探索・みずいろの手紙
みずいろの手紙は死者への手紙?
歌手あべ静江は、7月13日靖国神社の「みたままつり」で歌った「みずいろの手紙」で号泣してしまったという。司会をしていた合田道人氏(「童謡の謎」著者)は、“お元気ですか
そして いまでも
愛していると言って下さいますか”
台詞を言い終え
いつものように歌い出した…
“みずいろは〜
涙色〜そんな便箋に〜”
?その時だった?
私の目線には
空が見えていたんだけど…
戦時中…
母・妻・恋人・子供…
いろんな立場の
いろんな思いで
手紙を 綴っている
女性の姿がうかんできて…
“泣きそうな心を〜
た〜くしま〜す〜
”
?また、その時?
戦地で 手紙を受け取る方々の
姿がうかんできて…
“あれこれと〜
楽しげな〜事を書き並べ〜
寂しさを〜紛らす
わ〜たし〜で〜す〜”
?また、この時?
この手紙が…
無事に手元に届くのかどうか
読んでくれるのかどうか…
不安を隠しながら
手紙という
ツールに
たくした想いが飛び込んできて…
“会えなくな〜って
ふた〜つき過ぎて
なおさらつのる恋心〜”
?私…号泣してしまった…? (本気で…泣いてしまったの…私…)
靖國神社での「みたままつり」の中であべ静江が途中で涙を流して、40年も歌ってきた「みずいろの手紙」を初めて涙ながらに歌った。靖国は特別な場所である。歌手はいろんな場所でうたうが、僕はこの舞台に出てもらう歌手たちを吟味して選んでいるつもりだ。心で歌えない人には出演していただく理由がない。仕事として歌っている人はここで歌ってもらう必要性がないのだ。あべ氏は、翌日のブログで、
みたままつりなので戦争で日本のために戦い死という世界に入っていった人達に向かって歌う。実際は客席(世人)のことを考えて歌う人たちにあの能楽堂に上る資格はない。
だからファンのためにとか、ファンの声援に答えてとか、雨が降ったら中止? とか衣装がよごれるとか言っている人にはご遠慮いただかなければならない。みたまのために歌うという人たちでなければならないのだ。と、なれば戦時体験の人達はそれが意味することがわかるが、僕やあべ静江は頭ではわかっていても実際に戦争を知らないから、御霊、靖国に対する感覚は希薄なのである。
(中略)
あべ静江に出演を頼むとき、私は靖国のあり方を教えたつもりだ。生半可な気持ちで舞台にたってもらいたくなかったからだ。世人ではなく御霊に向かって歌うのだ! と教えた。あべは守った。「みずいろの手紙」で号泣した。実際、当日歌ってもらった「フランチェスカの鐘」や「蘇州夜曲」ならまだしも、あの舞台ではおそらく一曲だけ浮いてしまうはずだった「みずいろ〜」が感動を呼ぶとは。
彼女曰く、♪みずいろは涙色…と歌った瞬間。この手紙は戦地に届いたのだろうか? 私の元へ来てください・・・帰ってきてくださいとは手紙には書けなかった。と、思った瞬間に泣けてきたという。
私がこの歌を初めて聞いたのは小学校6年生だった。ずっといままで、どうしてあの歌の最後、♪私の元へ来てください・・・なのかな? と思っていた。なんだかこの言い回し、おかしくない? と思っていた。それまではわかりやすく書かれている詩なのに、♪私のもとに来てください・・・で急に言い回しが不自然な気がしてならなかったのだ。変わった唄! だと思っていた。
でもわかった。あべ静江は今までこの歌を失恋した女が未練がましく歌っている歌だと思っていたという。靖国で歌う前まで思っていた。だから感情過多にならずにさらっと歌ったからこそ、受けた。
でも今回は違った。彼はもう2度と会えないのかもしれない存在なのではないのか。
そう考えたらこの歌は深い。いや、きっとそうなのだ。だからこそこの場所でうたったときに、あべ静江はこの歌に隠された本質を知らされたのだ。私にはそう思えて仕方ない。「童謡の謎」ではないが、この歌の、♪私の元へ来てください・・・の最後だけ、とても古めかしかったのはそういう意味が隠されていたのではなかろうか? となれば、これは口に出せなかった反戦歌だったのかもしれない、とさえ思えてくる。 詩を書いた阿久悠の中にそんな思いがなかったとは否定できまい。この歌の裏側をもっと調べなくてはいけない! そう思っている。(あべ静江号泣の訳)
私は…39年間このエピソードから、作詞家阿久悠氏と歌手の関係に興味を持った。
阿久 悠先生の詩を
浅くしか
歌えてなかったかも
しれない・‥…
(中略)
それでね
歌い(語り)きれなかった
