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素人だから言えることもある

「愛と欲望のマンガ道」補足情報・1

前項抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」は、番組をそのまま書き起こしたものだが、これだけで終わってしまったら、僕のブログの意味はない。僕は、ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) でも、番組の中で登場した書籍を調べたドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2) を後に続けることで、番組だけでは理解できなかった部分を調査しているし、NHKの番組「そのとき、みんなテレビを見ていた」を書き起こした欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(1)欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(2) の後にも、きちんと補足編(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(3) )をつけた。

したがって、今回も番組の書き起こしから補足情報を伝えていきたい。何分にも今回は、マンガの歴史を含んだものなので、3回にわたって記載したい。

「100万人のよる」


(表紙例)
1956年(昭和31年)に季節風書店より創刊された雑誌。創刊当初は「性科学を中心とした図解風俗誌」とアピールポイントが記されていた。徐々に成人男性向けの画報雑誌へと変化を遂げていく。(100万人のよる-SMpedia)
米沢嘉博氏は、いわゆるカストリ雑誌(娯楽雑誌の多くが粗悪で、たいてい3号で休廃刊(=3号雑誌)したことから、「3合飲むとつぶれる」といわれたカストリ酒(粗悪な酒)にかけた名称 カストリ雑誌-Wikipedia)やレディースコミックなどのコレクターのないものを積極的に収集した。
森川 みんな読んでたものなのに、後から読めないということになってしまうのを防ぎたいという危機感を、米澤さんはお持ちで、むしろコレクターがいない種類のマンガを意識的に集められております。
マンガというのはあらゆる文化がそうであるように、玉石混交で、たいていコレクターはその宝石の部分だけを集めたがるんですが、米澤さんは「石がないと宝石も生まれない」という考え方の持ち主で、むしろその、ピラミッドの底辺の部分の厚さが頂点の高さを支えている。底辺こそ大事、ということを考えてたんですね。(抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」)

「少年パンチ」

(表紙例)月刊誌「少年」の付録名

「助さん格さん」

おもしろブックの付録のマンガ名。おもしろブックは集英社の月刊誌で、1949年創刊、1959年1月に少年ブックに改題されるまで続いた。(少年ブック-Wikipedia)当時の月刊誌は、8大付録、9大付録と付録数を競うのが日常化しており、雑誌の本編の後半を付録で続けるということもしていた。

番組では、「助さん格さん」というタイトルしかわからなかったので、直接千代田区猿楽町の米沢嘉博記念図書館を尋ねてみた。
表紙には、「おもしろブック8月号付録 助さん格さん」とあるだけで、著者名が書いていない。展示していた棚のガラス戸を開けてもらって、中身を見た。まえがきがあり、

「みなさんのよくしっている、ゆうめいな水戸黄門は、みんなのくらしをよくするために、ほうぼうの国ぐにをみてあるきました。
そして、おともの助さん格さんをつれて、旅のとちゅうで、いろいろなめずらしいこと、おもしろいこと、こっけいなことにあいました。さてどんな事件がくりひろげられますか。ごらんください。
小山田三六」
そこで、小山田三六氏を検索してみると、こんなツィートが
祖父は小山田三六という漫画家でした。漫画の現物と初対面。昭和30年前後のもの。 http://twitpic.com/3nep0p
(https://twitter.com/1643110/status/22856851737542656)
昭和20年から30年代にわたって活躍しているようだ。

「カメラマン金太郎」

サラリーマン金太郎」は、本宮ひろ志氏の作品だが、寺田ヒロオ氏の作品で有名なのは、「スポーツマン金太郎」(1959年)。寺田ヒロオ氏のWikipediaを調べてみると、「カメラマン金太郎」は1962年に書かれている。

