夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

「マジョリティ憑依」が多すぎる

ひとつの事件が差別を作る

最近のネットの一連の反応を見ていると、佐々木俊尚氏の言う「マイノリティ憑依」ではなく、いわば、逆の立場であるマジョリティからの発言が増えていると感じられる。「聖域を妄想する現象の結末」というブログでは、
元はといえば私たちの税金である生活保護費を暴力団員が不正にせしめ、働けるはずの遊び人が同様に受給を受けている点は正して行くべきでしょう。ただし、生活保護の貧困補足率が20%程度で、不正受給がこのうち0.5%に満たないほど(0.3%程度)である実態を知ってか知らずか、不正受給のせいで漏給が発生し死んでいる人がいると訴えるのは、本来の問題を解決する道筋を誤らせかねません。
なぜ問題を解決する道筋を誤らせかねないのかと言えば、不正受給のせいで漏給が発生しているわけではないからです。

しかし実情は前述の通り不正受給叩きに明け暮れ、なぜ生活保護が必要で、なぜ漏給問題があるのか考える者は主流と言えない状況です。
さらに話をやっかいにしているのは、「本当に必要な人」に金が行き渡らないと生活保護の重要性を口にする者が、生活保護について不正受給者や不正受給に近い者ばかりのような印象を振りまき、結果的に多くのまっとうな生活保護受給者を叩く言説に傾いていることです。
そのつもりはない、と反論しようとも不正受給の割合と生活保護の正確な情報を伝える発言は皆無に近く、「本当に必要な人」に金が行き渡らない理由を考察しないのであれば、生活保護を受ける者への悪しきレッテル貼りになるのは必然です。

つまり、「生活保護」に対する悪しきイメージを増やすだけで、現状を認識していない人々が増えているということだ。このような単発の個人的な問題が、それに所属する人々に対する差別を作ってしまう。これを「ヘイト・スピーチ」というらしい。
人種、民族、国籍、宗教、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位、外見などといった欠点が、ある人種や民族の固有の特質であるとして、その存在をおとしめ、憎悪、暴力をかき立てるような主張をする。それが「ヘイトスピーチ」である。

いま、ネットでは「ヘイト・スピーチ」が大きな問題になっている。ネット上での「ヘイト・スピーチ」とは、ネットを通じて匿名での激しい罵倒の言葉を使って他人の人格攻撃などをすることを言う。これまで、多くの人がこの「ヘイト・スピーチ」の被害を受けてきた。最近ではネットの有名ライターと言われる、小田嶋隆氏や佐々木俊尚氏、上杉隆氏などがその被害を受けていることを、それぞれのtwitterなどで明らかにしている。

この前あった、上杉隆氏への「ヘイト・スピーチ」の例をあげよう。私は彼の意見のすべてを受け入れるものではないが、こういう攻撃手法を調べるには絶好のサンプルの1つといっていいだろう。
1. まず、意見を言う人の些細な「間違い」を見つける。(「いわき漁港」は存在しない - これは上杉氏の記事の間違いである)
2. 見つけた間違い「のみ」を執拗に取り上げ罵る。(ネットの各所でこの点のみを大きく取り上げ、広める)
3. 「小さな問題」→「大きな問題」にみせかける。(あたかも、この問題が上杉氏の取材記事の大きな問題であるように見せる)
4. 「大きな問題」→「人格攻撃」に移る。(「上杉は間違いだらけのいい加減なジャーナリスト」「ジャーナリストではない」「うそつき」)など、本人の「資質」に話題が移る。このさい、過去の間違い事例なども引っ張り出す)
5. 「人格攻撃」→「その周辺の攻撃」に移る。(「反原発を言う人間はこういう奴らだ」とすることにより攻撃対象を広げる)
というように「ヘイト・スピーチ」は誰の目にもわかりやすい展開で行われる。

日本におけるネットでの「ヘイト・スピーチ」を過去の事例で調べると、ある方向を持った政治的な主張に対して行われることが多いことがわかる。そのため、影に隠れた一群の、特定の政治主張を持った「団体」の存在も見ることができないわけではない、と筆者は思う。

これらの情報を扱う側として、あるいは見る側として、そういうことがあるのだ、ということをわかった上でネットで流れてくる情報を見ることや、それに対して意見をすることがこれからネットリテラシーとして必要になってくるだろう。

「ヘイト・スピーチ」は、「ネット」「匿名」の影に隠れた「言論弾圧」かもしれないからだ。(「ヘイト・スピーチ」の手口(2012/5/30 13:03)

そういえば、てんかんによって事故が起きた時、てんかんを持つ人たちの就職が困難になった事例があった。同じように、これらの「ヘイト・スピーチ」による生活保護受給者差別は、厚労省が力を入れている就労支援をも困難にするし、本当に生活保護を必要とする人に対し、受給をためらわせ、孤独死や餓死など最悪の道を開く。

