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「愛と欲望のマンガ道」補足情報・3

抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」の素朴な疑問を後追い調査する補足情報シリーズ。今回は、少女マンガの変容について考える。

少女雑誌の表紙と「風と木の詩

今回登場するのは、増山法恵氏だ。彼女のことを調べると
1950年生まれ、漫画原作者、小説家、音楽評論家。
「二四年組」の拠点であった「大泉サロン」の主催者。竹宮惠子と長く共同制作を行った。
マンガ作品の原作には竹宮惠子「変奏曲シリーズ」(1974‐85年)、小説作品には、のりす・はーぜ名義で『風と木の詩』の後日譚『神の小羊――アニュス・デイ』(1990‐94年まで『JUNE』にて連載、単行本は光風社出版から刊行)、『永遠の少年――英国パブリックスクール・ミステリー』(角川ルビー文庫、1994年)などがある。(はてなキーワード増山法恵とは)
24年組、大泉サロン、少女コミックを知らないとちんぷんかんぷんな言葉が続く。24年組Wikipediaによれば、
青池保子萩尾望都竹宮惠子大島弓子木原敏江山岸凉子樹村みのりささやななえこ、山田ミネコ増山法恵(24年組-Wikipedia)
が花の24年組と言う。特にその中で、探検バクモンで話題になった「風と木の詩」の竹宮恵子氏の年譜(竹宮恵子-Wikipedia)を見ると
1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退し上京。10月には、『アストロツイン』を連載中にアシスタントとして指名し知り合った]萩尾望都と、のちに、竹宮のマネージャー兼原作者となる友人の増山法恵の導きで東京都練馬区南大泉の共同アパートで同居を始め、増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した(そこに自然と同年代の女性少女漫画家が集まるようになり、大泉のアパートは「大泉サロン」、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた)。(竹宮恵子-Wikipedia)
いわば、「大泉サロン」とは手塚治虫の「トキワ荘」の役割を果たしていることが分かる。さて、その増山法恵氏のインタビューが、石田美紀著「密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ>前史」(洛北出版)に載っていた。
増山 竹宮は子ども時代からずっと少年マンガを読んで育ってきた人で、もともと女の子を描くのが苦手だったんです。職人的天才肌の人なので、掲載雑誌の読者が何を求めているかを瞬時に判断できるんです。だから新人時代から少女を主人公にしてそこそこの連載を描いてはいるのですけれど。

Q 本当の良さは出ていなかった、と。

増山 いつもわたしは竹宮の作品を見るたびに「主人公に全然魅力がない。最低!」って抗議していましたね。作品自体は面白いけど、キャラクターに魅力はないと。


でも、ある日彼女のマンガを見たときに、少年の横顔が「えっ」と思うほどに美しかった。そして言いました。あなたは男の子を主人公にすべきだって。ごく普通の常識として考えても、女の子は男の子が好きだから、少女マンガの主人公が少女じゃなきゃいけない理由はない。主人公が素敵な男の子だったら、もっと人気が出るのに、と言いました。

私はフランスやアメリカをはじめ海外の少女雑誌もたくさん集めていたわけですけれど、そうした雑誌の表紙はほとんどアイドルの少年でした。だから我々に言わせれば、少女マンガの雑誌の表紙だって男の子がいい。編集部を説得するのは大変でした。編集部はそんなのとんでもないって、当時少女マンガの主人公は女の子が当たり前でしたから。

Q 当時闘われた編集部の人は男性ですか。女性ですか?

増山 編集部は男性編集者がほとんどで、完全な男性社会です。保守的な男の人の思想っていうのかな。新人作家には西谷祥子先生等の作品を見せて、こういうのを描けばいいんだよ、って。そうすると、わりとみんな素直に編集部の言うとおりに描くんですね。言う通りにしないと載せてもらえませんから。

当時の少女マンガ誌にはたくさんの制限がありました。竹宮はすでに表紙を担当する作家になっていました。あるとき、女の子が腕を上にあげてポーズを取っている、とても可愛らしい表紙を描いたのですが、編集部は描き直してくれ、というわけです。腋が見えちゃいけないからって。竹宮や萩尾が描き始めた頃は、キス・シーンを描くときは、唇のあたりをぼかして、唇と唇はけっして触れあわせない。そういう時代です。

我々は、それは違う、いやだと思いました。もちろんいちいち編集部と対立しますが、大泉に戻ればみんなで「出版社の人が言うことは違うよね、わたしたちのほうが正しいよね」と言っていました。こうした互いの意見に共鳴できる仲間がいたからこそ、なんとか頑張れたのだと思います。

Q 具体的に何が突破口になったのですか。

増山 とくに正面きって編集部と大喧嘩したわけではなく、黙々と頑強に抵抗し続けたわけです(笑)。

このエピソードはすでにいろいろな所で書かれているのですが、あえて繰り返します。「少女マンガ誌の表紙が女の子なんてもう飽きたよね」って言って、どうしたら表紙を男の子にできるかと考えたんです。そこで、中性的な人物を描いて……とはいえ誰が見ても少年なんですけどね、それを編集部に出すわけです。編集部は「なんだ、これ男じゃないか」って言うのですが、最後まで「いえ女です」って言い通して、結局それが載りました。次は百万歩譲っても少年に見える絵を描いて表紙用に出したんですね。当然、男の子はダメだよと言われるわけですが、また女ですって頑張って。「これ少女です」って(笑)。作品はすでにあるわけですから、それ以外は描きません。納品しましたからとつっぱって、それもぎりぎりで載りました。そういうところからの抵抗の連続です。