「13号発進せよ」

13号発進せよ」は高野よしてる氏の作品。
1950年に光文社の漫画雑誌「少女」7月号で『ホクロちゃん』の連載を開始し、満を持して漫画家としてデビュー。連載中に『少女ブック』や『少女サロン』、『少女の友』等各社の少女漫画誌に作品を発表する。少年画報社から「『少年画報』に描いてみてくれませんか?」と男子向けの漫画を要望され、高い知能を持つ赤ん坊たちが地球を狙う侵略者と戦うSF長編作『赤ん坊帝国』を1952年から連載。以降、いわゆる月刊誌全盛期に『木刀くん』や柔道漫画『黒帯くん』、SF巨大ロボット漫画『13号発進せよ』等を連載し、正確な人物の関節や背景の遠近の描写等、質が高い非凡なデッサン力も相まってか、手塚治虫と肩を並べるほどの人気作家になった。
しかし、一ヶ月に200ページもの仕事量、不規則な生活、様々なプレッシャーが付きまとう日々を過ごしていく内に、「このままでは死んでしまう」と考え、1970年に断筆。(高野よしてる-Wikipedia)
実際、過労のために死んだ漫画家もいた。有名なのは、赤胴鈴之助の福井英一氏。番組に登場したなぎら健壱氏の著書「下町小僧―東京昭和30年」にはこんな文章が出てくる。
『少年画報』連載の竹内つなよしの連載漫画『赤胴鈴之助』は、漫画は元より、映画、ラジオドラマ、テレビドラマ、になり、子供達に人気を博した。
だが本当の原作者は、竹内つなよしではなく、当時手塚治虫と人気を二分していた、福井英一であることを知っている人は少ないと思う。
この福井英一は『イガグリくん』の作者として有名であり、氏の作品は常に手塚と並び賞され、二人は壮絶なまでの敵対心を燃やし、良きライバルとして存在していた。そんな中で手塚治虫は、イガグリくんを初めて眼にして「やられた」と言ったというエピソードが残っている。それを思っても、福井英一という漫画家の偉大さが計り知れると思う。
その福井英一が、29年の8月に急逝した。「編集者が彼を殺した」という言葉を残した程の、過密なスケジュールの中の死であった。
その死を前にして連載を始めたのが、赤胴鈴之助である。しかし連載は第一回目で叶わぬものになってしまった。だが読者の連載中止を惜しむ声で、急きょ竹内つなよしがそれを受け継ぎ、名作として人気を得たのはご存じの通りである。(なぎら健壱著「下町小僧―東京昭和30年」ちくま文庫)
手塚治虫氏ほど、相手が新人であろうとなかろうと、生涯、常にライバル心を燃やしたマンガ家はいない。それが結構、トラブルを起こしている。これらのエピソードを見ると、手塚治虫をライバルにした人間は、高野氏のように自分から筆を折るか、福井氏のように過労死になったというのは皮肉な話だ。水木しげる氏は、「水木サンの幸福論」(日本経済新聞社)で手塚氏についてこう言っている。
けっして仲が悪かったわけではないが、お互いに敬して遠ざける気配があった。私は酒が飲めないし、世間一般でやっている「お付き合い」が苦手なので、同業者の集まりにも、あまり顔を出さないから、手塚さんとじっくり話す時間がなかった。そもそも、二人とも忙しすぎた。
もっとも、途中から仕事を減らした私と違って、手塚さんは多忙の中を駆け抜けた。私の「一番病」という短編漫画は彼をモデルにした作品で、一番になることばかりにあくせくする棺桶職人を描いている。他人には狂気さえ帯びた一種の病気のように見えるが、実は本人は楽しんでいるというのがオチだった。
手塚さんが住んでいて、彼を敬愛する若い漫画家たちが集まった東京・椎名町トキワ荘の面々は、それぞれ売れてからも、超多忙を楽しむというか、誇るような気分があった。たまに彼らに会うと、すぐに自分たちがどれほど忙しいかを口角泡を飛ばす勢いでしゃべり出し、徹夜自慢みたいな話に行き着くので、眠りにきわめて弱い私はいつも驚いていた。
一番であり続けた手塚さんは大変だったろうなあ、と思う。命を削って戦ってきたのだ。自分の作品に自信を持ち、漫画が大好きでないとできないことである。89年に手塚さんは亡くなった。まだ60歳の死は私にも衝撃だった。(水木しげる著「水木サンの幸福論―私の履歴書 特別付録『ゲゲゲの鬼太郎』第1話(コミック誌「ガロ」掲載分を復刻収録―全45ページ)付」日本経済新聞社)
僕は、手塚治虫氏は、日本にマンガやアニメというメディアの楽しさを教えるために生まれたという役割があったと思っている。マガジンとサンデーの争いに関しては、後述(「愛と欲望のマンガ道」補足情報・2)するが、ここでも手塚側か非手塚側かの争いに集約できる。

