると、「みんながそうだ」とか「こういうもんじゃないか」ではなくて、「私はこう思う」とか「うちはこう考える」という、そういう発信の仕方をしていかないと、なかなかこう難しいのかなと感じがしますよね。さっき「当事者意識」のところで皆さんが語られていた、善・悪、そしてその中間の中に本当はいるのに、そこのグレーのところが認識できないっていうのがですね、そういう問題ってやっぱり、いわゆる二元論的なそういう発想というのがここの所蔓延してきたと。それにやっぱり、メディアも一役買っちゃってるなと、やっぱりわかりやすさを求めるので、わかりやすさというと、善と悪の対決というのが、一番わかりやすいんですよね。そういうことをずっと続けていくうちに、やっぱり多くの人たちの思考パターン、だんだんそういうふうに、すぐにいいものか悪いものか決めたがるっていう感じになってきちゃったところがあるんじゃないかなと。私は、それをどうやって変えていくかということだなと思います。

佐々木 二元論で語られない複雑な世界の遺産をもう少しきちんと伝えるというのが本当はメディアの重要な役割で、二元論に落とさないことのほうが大事ですよね。そのためには、我々は、マスメディアの人間も含めて、善でもない、悪でもない、その宙ぶらりんのどのへんにいるのかという距離、その善からの距離、悪からの距離、真ん中辺に自分の立ち位置を常に確認する作業をしなければならないっていうことだと思います。

江川 リスクなんかに関してもね、やっぱり絶対安全、絶対危険というのじゃなくて、どれだけリスクが高いか低いかというそういう問題だと思いますね。だけども、極論で語りたがる、じゃ絶対安全なのかって。そういう誘惑からどうやって、その誘惑をどう克服するかということだと思うんですね。それ、非常に難しいなと思うのは、日本語というのは、表現に比較級がないんですよね。よいか悪いかというのはあるんですけれど、betterというのに該当する言葉ってないですよね。「よりよい」という副詞をつけなければいけないことになる。だから、言葉の発想として、比較級でものを考えるというのが、やりにくい言語なのかもしれないですよね。だから余計に意識して、比較級でものを考えるということを、努めていかなくちゃいけないんじゃないかな、と思うんですよ。

西山アナウンサー そういった意味で3つ目の組織より“個人の意見”の発信をということになるんでしょうか。

佐々木 そうですね。だから組織として、自分たちはこの立ち位置だっていうのが、一個一個のことについてすべて定めていけば難しいわけですよ。やっぱり、テレビ局にはテレビ局の、局の論理というのがあり、新聞社には新聞社の社論というのがあるわけなんですが、それって、すごく大雑把じゃないですか。みんな同じ意見とは限らない。ひとつの、たとえばフジテレビの中でも、こういう意見の人もいれば、こういう意見の人もいる、いろんな意見もあるわけです。原発の問題にしても、いろんな考え方がある。あるいは、TPPにしてもいろんな考え方がある。それぞれの考え方をまとめて一つの局の論理にしてしまうのは相当無理があるわけで、じゃなくて、一つのテレビ局、一つの新聞社の中でいろんな記者、いろんなディレクターが持っている意見を、それぞれ個人で発信していけば、別にそれでいいんじゃないの。中で、どんな議論が行われているかをもう明かしちゃっていいんじゃないの。今までは、番組の会議の中で、ミーティングだとかいろんな議論をしているわけですね。熱い議論というのが隠されていて、丸くなって落ち着いた議論が番組として見せる。ということをやってきたわけです。けれど、今のインターネットみたいなオープンの世界がどんどん広がってきてると、それだと許せなくなってきているんではないかと。だから、こういう議論があって、こういうやり取りがあったんですよってすべて見せたらどうか。そこをブラックボックスにしない。ぐらいの発想のほうが、じつは、多くの人に受け入れられやすいんじゃないかな、という気がします。

奥寺キャスター まあ、テレビと新聞について、多少社論というものの考え方は違うと思うんですけれど、ずっとテレビを見ていく人にとって、テレビ局がそういう姿勢なのか、それとも出ている人や番組が言っていることなのか、そのあたり、戸惑ってしまうということは?

