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素人だから言えることもある

「萩本欽一」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・3)

(1)素人いじりの謎

関根勤氏は、こう言う。
関根 素人いじったのも、欽ちゃんが初めてじゃないですか?
あの、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」って(手を振り上げる)あるじゃないですか。あれ、3つ言うと、素人って、分かんなくなるんですって。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」と言って下さい。これが1つ目ですよね。
「おとうさん、元気よくね」って、元気よく言わなきゃいけない。…で、本番の寸前に「右手、上げようか」って言うんですって。
そうするともう、「どんと欽ちゃん!」って…。それを使ってたんですよ。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
素人いじりが面白いと感じたのはいつだったのだろうか。高田文夫氏との対談「笑うふたり」でこう発言する。
高田 萩本さんは70年代に入ってから『オールスター家族対抗歌合戦』の司会をなさいましたよね。実はあの番組は、僕がポロッと話したアイデアが元になってるんですよ。
萩本 ホント? 僕、あの番組で13年も食わせてもらったんだけど(笑)。
高田 あの頃はちょうど、てんやわんやさんが『家族対抗歌合戦』をやられてたじゃないですか。で、僕は塚田さん(放送作家の塚田茂)のところに弟子入りしたばかりで、先生と一緒に食事してるときに話したんですよ。「家族対抗歌合戦をタレントでやったら面白いと思うんですけど」って。そしたら「それだ!」って。
萩本 覚えてるよ。塚田先生がプロデューサーと一緒に僕のところに司会やってくれって頼みに来たこと。
高田 でも、司会の話を切り出したら、萩本さんが怒りだしたって聞きましたけど。
萩本 怒った、怒った。コメディアンに司会進行を頼むのは失礼だって怒ったの。
だって、司会やれなんて、お前はコメディアンとしての価値がないって言いに来たようなものじゃない。ちょうど僕はコント55号で頑張ってた頃だしさ。
高田 いまと違って、コメディアンが司会をやるっていう発想がなかった時代ですからね。
萩本 そうなの。だから、できないって言ったの。そしたら、目茶苦茶な司会でもいいから頼むって、朝まで口説かれてさ。
結局、嫌々ながら引き受けたんだけど、やったはいいけど、番組は案の定、目茶苦茶になっちゃってさ(笑)。
高田 でも、歌の紹介の途中でファンファーレが鳴り出したり、違う家族の名前を紹介したりとか、観ているほうは面白かったですけどね。
萩本 別に狙ったわけじゃないんだよ。だけど段取りなんて言葉とは無縁のところで、僕はそれまで生きてきたわけじゃない。だからとんちんかんになっちゃったりしたんだけど、それが逆に面白かったみたいね。
その『オールスター』が終わると、『スター誕生』のディレクターがすぐ僕のところに飛んで来て、あんな型破りの司会は初めてで面白いから、うちでも是非お願いしますって。また、朝まで口説かれて……。
高田 また、朝まで口説かれて(笑)。
萩本 結局引き受けちゃった(笑)。
高田 結構押しに弱いじゃないですか(笑)。
萩本 “イヤイヤ”言ってるけどさ、本音は声かけてもらえてうれしいんですよ(笑)。
高田 でも、そうやって“イヤイヤ”引き受けたから、萩本さんのあと、お笑いの人たちが次々司会をするようになりましたものね。
それまでは、司会というと専門の人がいて、その人たちの独壇場でしたけど、萩本さんのおかげで、門戸がコメディアンにも開かれましたからね。そういう意味でも、萩本さんの功績はかなり大きいと僕は思うんですよ。
それに、萩本さんもそれまではコント一辺倒だったのが、司会をやったのがきっかけでまた違うところで勝負できるようになったわけですよね。だから『オールスター』の司会は萩本さんにとっても一つの転機だったと思うんですけど。
萩本 そうなんだよ。考えてみれば、いまバラエティなんかで司会やってるの、コメディアンばっかりだもんな。
だけど、作り方という部分では『オールスター』は昔の浅草に似てたのね。スタッフは僕と出演する家族を本番まで会わせないし、打ち合わせもほとんどないの。
それまで、テレビの笑いというのは作る笑いだと思っていたの。さっき高田さんが話していたように、台本、演出、リハというように綿密に作り上げていくというね。
それが『オールスター』の場合は違ったの。作る笑いというよりも、作られていく笑いというかな、周りからジワジワとね。だって、計算外のところで笑いが起きるんだから、僕が何かをやるというのとはちょっと違うわけでしょ。
高田 雰囲気が笑いを生むっていうんですか、お笑いのプロの思いつかないところで笑いがドッと来るわけですよね。
