夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

週刊朝日「橋下記事」検証を毎日「WaiWai」検証と比較する

昨日(11月13日)、朝日新聞出版ホームページに週刊朝日の事件についての検証が載っていた。(週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解等について(1)週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解等について(2) )この中で、朝日新聞出版の篠崎代表取締役の記事が比較的今回の特徴をとらえている。

◯人権意識の欠如

 今回の記事について、「報道と人権委員会」から「出自と人格を強く関連づける考えは、人間の主体的な尊厳性を見失っており、人間理解として誤っているばかりか、危険な考えでもある」などと報道機関としての根幹を否定されるに等しい指摘を受けました。指摘のとおり、今回の記事に関して、週刊朝日編集部と弊社には、人権意識が極めて希薄でした。

 タイトルや、「橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」との表紙文字をはじめ、出自に関して橋下市長を攻撃する材料に使った本記事は、一貫して人権意識が決定的に欠如した差別記事でした。橋下市長を深く傷つけるばかりか、出自が人格のすべてを規定しているかのような趣旨は、人権抑圧と闘っている人々の気持ちを踏みにじるものであり、ジャーナリズムの仕事からかけ離れたものでした。被差別部落の地区を特定する表現は、関係する人々への差別を助長する記述でした。

 連載をスタートするに当たり、父親のことをなぜ書く必要があるのか、それが政治姿勢とどう関わるのかといった記事の根幹に関わる重要な項目について検討されておらず、企画立案当初から致命的な欠陥がありました。その結果、公人の全体像を描くという当初の趣旨とはかけ離れてしまいました。

記事の掲載は中止すべきでした。しかし、編集長、担当デスクは、父親のことについてはすでに他の雑誌で報じられていたこと、代表的なノンフィクション作家の原稿であるという思いがあったことが致命的な甘さにつながり、掲載中止の決断に至りませんでした。雑誌統括は記事の問題点を強く指摘したものの、結果として掲載を止められませんでした。

 企画から記事作成、校了という一連の経過の中で、人権意識を欠いていたことが最後まで尾を引くことになりました。社全体の人権意識の欠如が、社全体の危機意識の薄さを生み、そのことが発行の停止という決断に至らず、「連載中止」の決定の遅れにも影響しました。

 背景には、発行人と編集人を兼ね、週刊朝日について大きな責任と権限を持っている編集長が、強いリーダーシップを発揮できずに、個々のデスクが自分の判断で動いたりするなど、編集長が部全体を統率できなくなっていたことがあります。

 会社は記事の掲載中止、本誌発行後の回収など根本的な措置をとることを判断すべきでしたが、タイトルや表現の「おわび」にとどまり、対応の決定的な遅れを招きました。

 出版社として発行を止める損害・混乱と、人権を侵害する深刻さを考えたとき、すべてを犠牲にしても人権を守らなければなりませんでした。ジャーナリズムの使命で最も大事にしなければいけない人権を守る、差別をなくすという基本を踏みにじり、差別を助長してしまいました。

◯チェック体制の欠陥

 「報道と人権委員会」による指摘に、編集部のチェック体制の欠陥がありました。「見解」で明らかなように、編集部は企画書もないまま取材をスタートさせ、編集部全体で検討していません。編集長、複数のデスクでの企画内容の検討が致命的に不足していました。原稿を貫く危険な考えが、最後までチェックされることはありませんでした。

 原稿が届いた後、担当デスクは「秘匿すべき情報提供者の名前が入っていた」として、編集長に渡したのは校了日の前日でした。編集長にデスクが情報源を伝えないことはあり得ず、基本的な動作もできていませんでした。デスク間での原稿の相互チェックなどは行われず、編集長と担当デスクの二人だけで編集作業は進められました。

 原稿を読んだ雑誌統括は、社内でも多くの指摘があった点を編集長に対して修正を命じたにもかかわらず、担当デスクが作家の原稿であることで問題箇所を残したまま編集作業を進め、最終的に編集長も「これは佐野さんの原稿です。行かしてください」と押し切りました。編集長とデスクは作家のオリジナリティーを大切にするということばかりに気を取られ、人格攻撃の差別記事という自覚がなく、表現の問題との考えにとどまっていました。橋下市長の出自に関して、ほかの雑誌がすでに書いていることを理由に問題にはならないだろうと思い込み、自らチェックできませんでした。結果的に掲載を止められなかったことは、社としてチェック体制が機能しなかったためです。(「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解を受けて)

この人権意識の欠如チェック体制の欠陥という言葉はどこかで聞いた言葉だと思った。例えば、毎日新聞の「WaiWai」騒動があげられる。僕は、毎日新聞の「WaiWai」騒動は、新聞の「あるある大事典」というエントリーを書いている。その中で、今回のケースと共通する点を挙げると、
■チェック機能に欠陥
 「WaiWai」に不適切な記事が掲載され続けたのは、▽原稿が妥当かどうかをメディア倫理に照らして精査するデスク機能がなかった▽執筆陣が男性に偏っていたため女性の視点がなかった▽スタッフは外国人のみで日本人の視点が欠けていた――の三つの編集上のチェックの不在が直接の原因と言える。

品質管理体制の不在
 毎日新聞本紙の場合、紙面審査委員会や「開かれた新聞」委員会などを通じて、記事内容は常にチェックされるが、MDNには、そのようなシステムはない。担当記者が書いた原稿がそのまま掲載され、不適切な記事が見過ごされ続けた原因は体制上の欠陥にもある。

■記者倫理の欠如
 担当記者は「毎日新聞の信用を傷つけてしまうかもしれない」との認識を持ちながら、不適切な記事を頻繁に翻訳し、「元の記事の内容について責任を負わないし、正確さも保証しない」という断り書きを付けることを免罪符に記事を書き続けた。記者倫理を大きく逸脱したものだ。(検証チームの分析――要因 複合的に)

毎日新聞の「WaiWai」記事は、MDN(毎日デイリーニュース)という特殊な環境でチェックそのものがなかった。しかし、今回の週刊朝日の記事は、何人かのチェックはあったものの、編集長の思い込みでつっばしってしまった。これは、なぜ、日本のマスメディアは裏取りが下手になったかでも指摘したとおり、編集長の思い込み(仮説を立てるもの)とチェック体制(裏を取るもの)の分離である。これはまた、森口氏の誤報にも共通している。読売新聞「iPS細胞心筋移植」誤報の原因で7つの誤報の原因を引用したが、今回は3の確認不足と4のセンセーショナリズムだろう。

「橋下市長の出自に関して、ほかの雑誌がすでに書いていることを理由に問題にはならないだろうと思い込み、自らチェックできませんでした。」という言葉は、他の週刊誌と同様により過激な記事になっても、この程度は許されるだろうという人権感覚の麻痺が起きている。記者たちが、記事をものとして扱っているのではないだろうか。記事の向こうに人間がいるということを忘れているのだ。前項抜き書き週刊フジテレビ批評「メディアトラブルとジャーナリズムのあり方」の中で大石泰彦教授が言った、

記者やジャーナリストっていうのは、人に会うってことですね。これが基本にならなきゃいけないわけです。人を見るってことですね。それがちょっと、私は劣化しているんじゃないかなという気がするわけですね。
ということである。ものを扱っているならぞんざいでも構わないが、人間を扱っているのだから、常に人権を意識していなければならないのである。

ブログパーツ