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抜き書き「ノーベル賞・山中伸弥 iPS細胞"革命"」(1)

10月21日NHKでNHKスペシャルノーベル賞・山中伸弥 iPS細胞"革命"」という番組が放送された。解説は、

今月8日、ノーベル医学・生理学賞受賞が決まった京都大学山中伸弥教授。生命科学の常識を覆し、体のさまざまな組織や臓器になるとされる「iPS細胞」を開発してからわずか6年という異例の速さでの受賞。挫折と失敗を繰り返しながら研究を続けてきた山中教授。ノーベル賞への知られざる舞台裏、iPS細胞による“医療革命”、生命科学に衝撃をもたらしたiPS細胞の全貌についてロングインタビューとともに伝える。
今回も興味深い話が多かったので、2回に分けて書き起こした。

<VTR>

NA(ナレーション 伊東敏恵) 生命の神秘に挑み続けた人類の歴史。その象徴、ノーベル医学・生理学賞。

ノーベル賞授賞者(ノーベル医学・生理学賞選考委員会 ヨーラン・ハンソン事務局長) シンヤ・ヤマナカ、細胞の初期化の発見に対して、受賞の栄誉を与える。

NA 今月、新たな一ページを刻んだのは、京都大学山中伸弥教授でした。細胞の初期化、それは生命科学の常識を覆す発見でした。たった一つの受精卵が60兆個の細胞に分裂し、形作られる私たちの体。いったん分かれた細胞は、二度と受精卵のような状態に戻らないとされてきました。しかし、山中さんは、まるで生命の時間を巻き戻すかのような方法を発見したのです。大人の皮膚などの細胞に、4つの遺伝子を入れ、受精卵のような状態に戻します。これが、iPS細胞です。iPS細胞には、神経や血液など、体の様々な細胞に生まれ変わる力があります。iPS細胞によって、医療に革命が起きようとしています。失った組織や臓器の再生、これまで治る見込みのなかった病気の解明や、薬の開発。飛躍的に進んでいるのです。

患者の関係者 奇跡が起こるかもしれないから、希望を持って、

(アメリカ サンフランシスコ)
NA  iPS細胞という独自の発想。

グラッドストーン研究所ロバート・メーリー名誉所長 髪の毛は薄くなったね。

NA その原点は、アメリカ時代に恩師から受けた言葉にありました。

メーリー名誉所長 科学者の成功の秘訣は「VとW」。長期の目標(Vision)を立て、がむしゃらにやる(Work)こと。

NA 山中さんはどのようなビジョンを掲げて、世紀の発見にたどり着いたのでしょうか。ノーベル賞・山中伸弥教授の語るiPS細胞の世界です。

<タイトル ノーベル賞・山中伸弥 iPS細胞"革命" >

<対談>(京都大学iPS細胞研究所)

国谷裕子 忙しいところ、どうもありがとうございます。

山中伸弥 とんでもないです。わざわざ京都までありがとうございます。

国谷 このたびは本当におめでとうございます。

山中 ありがとうございます。

国谷 50歳という若さでノーベル賞を受賞する、このiPSに対する責任というものもずっしりとあるかと思うんですけれども。

山中 これは結構大変です。やはり、僕が発する言葉、一言の持つ意味がですね、自分は何も変わっていないんですが、その言葉を受け取られる立場の方から見ると、ずいぶん違う影響があるかもしれないと思うと、これはもう本当に、大変だなと一番簡単なのはもうしゃべらない。根がこういうしゃべりですから、これはやっぱり大変ですね。

国谷 この27歳ですか、先生が基礎研究に入られてから、歩んでこられた道を、心の中で振り返られて、これはどんな道のりだったという考えがございますか。

山中 決して平たんではなかったです。一言で言うと、意外な実験結果に、振り回されて、もしくは意外な実験結果に導かれてここまで来たなと。研究を始めたときに、自分がiPS細胞の研究をすることになるとは夢にも思っていなかったですから。