泉谷しげる

番組では、「いずみやしげる」という名前を虫プロ(現在手塚プロ)の「COM」の投稿欄に見つけるが、実は対抗している「ガロ」にもマンガを8作書いている。青林堂30年記念の「ガロ曼陀羅」にこう書いている。
オイラが再びマンガ(?)にめざめたとき、(77年から79年頃)、手塚治虫氏に原稿を送ったことがある。そのときの返事に、「まず『ガロ』に載せなさい」とあった。
オレの絵を後押しする奴も、『ガロ』にのることはかなり重要であるとのたまわったコトを今でもおぼえている。たしか8頁モノ、5篇ほど載せてもらい、結果はその年、イラストレーター(?)として、デビューするとこまで進んでしまう。(ガロ史編纂委員会著「ガロ曼陀羅」TBSブリタニカ)

ひみつのアッコちゃんのコンパクト」

コンパクトの変遷がWikipediaに載っていた。
原作漫画では当初、アッコちゃんの鏡はコンパクトではなく等身大の大きな鏡であるが、それが割れたためコンパクトを使うという経緯になっている。変身する際にはアニメ版のような決まった呪文はなく、「鏡よ、鏡」と呼びかけて変身したいものを言う設定であった。(ひみつのアッコちゃん- Wikipedia)
アニメ第一作
主人公・アッコが変身時と元に戻る時に使う呪文の言葉は第1話の脚本を担当した雪室俊一が考案した。子どもたちが親しんでくれる呪文について適当な言葉が思いつかなかったため、とりあえず「テクマクマヤコン テクマクマヤコン ○○になれ〜」(テクニカル・マジック・マイ・コンパクトの略)、元に戻る時は「ラミパス ラミパス ルルル……」(スーパーミラーの逆さ読み)としておいたものがそのまま採用された。雪室は後で修正するのだろうと思っていたが、そのまま放送されたのを見て驚いたという。(ひみつのアッコちゃん- Wikipedia)

東映動画の池田宏によると本作のコンパクトは商品化を狙ったもので「これは売れるぞ」と考えながら作業をしていたそうである。東映動画の横山賢二も鏡台が商品化が困難なためにコンパクトに変更したように述べている。(ひみつのアッコちゃん- Wikipedia)

アニメ第二作
1988年10月下旬、タカラ(現・タカラトミー)が、アッコが劇中で使うコンパクトを玩具にした「テクマクマヤコン・コンパクト」を発売し、大ヒットした。1989年1月上旬までに20万個を出荷した。この商品は発売直後から爆発的な売れ行きを見せ、店頭に並べられた直後に即売切れという状態が続いた。そのため、テレビコマーシャルの放送がしばらくの間、見送られている。1989年10月には2代目のコンパクトが使われ、その玩具が売り出された2か月後に打ち切られている。これには後番組として『ちびまる子ちゃん』の企画がすでに決定し、本作が好調なうちに終了することで後の展開ができるようにとの思惑が働くなど、諸般の事情があったようだが、特に1作目以来のファンを中心に、不満をもつ視聴者も多かった。初代のコンパクトは丸型で、2代目のコンパクトは角型である。累計では、初代コンパクトの玩具は150万個、2代目コンパクトの玩具は80万個を売り上げた。(ひみつのアッコちゃん- Wikipedia)
アニメ第三作
主にバンダイから発売された関連グッズの売れ行き不振、また後番組『デジモンアドベンチャー』側との事情もあり1年間放送できず打ち切りとなった。(ひみつのアッコちゃん- Wikipedia)

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