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素人だから言えることもある

いじめられっ子の方がイノベーターになる可能性が高い(日本人はキャパシティが落ちている・3)

いじめられっ子の利点

前項キャパシティの広い人を作るで考えたのは、単純にいじめによる犠牲者を減らすことでいじめのない関係を作ることではなく、実は、いじめられることに何か理由があるのではないかと思ったからだ。そういうことを書くと、いじめられる側にも原因があると短絡的に考える人がいるが、そうではない。いじめっ子側に合せるのではなく、いじめられる側に合せることで、今まで解決できなかったことが解決することができる。そのために、ミステリーのヒーローたちが単独行動をすることに思い至ったのだ。これを企業のイノベーションとして考えることもできるのではないかとさえ思った。

いじめっ子たちは、いじめられる人々が自分と違う考えを持っていることに我慢ならない。そしていじめられる側は、自分が他人と違う考え方であるのを知っているので、弱点だと思って隠そうとする。でもそのことは正しいのか。むしろ、いじめられっ子だからこそ、いじめっ子の知らない世界を知ってるし、いじめられる他人の痛みも知っている。僕は、それを「キャパシティ」と表現した。両者の違いを知らなければ解決できない問題も多いのではないかと思うのだ。

マジョリティ憑依によるいじめの断罪では、学校内のマジョリティとネットのマジョリティを取り上げ、学校内では、いじめっ子とそれに加担する傍観者たちを「学校内のマジョリティ」とし、それをネットに持ち出すことでいじめっ子をたたく人たちを「ネットのマジョリティ」として考えた。一方、日本人のキャパシティが落ちているや前項の「キャパシティの広い人を作る」で取り上げた「キャパシティ」の問題は、そのようないじめの関係ではない。むしろ、いじめっ子といじめられっ子の発想力の違いであり、その「キャパシティ」の広さをどうやって社会に生かしていくかが問題になって来ると思う。さて、それを活かす方法は何か。それこそ、個人的な表現ができるネットの力があるのではないだろうか。

1人のバカをリーダーに変えたのは最初のフォロワーだった

tsudaるで有名な津田大介氏の著書「動員の革命」を読んで記憶に残ったのが、この言葉だった。これは、2010年2月に講演したデレク・シヴァ―ズの言葉だったという。
それは「社会運動はどう起こすのか」というテーマの講演でした。
この講演で彼は1本の動画を見せました。群衆のなかで一人が勝手に裸踊りする。しばらくは何も起こらないのですが、だんだんと一緒に踊る人が出てきます。さらに参加者が友達に声をかけ始めて、裸踊りが広がっていきます。最終的には、その場所にいる全ての人が踊りだして動画は終わります。
デレク・シヴァ―ズは講演の最後にこう述べています。
「(この動画の)最大の教訓はリーダーシップが過大評価されているということです。たしかにあの裸の男が最初でした。彼には功績があります。でも1人のバカをリーダーに変えたのは最初のフォロワーだったのです。全員がリーダーになるべきだとよく言いますが、それは効果的ではありません。本当に運動を起こそうと思うならついて行く勇気を持ち、ほかの人たちにもその方法を示すことです。すごいことをしている孤独なバカを見つけたら立ち上がって参加する最初の人間となる勇気を持ってください」
つまり、社会運動で重要なのは、1人で飛び出したときに追随する2人目をどうつくるか、ということなのです。2人目が一緒に踊り始めれば、3人目、4人目も自然と発生します。
ツィッターやフェイスブックが、その「追随者」を生みやすいプラットフォーであることはこれまで説明したとおりです。ソーシャルメディアがきっかけで大なり小なりムーブメントが起こっているのは、ソーシャルメディアに「最初のフォロワー」を生み出しやすい仕組みが内包されているからなのです。(津田大介著「動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか」中公新書ラクレ)
もちろん、いじめられっ子はバカではない。だが、ネットで賛同を得るシステムがこのとおりであることはよく知られている。このような運動は、町おこしなどの地域ブランディングにも共通する。企業ブランディングと地域ブランディングで学習院大学の青木幸弘教授の言葉を引用している。
ビジョン、利害の調整、そして選択と集中だ。ただこれは自治体がもっとも苦手とすることだ。ブランドが成功するには『三つの者』の存在が鍵を握ると言われる。一心不乱に目的に邁進するバカ者、冷静に自己分析するヨソ者、後継者となるワカ者だ。とりわけ継承することが重要なので、人材育成に力を入れる必要がある。 (2006年1月4日(水)付け 日経MJから)
デレク・シヴァ―ズ氏は、「1人で飛び出したときに追随する2人目をどうつくるか」と書いているが、この2人目のフォロワーは後継者となるワカ者ということになる。この方式は、宗教でも町おこしでも趣味の集いでも可能である。ネットを使えば、ワカ者を集めることは簡単になった。