<VTR>

NA 平たんではなかった、山中さんの道のり。そのスタートは、整形外科医でした。臨床医時代の上司、島田永和さんです。

島田 (カルテの絵を示し)これ、ぱっと見て足に見えます? つまり、こういうなんて言うか、これ、きっとかかとのつもりなんでしょうね。

NA あまり上手とは言えない足の絵。山中さんの書いた若き日のカルテです。

島田 漫画というか、なんだかよく分からない絵をいっぱい描いてましたね。これ、くるぶしだろうね。

NA 手術がうまくなかったという山中さんですが、患者への熱い思いがあったといいます。

島田 今の技術や方法で解決できない悩みを持った人に対する思いが何とかしたいなという思いは強かった。

NA 2年間で臨床医の道をあきらめた山中さんは、基礎研究の世界へと進むことになります。山中さんはどのようにして世紀の発見につながる発想にたどり着いたのでしょうか。

(大阪市立大学)
NA 23年前、山中さんが研究を始めた大阪市立大学です。山中さんがiPS細胞の研究に取り組む最初のきっかけを知る人がいます。

NHKスタッフ そちらは何ですか?

中村嘉宏 こちらはですね。山中先生にご指導いただいていた時の実験ノート、資料です。

NA 当時、山中さんのもとで教えを受けた中村嘉宏さんです。山中さんは、ある細胞に関する論文(「ヒトES細胞の樹立」)を手に、興奮して語りかけてきたといいます。

中村 ちょっとコピーして言って、コピーしていただいた当時のものです。これ、まあ山中先生の実験の原点といいますか、「このES細胞ができて、ぼくらもこんなことやってみたいと思へんか。ほんま、これすごいことやねん」と。そういうふうにね、私に熱く語っておられました。

NA 山中さんが強い関心を抱いたES細胞、一体どんな細胞でしょうか。人間の体はたった一つの受精卵が分裂して作られます。胎内で細胞が分裂するにしたがって脊椎、手足、目など、全く違う機能を持つ組織が形作られていきます。一つの受精卵は、200種類以上、60兆個もの細胞へと分かれていきます。これを分化といいます。分化の出発点にある受精卵、その受精直後の段階で中から取り出された細胞が、ES細胞です。ES細胞は、様々な細胞に分化することができます。いわゆる万能細胞です。ES細胞に薬や刺激を与えて、分化させると、網膜の組織、心臓の筋肉、神経など様々な臓器や細胞を作り出すことができます。1990年代後半、世界中でこのES細胞の研究が活発になりました。これを使えば医療に革命を起こせるのではないか。その一方で、山中さんは不安を抱えていました。ES細胞は、命の根源である受精卵を壊さなければ作ることができないからです。

 そういうことが倫理的に許されるのか。

NA 受精卵以外からES細胞のような万能細胞を作る方法はないのか。山中さんはある発想にたどり着きます。それは受精卵から細かく分化した筋肉や皮膚などの細胞から、万能細胞を作り出すというアイデアでした。いわば、時間を巻き戻し、成長した細胞を、受精卵に戻す方法です。いったん、分化した細胞が、元の道を戻ることはないと考えられてきた当時の常識からは、全く逆の発想でした。きっかけとなったのが、今回、山中さんとともに、ノーベル賞の受賞が決まった、ガードン博士の研究です。

ジョン・ガードン博士 彼との共同受賞はうれしいです。言葉にできません。

NA 今から、50年前、ガードン博士はカエルを使った実験で、世界中をあっと驚かせました。オタマジャクシから腸の細胞を取り出して、特殊な処理を施し、細胞分裂させました。当時、腸の細胞を分裂させても、腸にしかならないと考えられていました。ところが、細胞はオタマジャクシになり、カエルにまで成長したのです。なぜ、こんなことが起きるのか、山中さんは、こう考えました。腸の細胞の中に、実はあらゆる細胞になる遺伝子が存在している。ただ、腸以外の遺伝子が働かないようにカバーされ、眠っているだけなのではないか。オタマジャクシが生まれるのは、何らかの理由でカバーが外れ、受精卵のような状態に、戻ったからではないか。これが山中さんが考える初期化です。さらに、山中さんは、カバーを外して初期化する鍵は遺伝子にあると考えました。この着想をもとに、山中さんは自ら特定した4つの遺伝子を皮膚の細胞に入れました。すると、予想通り、初期化が起こったのです。iPS細胞の誕生でした。