そもそも「マイノリティ憑依」とは

佐々木俊尚氏の「当事者の時代」にこんな文章がある。佐々木氏が毎日新聞に入局したころの話だ。
入社し岐阜支局に配属された直後から、上司や先輩から「弱者」という言葉を何度となく聞かされるようになった。「弱者に光を当てるんだ」「弱者を描け。それによって今の日本の社会の問題が逆照射されるんだ」
私が入社した一九八八年は、まさにバブルの真っ只中である。世間は高騰する株価に酔い、深夜の路上でタクシーチケットや一万円札を振り回して数少ないタクシーを奪い合い、成田空港ではタキシードに身を包んだお調子者たちが「世界一早い」という触れ込みのボジョレーヌーボーパーティーを、貨物置き場で開いたりしていた。誰もがまだ「総中流社会」という幻想を維持していて、いったん大企業に入れば一生安泰だと信じられていた。
そういう時代に、「自分たち」を記事で描くことには何の価値も見いだされなかった。なぜなら標準的な日本のサラリーマンやOLや専業主婦である「自分たち」のワークスタイルやライフスタイルは、標準的であるがゆえにあまりにも自明であって、そんな自明のことを書いても驚きや感動や衝撃をもたらすとはとうてい思えなかったからだ。(「当事者の時代」電子版「弱者に光を当て、われらの社会を逆照射せよ」P84)
この「弱者に光を当てるんだ」が「マイノリティ憑依」となっていく。いわば、マイノリティのインサイダーをアウトサイダーから見つめること。それがマスメディアの立ち位置だった。
インサイダーの外側に出ることによって、インサイダーとしての立ち位置の悩みは一瞬にして解決してしまう。
それは第三者であり、傍観者である立ち位置を身につける技だったともいえるかもしれない。インサイドの当事者であることによって引きうけなければならない苦悩も、アウトサイドに出てしまうことによって、取り払われる。アウトサイドに出れば、社会のインサイダーとしての当事者としてではなく、空を飛ぶ鳥のような俯瞰的な視点で、外部から汚れた社会を見下ろすことができるのだ。(「当事者の時代」電子版「辺境最深部に向けて退却せよ!」P57)
それは、次の項目の「辺境最深部から日本社会を見下ろす」に続く。
このきわめて巧妙な構造によって、苦悩する当事者たる活動家たちは一瞬にして第三者へと変身し、高みへと昇りつめ、日本社会を見下ろすことができるようになる。
これはつまりは「憑依」である。
つまり乗り移り、乗っ取り、その場所に依拠すること。狐憑きのようなものだ。マイノリティに憑依し、マイノリティに乗り移るのだ。そしてその乗り移った祝祭の舞台で、彼らは神の舞いを演じるのだ。
マイノリティへの憑依。
憑依することによって得られる神の視点。
神の舞いが演じられる辺境最深部。その神域から見下ろされる日本社会。
この<マイノリティ憑依>は一九七〇年代における、新たなパラダイムだった。それは新しい神話の創世だったと言ってもいいかもしれない。(「当事者の時代」電子版「辺境最深部から日本社会を見下ろす」P58)
佐々木氏は終章にこう書く。
これまで長い時間をかけて説明してきたように、メディアの空間は<マイノリティ憑依>というアウトサイドからの視点と、<夜まわり共同体>という徹底的なインサイドからの視点の両極端に断絶してしまっている。この極端に乖離した二つの視点からの応酬のみで、日本の言論は成り立ってしまっている。
このメディアの<マイノリティ憑依>に日本社会は引きずり込まれ、政治や経済や社会やさまざまな部分が浸食されてきた。「少数派の意見を汲み取っていない」「少数派が取り残される」という言説のもとに、多くの改革や変化は叩きつぶされてきた。
そういう構造はもう終わらせなければならない。
それは「少数派を無視せよ」ということでは断じてない。
なぜなら、これまで何度となく書いてきたように、メディアで語られる「少数派」「弱者」は本物の少数派や弱者ではなく、<マイノリティ憑依>されて乗っ取られた幻想の「少数派」「弱者」にすぎないからだ。
この乗っ取りから、リアルの存在である少数派や弱者を救い出さなければならないのだ。
彼らが物言わぬサバルタンの位置から救い出されるとき、彼らが「勝手に代弁する人たち」から救い出されるとき、その時にまた私たちのメディア空間も私たち自身へと取り戻されるのだ。(「当事者の時代」電子版「終章 当事者の時代に」P94)
マス・メディアは弱者に光を当ててきた。それが一方的なイメージを作り、リアルの弱者が見えてこなくなった。

「みんな」の喪失と「マジョリティ憑依」

マス・メディアは誰に向かって情報を届けているか。抜き書き週刊フジテレビ批評「日本人社会の言論とマスメディア」の中で佐々木氏はこう言っている。
佐々木 そうですね。マスコミという言葉の「マス」っていうのは、ようするに我々みんなという意味だと思うんですけれど、今の時代って、完全に日本人全体っていう意識を持っている人たちがだんだん減ってきている。もうすごい、いろんな分断が広がっているわけですよね。たとえばもう、東京と地方では全然考えていることが違うとか、格差社会化が進んで、豊かな人と貧しい人と考え方が違う。

(中略)

マスっていう考え方自体が成り立たなくなってきているんじゃないか。っていう、そういう問題があるのに、いまだに「みんな」っていうことを言いたがる。ちょっと、問題が起きているんじゃないかなということです。(抜き書き週刊フジテレビ批評「日本人社会の言論とマスメディア」)

これは、大野更紗氏のツィッターの
これまでは「特殊な少数派」の問題であったことが、急速に、あらゆる領域において実質的にそうではなくなる。向こう数十年間の人口動態のインパクトは、ともかく急速で、厳しい現実だと思う。(https://twitter.com/wsary/status/204982159155531776)
と同じ共通視点だ。「みんな」なんていない。誰もが「少数派」なのだ。ところが、ツィッターなどで語られる「ヘイト・スピーチ」は、すでに消え去った「みんな=マジョリティ」の視点で語られる。マス・メディアが無署名であれ、それなりの新聞社やテレビ局をバックにして語られるのに対して、匿名の批判は全く無責任である。彼らこそメディアの<マイノリティ憑依>に代わるネットの<マジョリティ憑依>と呼ばざるを得ない。<マイノリティ憑依>が幻想の少数派であるのと同じように<マジョリティ憑依>も幻想の多数派のことだから。
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