インターネットが普及していない時代、自分の考えを表明し、賛同者を得るには大変なコストや時間がかかった。今では、簡単にツィッターやブログで世界中に示すことが可能になったが、雑誌に書いてもごく1部の読者の目に触れられればいいほうだった。

津田氏は、「ソーシャルメディア=納豆論」としてこんなことを書いている。

要するに、誰かが出たときについていきやすい――まさに納豆を一粒つまむと、粘りが次の豆につながるようなものです
これには明快な理由があります。ソーシャルメディアはコピーが簡単なのです。何か面白い行動を起こした人がいると、「僕も真似しよう」といって似たようなことをする。注目をしている人がいたら、応援するために情報を拡散(広めること)してもいいし、「応援します」というコメントをつけてつぶやいてもいい。何ならリツィートするだけでも、「いいね!」ボタンを押すだけでもいい。行動する人にとっては、何かの行動に対して反応が返ってくるだけでモチベーションが維持できるのです。そうして、人間同士が有機的につながっていくと、誰かが飛び出した瞬間に他の人たちがそれにわらわらついてくる。結果、誰かの思いつきによる行動がソーシャルメディアを通すことで大きなムーブメントに成長していくのです。(津田大介著「動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか」中公新書ラクレ)
ネットの時代により、今まで馬鹿げた考えとされてきた言動も昔よりもいとも簡単に世の中に表明できる時代になった。このことから、いじめっ子から、さげすまれ、隠されてきたイノベーターたちが新たに誕生するかもしれないのだ。一方で、いじめっ子や傍観者たちは、大人になった時、過去の先輩たちの築いてきた成功体験を順守していく守旧派になるだろう。彼らは、変革を何よりも嫌うからだ。

なぜいじめられっ子はイノベーターになりうるか

アイデアのつくり方」(ジェームス・W・ヤング著/今井茂雄訳/阪急コミュニケーションズ)の中で、世界には二つの考え方をする人たちがいるという。
パレートは、この世界の全人間は二つの主要なタイプに大別できると考えた。彼はこの本をフランス語で書いたのでこの二つのタイプをスペキュラトゥール及びランチェと名づけた。
この分類によるスペキュラトゥールとは英語の<投機的>というほどの意味の言葉である。

つまり、ザ・スペキュラトゥールとは投機的タイプの人間ということになる。このタイプの顕著な特徴は、パレートによれば、新しい組み合わせの可能性に常に夢中になっているという点である。

(中略)

端的にいえば、(たとえばわが国のルーズヴェルト大統領のように)もうこの辺で十分だとうち切ることができないで、どうすればまだこれを変革しうるかと思索するあらゆる分野の人々がすべてこのタイプに含まれているわけである。

パレートがもう一つのタイプを説明するのに使ったザ・ランチェという言葉は英語に訳すと株主(ストックホルダー)ということになる。どうも私にはストックホルダーよりはむしろ<鴨にされる人(バッグホルダー)>のように思えるのだが―――。この種の人々は、彼の説によると、型にはまった、着実にものごとをやる、想像力に乏しい、保守的な人間で、先にいった投機的な人々によって操られる側の人々である。 (ジェームス・W・ヤング著/今井茂雄訳「アイデアのつくり方」阪急コミュニケーションズ)( あらゆる知識・アイデアはクロス・カップリングである)

いじめっ子は、現状を改革しようという気概はまずない。他人への痛みを知らない彼らは、できるだけ現状のままでいたいと思うだろう。一方、他人の痛みを知っているいじめられっ子たちは、どうやったら現状を改革できるかに頭を絞るだろう。したがって、いじめられ経験がある人ほど、イノベーターになる可能性が高い。
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