ノーベル医学・生理学賞選考委員会 ヨーラン・ハンソン事務局長 細胞が分化していく過程で、遺伝子が働いているということは分かっていました。しかし、初期化まで可能だと予測した人は誰一人いませんでした。しかも、初期化がわずかな数の遺伝子の働きによって起きるとは考えもしませんでした。だからこそ、山中教授の発見は、衝撃だったのです。

<対談>

国谷 その当時の生命科学の潮流というのは、そのES細胞の分化を極めていくことにあったと思いますけど、先生は、そういった潮流の中で逆に、ES細胞から分化していくのではなくて、むしろ分化した細胞を初期化させるという発想に至った。それはどうやって。

山中 これは、もう苦し紛れの発想といいますか、やはり自分の研究室、初めて持ったのですが、37歳くらいの時で、全く無名の研究者で、ES細胞を研究するといっても、論文が1個か2個あるだけ、その人間が、これから独立して、生き残って、研究者として生き残っていく必要があるんですね。どういう研究をするか、ES細胞をしたいんだけれども、これは勝ち目がないと思いました。もう世界、日本だけでもたくさん先行する研究者がおられましたし、世界中を見たら、本当にたくさんの人が優れた研究されていますから、そこに後から参入しても勝てるわけがないと、思いました。最初から負け戦をするのは、これは勇気ではなくて、無謀なことに思えてですね。じゃあ、何ができるか。反対をやろうと。分化している細胞からES細胞を作ろうと。

国谷 留学された先の所長、メーリーさんが先生に研究者として成功したければ、大事なのはVとWだと、ビジョンとハードワークだと。研究者として、ビジョンを持つということは、容易ではなかったという時期もあったのではないですか。

山中 あの、ビジョンを言うのは簡単なんですね。例えば、やっぱり僕は最初から臨床医から研究に移ったんですけども、その最初からやっぱりいつかは研究、いったん患者さんの治療から離れるんだけれども、でもいつかはこの研究によって、一人一人の患者さんを助けることはできないけれども、一気にですね、何千人、何万人の人を助ける、助けたいんだと。いつかそういう研究に結びつく、そういう研究をしたいと。だからそのビジョンは最初からあったんです。

国谷 先生がいかにiPS細胞を作るビジョンを頭に描くことができたかと、このヒトES細胞が出たっていうリポート、なぜそこに光が見えた気がしたんですか?

山中 アメリカのジェイミー・トムソン先生が人間のESを作られて、これはもう一気にES細胞そのものが、人の病気を救う可能性がある再生医療であるとか、薬の開発であるとか、だから一気に自分のやってることは、このES細胞は、ものすごい医学に直結しているんだと、目からうろこといいますか、パッとこう、展開が開けたような気がしたのを覚えています。いったんすごい喜んだんですが、すぐに、これはでも、なかなか使えないと。やはり受精卵を使うという、大きな壁があって、だからいったんこう、おっと思ったのが、あー、もう、やっぱり難しいなと思っていて、やっぱりだめかという感じだったんですね。しかし、そんな中で奈良先端大というところで、自分の研究室を持つことができました。そういうチャンスを与えていただいて、もう一度自分の何をするのかということを考えたときに、やっぱりES細胞をやりたいという中で、ガードン先生の研究がよぎってですね、あっ、そうかと、分化していた細胞が受精卵に戻るのかと、そしたら、受精卵からではなくても、分化した細胞の時計を逆戻しして、ES細胞と同じような細胞がもしかしたらできるかもしれないな、これを自分の研究室のビジョンにしようと、より明確な、漠然としたビジョンは医学の役に立ちたいというのがビジョンなんですが、じゃあ、それを実際どう具現化するんだというところで、ES細胞を受精卵以外から、分化した細胞から作りましょうというのを、奈良で作った自分の研究室のビジョンにしました。

