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素人だから言えることもある

キャパシティの広い人を作る(日本人のキャパシティが落ちている・2)

最近、放送されているミステリー作品、NHK BSの「SHERLOCK 」や、映画「アンフェア」の雪平夏見、テレビ朝日「相棒」の杉下右京などを見ていると、彼らはチームワークなどよりも単独で行動する。雪平などは、仲間を信じていない。杉下は、警察仲間から、遠ざけられている。「SHERLOCK」のシャーロック・ホームズも相棒のワトソンとの疎通はあまりなく、勝手に行動して自ら危険を招いている。一言でいえば、彼らには協調性がない。警察というチームワークが必要な社会では、どれほど犯人を捕まえたところで、うざいし、目障りだ。こういう人は、おそらく子供のころはいじめの対象であっただろう。つまり、普通の子どもと見える世界のレベルが違うということだ。

ゲームの世界では、レベルアップすれば、行動範囲が広がる。これをキャパシティが広がるとすれば、キャパシティのないいじめっ子たちにとって、彼らの見る世界を理解できない。したがって、いじめの世界では、このような人物を排除しようとする。それは自分の個性をつぶす動きである。学校教育という集団教育が彼らのような異質なものを排除すれば、日本の社会から新しい文明の息吹が消えてしまう。画期的なアイデアは、彼らのような異質な発想を必要とするからだ。

それでもキャパシティの広い子供を作るためにはどうするか。それは、人間関係にあると思う。たとえば、希望のない国から希望の国へでは、

「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」。「安心には結果が必要とされるが、希望には模索のプロセスこそが必要」。そこからは幸福や安心と異なる、希望の特性が見えてくる。
ところでそもそも希望とは、何なのだろうか。思想研究を重ねるうち、希望に関する一つの社会的定義が浮かび上がった。希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だと。
村上龍氏の『希望の国のエクソダス』の有名なフレーズである「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という指摘以来、日本イコール希望のない社会という認識は、なかば常識化した。社会やそれを構成する個人に希望がないとすれば、そこにはきっと「具体」「行動」「実現」「願望」のいずれかが欠けている。(希望学とは)
とするならば、社会の役割は、彼らの「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」を応援する事しかない。もちろん、冒頭の主人公たちは、さまざまな妨害に強じんな精神力ではねのけてきたのだと思われる。それだけ、自分の思想・発想に自信を持っているのだ。しかし、そのような精神力を育てたものは何か。おそらく家族の期待や、理解する友達の存在がそこにあるに違いない。インターネットを通じて、彼らを応援することも私たち自身のキャパシティを広げることに役立つだろう。
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