歌詞部分…
「手紙読んだら
少しでいいから
私のもとへ来て下さい…」
…って…
夢でもいいから…
魂でもいいから…
という意味が加わって…
会場にいらした皆様は
目撃したと思うけど…
私…最初に目を手で
ふさいだの (もしかすると・‥…)
阿久悠はいかにして歌を書いたか
「みずいろの手紙」の発売は昭和48年(1973年)。その頃のあべ氏は、こんな歌、冗談じゃない。歌えるもんか。最初に歌詞を見せられたとき、21歳のあべ静江のそれが正直な気持ちだった。そこで、作詞した阿久氏の著書から調べてみた。ところが、作詞した数だけでも5000曲を超えるのだから、「みずいろの手紙」一曲の詩の発想にまで書かれたものはなかった。ただ、「歌謡曲の時代 歌もよう人もよう」(新潮社)で「コーヒーショップで 美人DJあべ静江のデビュー」という項目があった。
デビュー曲「コーヒーショップで」は歌謡曲ではあったが、ミディアムテンポのちょっと文学的な匂いのする秀作だったが、セカンドシングルで用意された「みずいろの手紙」は同じ阿久悠の作詞ながら、メルヘンチックな10代のアイドルが歌うようなフレーズが並んでいた。
あべが嫌だったのは、歌いだしのセリフの部分。「今でも愛しているといって下さいますか」だった。早い話が、フラれたか置いていかれた女が男に未練がましく手紙を書き、まだ私のこと好き?と尋ねている、といった歌詞。名古屋の美人女子大生DJとして、大人気となり、一見愛らしく清楚に見えるあべだが、実はかなりはっきりした性格で気になること、嫌いなことは包み隠さず言うタイプ。絶対歌いたくない、とスタッフにストレートに訴えた。
が、彼女は既に素人ではなく芸能人。これが仕事とあらば、嫌でも何でも歌わなければならない。そう思うと、わだかまりは消えた。逆にテレビやステージでは、世の男性たちのリクエストに応えるように潤んだ瞳ではにかみながら、「今でも愛しているといって下さいますか」と甘えた声を出した。
“作戦”は大成功。「コーヒーショップで」のレコード売り上げ27万枚に匹敵する、25万枚を売り上げ、年末の日本レコード大賞では最優秀新人賞候補にノミネート。デビュー2年目の74年には「みずいろの…」で紅白出場を果たした。(【1973年10月】みずいろの手紙/こんな歌イヤ!から紅白に あべ静江“セリフ”が効いた)
「コーヒーショップで」は、昭和48(1973)年に、あべ静江のデビュー曲として書いたものである。これがかなり売れ、次の「みずいろの手紙」が大ヒットした。「コーヒーショップで」から話が外れるが、「みずいろの手紙」には、彼女の声質から想像出来るイメージを活かして、「お元気ですか そして 今でも 愛しているといって下さいますか」という台詞を語らせ、これが人気になった。「みずいろの手紙」に関してはこれだけである。あべ本人がその台詞を嫌っていたというのは面白い。ところで、阿久氏は、「コーヒーショップで」を書いたころは、本人に会わず、あべ氏の写真を見ただけで詩を書いたという。さて、CDの歌詞カードを見ても、それ以上の情報がないので、あべ氏以外の歌手から探ってみよう。
少々気恥ずかしい感じがするが、そろそろ「いって下さいますか」などという話し方をする若い女性がいなくなりかけていた頃なので、一種のメルヘン効果があったのだと思う。(阿久悠著「歌謡曲の時代 歌もよう人もよう」新潮社)
昭和48年(1973)に書いた阿久悠氏の作品を並べてみると、
「若草の髪飾り」/作曲・編曲 馬飼野俊一 唄 チェリッシュ/1月15日発売わずか1年で22曲にも上る。タイトルを見ただけでメロディを思い出す名曲も多い。しかも、阿久氏は、「スター誕生」の審査員をしていた。
「中学三年生」/作曲 遠藤実/編曲 只野通泰 唄 森昌子/2月5日発売
「狙いうち」/作曲・編曲 都倉俊一 唄 山本リンダ/2月25日発売
「ジョニーへの伝言」/作曲・編曲 都倉俊一 唄 ペドロ&カプリシャス/3月10日発売
「ウルトラマン・タロウ」/作曲・編曲 川口真 唄 武村太郎、みずうみ/4月10日発売
「珊瑚礁に何を見た」/作曲 小林亜星/編曲 高田弘 唄 上条恒彦/4月25日発売
「コーヒーショップで」/作曲 三木たかし/編曲 馬飼野俊一 唄 あべ静江/5月25日発売
「絹の靴下」/作曲・編曲 川口真 唄 夏木マリ/6月5日発売
「街の灯り」/作曲 浜圭介/編曲 森岡賢一郎 唄 堺正章 6月25日発売