<VTR>

(奈良先端科学技術大学院大学)
NA 奈良先端科学技術大学院大学です。2000年春、山中さんは、ここでiPS細胞の研究を始めました。

研究員 こちらが当時、山中先生が研究されていましたiPS細胞の培養室になります。

NA 初めて、自分の研究室を持った山中さん、最初の仕事は一緒に研究に取り組む助手や学生を集めることでした。
世界のだれにもまねができないユニークな研究をしよう。山中さんの呼びかけに大学を卒業したばかりの3人の若者が集まりました。高橋和利さん、徳澤佳美さん、海保英子さん、実は3人とも遺伝子を専門に研究してきたわけではありませんでした。

山中研究室 高橋和利 万能細胞のこととか、全く知識がなかったので、(山中)先生が何をやっているか、よく分からないけど、この先生と一緒にいれば楽しく研究できそうだと思いました。

NA 山中さんたちは、どのように4つの遺伝子を特定し、iPS細胞を作り出したのでしょうか。ヒトの遺伝子は2万以上あります。その中から初期化に必要な遺伝子を探すのは至難の業です。研究を始めた当初は、必要な遺伝子が4つであることすら、わかっていませんでした。山中さんが手掛かりにしたのは、どんな細胞にも変わる能力をすでに持っているES細胞です。そこで活発に働く遺伝子、およそ100種類に注目しました。研究室に入ったばかりの学生たちが、その遺伝子の働きを一つ一つ調べることになりました。初期化と関係があるのかどうか確かめます。徳澤佳美さん、この時山中さんに実験のやり方を一から教えてもらったといいます。

徳澤 (山中研究室に)入ったすぐのころは、分子生物学の実験というのは、ほとんどしたことがなかったので、技術を習得するというのが、いっぱい、いっぱいだったので、(山中)先生の指示に従ってという感じだったんですけれども。

NA 徳澤さんは、100種類の中で特に活発に働き、初期化と関係するとみられるものの一つを任されました。この遺伝子を調べるために飼育したマウスは250匹。実験には2年近くかけました。しかし、徳澤さんが調べた遺伝子は、初期化とは関係がありませんでした。落胆する徳澤さんに、山中さんは声をかけました。「予想通りにならないことも大切な結果だ。次の実験に取りかかろう。」徳澤さんは実験を続け、徐々に成果を上げていきました。

徳澤 具体的な目標っていうのは、常に意識させられましたし、山中先生自体は、その先をずっと見据えてぶれなかったと思います。

(2003年夏)

NA 研究を始めてから3年。大きな危機が訪れました。

高橋 山中先生がメンバーみんなを自分の部屋に呼び集めて、ちょっとみんなに言いたいことがある。というか、言わなければならないことがある。実は今年の研究費、ほとんど使い果たしたという話をされたんです。今年は、積極的に夏休みをたくさんとりなさいと言われました。

NA このままでは、iPS細胞の研究がストップしてしまう。山中さんは、新たな勝負に打って出ます。その頃、国では、日本の将来を託せるような先進的な研究に、巨額な資金を出す制度を設け、研究テーマを募集していました。有名大学の教授たちがこぞって応募、競争率10倍の狭き門でした。
創立間もない大学の新任教授だった山中さんの挑戦。認められれば、異例なことです。
(再現ドラマ)
このとき、山中さんが説明した内容は、多くの選考委員にとって異色なものでした。受精卵を使わずに、体の細胞から万能細胞を作り出す。山中さんは自らイラストを用意しました。受精卵を破壊するES細胞の問題点を避けることができると力説しました。

