夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

テレビから知識を得るにはテレビを書き起こすことしかない

漫然とテレビを見ていては漠然とした印象しか残らない

僕は、テレビと記憶にこう書いている。
書き起こすたびに思うことは、テレビというものはどれほど大切な情報を伝えていても、人間の記憶に残るのはほんの一部だということだ。その情報が膨大であればあるほど、相対的に記憶内容がおぼろげになる。YouTubeで見返せばいいじゃないかというが、漠然と見るのと文章として残っているのを読むのはまったく違う。もちろん、映像を文章に残すことはできない。だが、言葉は残すことができる。
記憶というのは、正しく鮮明に残すことには向いていない。「抜き書き」シリーズで試みていることは、できるだけそのテレビを見ていない人にも鮮明に伝えたいと思うからだ。CGや映像を文章にすることは難しいが、対談なら向いている。オンデマンドなどの放送局の商売を邪魔しているという人がいる。だが、タイトルだけで内容を知らずに有料でも観たいと思うだろうか。

他人の書き起こしは記憶の一部にしかならない

それなら、他人の書き起こしを待つのはどうだという人もいる。だが、それは本を読む事と同じだ。たしかに、苦労はいらないだろう。だが、それでは、本来の映像を見た記憶はよみがえらない。同じくテレビと記憶でも引用した、
教師と生徒、一番物を覚えるのに適しているのはどちらか。僕は、教師だと思う。人間は、目で読み、手で書き写し、口で話す。教師は、この三種類の動作をこなす。生徒は、目と手ぐらいなものだ。社会人になって、本を読むことぐらいはするだろうが、書き写すことまでしないだろう。だが、書き写す作業がなければ、知識として残らないのである。(ブログはスクラップブック)
眼で読むだけでは、記憶に残らないのだ。したがって、僕は本でもテレビでも必要と思えば、書き写したり書き起こす。これが、自分の頭に記憶を植え付ける作業である。
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