当時の私の頭には、編集部といえば敵という言葉しか浮かんできませんで(笑)。大声で喧嘩する、というのではなく黙って抵抗する。編集部は保守的な考え方ですから、最初はすごく嫌われたと思います。なんだあいつらは!って。完全に少数派でしたから。

こうして時間をかけているうちに、いい作品さえ描けば、それを受け止めてくれる読者は絶対にいる、というわたしたちの信念が通ってゆくわけです。ボールを投げたら、読者はすでに持てる力の限りで打ち返してくれたわけです。「こういうのを待っていた」って。今度は編集部が手のひらを返しました。編集部が認めてくれれば勝利したも同然でした。(石田美紀著「密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ>前史」洛北出版)

面白いことに、このインタビューでは、「風と木の詩」の主人公セルジュとジルベールを増山氏と竹宮氏の関係になぞらえている部分があるところだ。
Q 「風と木の詩」以降現在まで、男同士が演じる情熱的な愛という物語の型が綿々と受け継がれているいっぽうで、リアルな男性を描いていいないし、さらには政治的に正しいホモセクシュアルの表象でもない、と批判もされています。個人的には、この批判は一面正しくもありながら、この批判だけで問題が尽きるとも思えないのですが、もしジルベールが女だったら、読者は支持しなかったと思われますか。


増山 受け入れられなかったと思いますし、ああいう形にならなかったと思います。男女なら、やれ結婚だとか、ふたりで出て行った後に家庭を築くとかね。男同士ゆえの辛さ、切なさがありますし、それからセルジュもジルベールも子どもですから、しなくてもいい苦労をするわけですよね。大人の考え方できちんと動ければ、もうちょっとなんとかなったわけです。子どもがあれだけ愛に目覚めて、強烈に相手を愛してしまったらいったい何が起こるだろうか、ということだと思いますが、これは私の感想で、詳しくは作家に尋ねて下さい(笑)。

Q ある種の実験ということでしょうか。

増山 そうですね。男の子と女の子ならああいう展開にはなりませんね。それから、セルジュはやることなすこと竹宮にそっくりです。セルジュを見る度に、あぁ竹宮恵子がここにいるって思います。で、わたしはいつもそれにイライラしているジルベール(笑)。非常にジルベールの気持ちは良くわかります。セルジュはけなげだけれど、もう少しうまくやれば相手を幸せにできるのに。あれだけ一生懸命やっているのに、相手はちっとも幸せにならない(笑)。

ともあれ、「風と木の詩」はある作家がピークのときに全身全霊でもって描いたという迫力ある作品です。20歳の時に着想していますが、発表するまで6年ですか、待って良かったと思いますよ。画力が上がっているので、表現したいことをキチンと描けていますから。20歳の時では、あそこまでの表現は無理だったろうと思います。(石田美紀著「密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ>前史」洛北出版)

資料収集の困難さ

今回の資料探しでも、米沢嘉博氏の名前がたびたびあった。たとえば、別冊太陽「少女マンガの世界」(Ⅰ昭和20年〜37年)(Ⅱ昭和38年〜64年)などを見ても、マンガ全体を俯瞰して語る研究者がいかに少ないかが分かってきた。Ⅱの少女マンガの現在・過去・未来の後半にこう書かれている。
しかし、こうやって、二冊に並べられた作品の数々を見る時、そのほとんどが、現在、単行本で読むことのできない現実を知らされる。その時代時代に人気を博した作品だけでなく、永遠に読み継がれていくだろうと考えられた古典でさえ古本屋に頼るしかなくなっている。手塚全集でさえ、「黒人差別問題」が未解決の今、絶版扱いになっているのだ。ノスタルジーだけでなく、現在も古びていない数々の物語がちゃんと読める時代こそが、マンガの文化としての成熟ではないかという気もする。マンガで利益の出ている出版社は、そういう作品をそろえていくという形で、マンガに恩返しをすべき時が来ているのではなかろうか。

もちろん、この二冊に収録した数々の図版も、多くは個人のコレクションに頼るしかなかった。現代マンガ図書館など個人の図書館が頑張ってはいるが、少女マンガというジャンルがもっとも手薄であることは、想像通りだった。なにしろ膨大な数である。その中から、意図した作品、図版をうまく捜し出すことも難しかったし、結局、あきらめて代わりのものを入れた個所も少なくない。(別冊太陽「少女マンガの世界」Ⅱ昭和38年〜64年)

なお、手塚全集の絶版の話は、この本が出た1991年当時の話である。資料収集の困難さに発した米沢氏の発言は、森川氏の
森川 みんな読んでたものなのに、後から読めないということになってしまうのを防ぎたいという危機感を、米澤さんはお持ちで、むしろコレクターがいない種類のマンガを意識的に集められております。

マンガというのはあらゆる文化がそうであるように、玉石混交で、たいていコレクターはその宝石の部分だけを集めたがるんですが、米澤さんは「石がないと宝石も生まれない」という考え方の持ち主で、むしろその、ピラミッドの底辺の部分の厚さが頂点の高さを支えている。底辺こそ大事、ということを考えてたんですね。(抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」)

に合致する。とりあえず、「愛と欲望のマンガ道」補足情報は3回で終わる予定だったが、森川氏と米沢氏の関係と、なぜ米沢嘉博記念図書館設立に至ったのかを調査する「愛と欲望のマンガ道」補足情報・4に続けたい。
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