選考の責任者 岸本忠三 大阪大学元学長 あっというふうな発想、やっぱりなかなか枠を超えたような、その時に常識として考えられないことを言うのは少ないですよね。言っても、どうせダメだと思うし、しかしこの人はその枠をある程度超えていたわけで。

NA 本当にそんなことができるのか、質問する選考委員に、山中さんが訴えました。

 大丈夫です。ラグビーをやっていました。体力には自信があります。

NA 山中さんには、何より気迫があったといいます。

岸本 結果が出るということは、ほとんどゼロと思っていましたけど、しかし、何か結果が出るし、この人が何かをやれば、この人がこれでやめてしまったのではもったいないという気持ちです。

NA 5年でおよそ3億円の研究資金を得た山中さんは、最新の解析装置を購入します。一つ一つの遺伝子がどんな場面で働いているのかを詳しく調べました。100種類だった初期化の遺伝子の候補は24種類に絞り込まれました。2005年春、山中さんは、いよいよiPS細胞を作る実験に取りかかります。実験を担当したのは高橋和利さん。山中さんのもとで初めて遺伝子の研究をするようになってから5年がたっていました。
高橋さんはまず皮膚の細胞の入った培養皿に、24種類の遺伝子を一つずつ入れていきました。仮にこの状態で初期化が起こらなければ、次は二つずつの組み合わせ、それでもだめなら3つと、組み合わせを増やしていきます。10種類必要なら、196万通り、膨大な組み合わせになります。

高橋 (実験当初は)不安な気持ちにはなっていました。その時に山中先生は、20年、30年かかっても成果が出ないかもしれないが、気にしなくていい。ずっと続けてくれ。僕がその間、ずっと雇ってあげるからというようなことを言われました。

NA その時の実験の記録です。遺伝子を一つずつ入れた24の培養皿では、全く変化がありませんでした。ところが、変化が起きた皿がありました。25番目の培養皿。実は高橋さんは、ふとした思いつきで24種類の遺伝子すべてを入れてもう一つ培養していたのです。

高橋 とりあえず(24種類の遺伝子)全部入れておけば、山中先生も納得するかなと思って。

NHKスタッフ どういうことですか。

高橋 いろいろな可能性を試した方が、研究というのは、いいと思うので。一個一個でダメな場合に、全部入れてもダメなのかと。そういうふうなことを、山中先生なら聞いてきそうな気もしていたので、それだったら、最初から入れてもいいんじゃないかな。

NA できていたのは、ES細胞によく似た形の細胞。不完全ながら初期化が起きていたのです。この結果が、当初、二三十年はかかると思っていた実験期間を一気に短縮することになります。24の遺伝子のうち、どれが初期化に関わっているのか、さらに実験を続けます。高橋さんがこの時立てた実験計画です。24の遺伝子のうち一つを抜いて細胞の中に入れます。それでも初期化が起きれば、抜いた遺伝子は関係ないことが分かります。逆に1つの遺伝子を抜いたことで、初期化が起きなくなれば、その遺伝子は初期化に欠かせないと判断できます。この実験を、24回繰り返し、iPS細胞を作るのに必要な4つの遺伝子を特定しました。山中さんはこう思ったといいます。

 こいつ、ほんまは賢かったんやなあ。まあ、一日考えたら、僕も思い付いたと思うけど。

NA 二三十年はかかると思われた、初期化の実験はわずか1年で終わりました。大学を卒業したばかりだった若者たちが、山中さんとともに、世界で初めてiPS細胞を誕生させたのです。

高橋 真剣に接してくれる先生に指導を受けたときに、僕も何か先生に、返したいというか、僕が先生に何か返せるとしたら、先生の理想を実現するために、メンバーの一員として、精いっぱいやることかな、と。そういう僕の気持ちも、25番目(の培養皿)に少しでもあらわれていたら、僕が携わった甲斐があったかなと思います。

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