「わたしの青い鳥」/作曲 中村泰士/編曲 高田弘 唄 桜田淳子/8月25日発売
「個人授業」/作曲・編曲 都倉俊一 唄 フィンガー5/8月25日発売
「みずいろの手紙」/作曲・編曲 三木たかし 唄 あべ静江/9月25日発売
「冬の旅」/作曲 猪俣公章/編曲 森岡賢一郎 唄 森進一/10月5日発売
「愛さずにいられない」/作曲・編曲 馬飼野俊一 唄 野口五郎/10月21日発売
「五番街のマリーへ」/作曲・編曲 都倉俊一 唄 ペドロ&カプリシャス/10月25日発売
「花物語」/作曲 中村泰士/編曲 あかのたちお 唄 桜田淳子/11月5日発売
「記念樹」/作曲 森田公一/編曲 馬飼野俊一 唄 森昌子/11月5日発売
「カントリー・ドリーマー」/作曲 ポールマッカートニー 編曲 Ken Gibson、Jim Roch、惣領泰則 唄 ブラウン・ライス/12月1日発売
「幼きものの手をひいて」/作曲・編曲 筒美京平 唄 かまやつひろし/12月5日発売
「恋のダイヤル6700」/作曲・編曲 井上忠夫 唄 フィンガー5/12月10日発売
「きりきり舞い」/作曲・編曲 都倉俊一 唄 山本リンダ/12月10日発売
「長距離バス」/作曲・編曲 森田公一 唄 森田公一とトップギャラン/12月25日発売
(「阿久悠大全集」に収録された歌詞代表作)
重松清氏の書いたノンフィクション「星をつくった男 阿久悠とその時代」(講談社)にこんなエピソードがある。あべ氏が39年ぶりに阿久氏の歌のすごさに気が付いたように、ピンク・レディーの未唯mie氏もこんなことを言っている。
さらに、ピンク・レディーの数ある楽曲の中でも『マンデー・モナリザ・クラブ』が一番好きだという未唯mieさんは、こんなことも教えてくれた。力のある詞は、時代を超える。歌手が経験を経て、歌いこんだとき、また新たな輝きを放つ。ピンク・レディーに関して2000年ごろに阿久氏はこんなことを言ったという。
「じつは、ソロになってずいぶんたってからピンク・レディーの歌を歌うことになったんですが、『モンスター』で泣けて泣けて、歌えなくなったんです」
未唯mieさんが子供向け路線に微妙な違和感を覚えた最初の曲である。当時はただモンスター相手のラブソングという解釈をしていただけだった。ところが、時をへて再会した『モンスター』は詞の深みが違っていたのだ。
「ピンク・レディーもモンスターの一人だったんじゃないか、と思ったんです。みんなとは違うからモンスターと呼ばれていても、あの詞に描かれたモンスターは、みんなから恐れられる怪物じゃないですよね。むしろ、守ってあげなくちゃいけないような、傷つきやすいモンスター……。『マンデー・モナリザ・クラブ』の時も阿久先生はすべてをお見通しなんだと思ったんですが、もしかしたら先生は『モンスター』でも、私たちのことをそこまで考えてくれていたのかもしれない、と思ったら、涙が止まらなくなったんです」
そして、未唯mieさんは、「いまはまた、もっと違うことも思うんです」と付け加えた。
「阿久先生も、モンスターの一人だったんじゃないかなあ、って……」(重松清著「星をつくった男 阿久悠とその時代」講談社)
「ああ、なんでピンク・レディーを二人にしちゃったんだろうなあ……」つんく♂氏のモーニング娘。、秋元康氏のおニャン子クラブやAKB48など、アイドルグループ時代の幕開けを阿久氏自身が開けなかったことを本気で嘆く。一人の天才作詞家による歌の時代が終わったのだろうか。最後に、阿久氏が、長男にあてたエッセイをここで紹介したい。
ピンク・レディーという器だけを残しててメンバーをどんどん入れ替えていくという発想は、阿久悠にはなかった。しかし、そういう時代だったのだからしかたない、とは思わない。本気で悔しがり、本気で嘆く。そして、モーニング娘。をプロデュースするつんく♂さんに、強い興味を抱く。(重松清著「星をつくった男 阿久悠とその時代」講談社)
太郎へこれもまた、阿久氏が長男に宛てた「みずいろの手紙」かもしれない。
人間は翔べるかも知れない。きっと翔べるとはいわないけれど、翔べるかもしれないという思いは、君の心の中に生かし続けてほしいと思う。人間は翔べないのだという断定は誰にも許されない。たとえ、科学者や医学者がどのような形で証明して見せても、君の心の中では、常に翔べるかもしれないという夢の虫を飼い続けてほしいのだ。(重松清著「星をつくった男 阿久悠とその時代」講談社)