夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

悲しみが希望に変わるとき

8月15日にアジアが反発する

中国・台湾・韓国などと日本の領土問題が再燃している。わざわざこの時期を選んでという気がしないでもない。考えてみればわかることだが、日本のメディアがこのシーズンで放送する番組内容を見れば、ほとんどが戦争加害者の立場というより、被害者の立場の報道ばかりだ。これを見て、アジア各国が批判するのもうなづける。「日本人はなんだ、全然反省していないじゃないか」というわけだ。一面では、日本を攻撃することで、国内の政治不満のガス抜きをしている面もあろう。

メディアの方から考えても、「日本人が行った戦争加害」を毎年流されては視聴率が取れるわけがない。むしろ、「いかに日本人はこの悲惨な戦争を生き延びたか」の方が視聴率が上がる。前項「大切な人を亡くすということ」の祥瓊の言葉、

人間て不幸の競争をしてしまうわね。本当は死んでしまった人が一番かわいそうなのに。誰かを憐れむと負けたような気がしてしまうの。自分が一番かわいそうだって思うの。自分が一番幸せだったと思うことと同じくらい、気持ちがいい事なのかもしれない。それは違うと諭されると、腹が立ってしまうのよね。こんな不幸な私を、この上攻めるのかって。(大切な人を亡くすということ)
を地で行っている。つまり、不幸の競争は気持ちいいのである。「日本はこんなに不幸だ」「いや、日本に蹂躙されたアジアこそ本当に不幸だ」と被害者の競争をしているのだ。しかし、こんなことをほじくり返していては、結局、なぜ戦争を起こしたか、戦争を起こす原因をひとつひとつつぶす努力をしているかなどの平和の努力を検証するまでには至ってない。

大切な人とは誰か

また、「大切な人を亡くすということ」で、僕はこう書いた。
大切な人を、その人個人に限定してしまうと、その個人が死ぬと、後を追ったり、自暴自棄になったりする。テロリストの発想は、いとおしい個人の死によって、世の中は全部だめだという発想だ。一方、誰にも大切な人がいるという発想を持つと希望が生まれる。
この大切な人とは何かを考えてみる。恋人だったり、家族だったり、先輩だったりする。家族でも大切な人でない場合もあることを考えてみれば、大切な人の意味を狭めることができる。たとえば、家族から愛情が注がれず、虐待される子ども。この場合、親は大切な人ではないし、親から認められていないゆえに、自分はこの世界に必要ないんだと思うかもしれない。つまり、大切な人とは、自分の存在価値を認めてくれる人と考えることができる。「承認欲求」という言葉がある。
人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。承認欲求は、主に子供や何らかのハンデを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。以上の理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対他関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。

承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間は自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間や被害妄想に囚われている人間の中には、幻想の他者を造り出してしまうために、自分が他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。(承認欲求-Wikipedia)

人間は社会生活を営まざるを得ないために、社会からの承認がない限り、生きることができない。そして、自分が自分らしく生きるためには、自分の人生を認めてほしいという承認欲求が出るのは当然である。特に、「家族の期待は、子供の人生を変える」で考えた家族の役割の重要さも考える必要がある。
家族からの愛情を受けてきた人のなかには、自分には協調性があるという認識を持っている場合が多い。育まれた協調性は、より多くの友だちを持てる個人を創る。そしてその友だちの多さが、希望の発見をもたらすのだ。その意味で、家族から受けた愛情の記憶は、間接的にではあるが、希望につながっている。(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ)
このように自己承認が認められた人は、「既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない」であろうことは十分想像できる。そして、その承認欲求の意欲を希望に振り向けることができる。世の中に、自分を承認してくれる人が多い人ほど、つまり大切な人が多い人ほど、大切な人の死に左右されず、自分らしく新しい希望を見つけて行動できるのではないだろうか。社会においてもそうだ。悲しみの競争をしている時代ではない、希望の競争をしていかなければならないのだ。
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