佐々木 そうなんですよね。それは視聴者がそれに慣れていかなくてはいけないということが、当然あるわけなんですけれど、どうしてもやっぱり、組織って信用できない感じになっちゃう。ツィッターなんかもそうですよね。公式アカウントみたいなものは、なんとなく胡散臭い感じになっちゃうけど、個人の生々しい感覚が出ているものは、なんとなく信頼できる、それに人間味があるかどうかって、すごく大事なんですよ。組織の論理ではなくて、フジテレビのこの人が、こういう意見だ、とちゃんという。反論があったら、ちゃんと答える。それをやっていると、フジテレビ全体の信頼感は、ないかもしれないけれど、個人としての信頼感は必ず高まると思います。そういうたくさんの個人の信頼感が集まって、最終的にそれがフジテレビっていう組織の信頼感につながるっていう、そういう考え方をオーバーしたほうがいいんじゃないかなと思います。

奥寺キャスター この「週刊フジテレビ批評」自体もですね。このツィッターとして、シコシコ番組として発信したりしています。江川さん、そういう傾向は出てきましたね。

江川 そうですね。もう、メディアも可視化される時代になってきましたから、きれいにまとまった商品をお届けしますっていうのではなくて、その裏側が見えてきちゃっているんですよね。たとえば、記者会見なんかやっても、その状況がそのまま伝わっちゃったりするので、どういう会社のどういう人がどういう質問したかということがわかっちゃう。そういう可視化される中でどういうふうにやっていくかっていうことだと思うんですよね。だから、同時に、さっき個人の発信がすごく大事だとおっしゃいましたけど、やっぱりまだまだこの情報の受け手もですね、組織としてすぐ結論をつけてレッテル貼りすることがあるじゃないですか、たとえば「フジテレビはダメだ」とか「NHKはダメだ」とか、そういうレッテル貼りとどうやって向き合うか、それはやっぱりさっきおっしゃった個人の地道な発信というのがレッテル貼りの誘惑を克服することになるのかなと、さっきのお話を伺いながら思いました。

奥寺キャスター だんだん傾向としては変わってきているんだと。具体的にテレビとして、そういういろんなツールをどう生かしていくか。

佐々木 そうですね。もちろん、テレビや新聞の役割自体がなくなるというわけでは決してなくて、プロのメディアはすごく重要なんです。調査報道して権力が何か悪いことをしないかを監視していくということは重要である。ただ、今までテレビ局がやっていることは、我々メディアがすべて包括していているというか、その外側には何もない、テレビで語らないことは存在しないぐらいだった。今はそのインターネットという巨大なメディア空間が出てきたので、ある意味テレビとか新聞の役割というのはもう少しモジュール化していく。全体のメディアの中の一部となっていくというそういうイメージ。しかし、そこでの役割は非常に重要だ。そういう考え方をしていかなくてはいけない。ネットの世界で面白いのは、今までは番組が作られて、その番組を見ること自体が、コンテンツという考え方だったんですけれど、インターネットの世界では、なにかブログの記事が書かれたり、ニュースに書かれると、それに対して、いろんな人が反論したりとか、賛同したりとか議論が巻き起こるわけです。その巻き起こった議論自体がある意味、新しくもう一回、視聴者の目に触れる、読者の目に触れる、ってことによって、さらに大きく議論が膨れる。どんどんどんどん、波及して膨れ上がっていく、すごく面白い効果があるんです。たぶんね、テレビも単に番組を作って終わり、ではなくて、どんな議論を巻き起こし、それがどういうふうに広がっていくのか、もう一度それを視聴者にお見せするという、そういうような仕組みをうまく作っていけば、もっともっと大きな影響力を与える存在になっていくんじゃないかなと思うんです。

奥寺キャスター テレビ自体が、また外側からそのテレビを見る。

佐々木 そうですよね。たとえば、ツイッターの反応を画面に載せればいいのかという話になっちゃう。そういう風なあまりにも小さな話になってしまって、もう少しそれをどういう形で、全体的な仕組みにしていくのかというのは、多分、これから、世界中でいろんな人たちが考えていると思うし、日本でもそういうことを考えていくんじゃないかなと思いますね。

奥寺キャスター これだけネットがいろんなことにチャレンジしていて、たとえば、双方向性というと、なんかまた狭くなっていっちゃうんですけど、もっとこう視野を広く。

佐々木 そうですね。こういうのは本当に、インターネットの時代の金鉱掘りみたいなもんで、仕組み自体、誰かが思いついたら、あっみんながそうだったのかと思うんですよ。でも、テレビの世界でインターネットの融合とか連携みたいなものも、そういう新しい何か、わっすごいっていうのが出てくる可能性は多分あるし、そういう方向を期待すべきだと思います。

奥寺キャスター そういうことで、今日は「日本人社会の言論とマスメディア」というテーマでジャーナリストの佐々木俊尚さんに話を伺いました。

奥寺・西山 どうもありがとうございました。

佐々木 どうもありがとうございました。
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