萩本 うん。これが、お茶の間の笑いってもんなんだ、テレビの笑いなんだって教わったのは、だから『オールスター』が最初ですよ。……とすると、何だい、そこに仕向けたのは高田さんかい? こりゃまた、お礼を言わないと(笑)。
高田 そんな、滅相もないです(笑)。
萩本 ホント、感謝しなきゃ。僕は『オールスター』のおかげで素人の面白さを見つけるわけだからね。それで、何十年と食わしてもらったんだから、今度、菓子折り持ってお礼に行くよ(笑)。
高田 もう、そのお気持ちだけで十分です。
いま、素人の面白さを見つけたと言ってましたけど、何かきっかけとかあったんですか?
萩本 あるよ。番組に山形から来たおじいちゃんが出たことがあったの。地元の町内会で会長をやってる人だったんけど、マイク持つなり「本日は家族をお招きいただきましてありがとうございます」って挨拶を始めたの。それがおかしくてさ。
ほら、挨拶って、時とか場合によってものすごく笑えたりするじゃない。そしたらそのおじいちゃんが続けて「こうしてNHKに出られて、わたくし、生涯の幸せです」って言うのよ(笑)。
あの頃は僕だって、55号は低俗で下品だっていうんで出してもらえなかったから、NHK出たことなかったのにさ(笑)。
高田 生涯の幸せ、味わったことなかったのに(笑)。
萩本 そう。『オールスター』ってフジテレビなのに、おじいちゃんはテレビはNHKしかないと思ってたらしいのね。だからもう、NHK、NHKって連呼しちゃって、もう誰も止められない(笑)。
高田 それ、ちゃんと流れたんですか?
萩本 バッチリ(笑)
そのとき、ふと思ったの。僕が同じ台詞を言っても誰も笑わないだろうなって。そうすると、僕よりもおじいちゃんのほうがテレビのなかの笑いという意味では上なんだよね。
こりゃあ、素人の瞬発力的な笑いにはかなわないなと感じたわけ。
高田 なるほど、そこで閃いたわけですか。
萩本 ピカッと閃いたね。昔はよく、テレビで芸を見せろとか、もっと芸を磨かなければ駄目だとか言ったじゃない。僕は、それは違うとそのとき思ったの。
だって、例えばテレビで歌舞伎をやっても視聴率取れないわけでしょ。だけと『オールスター』は何の芸を披露しなくても数字が取れる。
なんだ、誰もテレビですばらしい芸を見ようと思ってないんだって気がついた。
極端な話、テレビに芸は要らない。芸はテレビで披露してはいけない。芸は舞台でやるものだという結論に達したの。
それで、ふっと気がついたら、僕はテレビで全く芸を見せなくなっていたんだよね。テレビで大人の芸をやったのは三回だけ。
高田 そこまで見きわめられるところがお見事ですよね。そこから、コント55号とは全く違う笑いをテレビで提供していくわけじゃないですか。
萩本 そうなんだけど、そんな偉そうなことを言いながら、何年も同じような事を続けているとこっちも飽きてくるわけ(笑)。素人の笑いにも慣れてきちゃうしね。
ちょうどそんなときに、高田さんの師匠の塚田先生に言われたんだ、「欽ちゃん、いつも最高に面白いものにしようとしていない?」って。まさにその通りだったの。それで行き詰まりを感じてたわけ。
でも、塚田先生が言うには、いつも面白いものを提供し続けると、見ているほうはそれよりももっと面白いものを次に望むというわけ。それをずっと続けていたら、面白い番組なんてこの世からなくなっちゃうと。
だから次に面白ければ、たまにつまらない日があってもいいんだって。それならテレビの視聴者も「今日はこの前よりも面白かった」って納得してくれるって言うの。
ああ、そうかって、その言葉で気持ちが楽になった。
つまらないがあるから、面白いがある。この言葉はテレビという業界を生き抜くうえで随分ためになったね。
高田 確かに、テレビは突き詰めていったら身体もアイデアももたないですよ。
萩本 その通り。テレビを見ている人は誰も僕のことを芸人だって思ってないわけだもん。
初めて園遊会というものに招かれたとき、僕のことは「芸人」じゃなくて「タレント」って書いてあったの。ああ、これが世間の認識なんだと、そのとき思ったわけ。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)

(2)語尾変化の謎

関根 萩本さんが、最初、フジテレビで、「何で、今、調子いいのに、7〜9時のゴールデンタイムをやらせてもらえないんだ?」って言ったら、当時、「この7〜9時はバラエティーはダメです。スポンサーがつきません」と。歌番組かドラマかドキュメンタリーでなきゃダメだと。それで、萩本さんが悔しがって、「ふざけるな」と。「俺、バラエティー、7時からやる」って言って。そのために萩本さんは浅草で、突っ込んでる時って、浅草ってべらんめえなんですよ。「てめえ、この野郎!」とか、「何やってんだ!」って突っ込みだったんですけども、これだと、お年寄りと子どもが怖がるからっていうんで、それで「やめなよ〜」とか「○○だよ〜」って柔らかくしたんです、わざと。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
お笑いがゴールデンタイムに進出できた理由にふさわしいエピソードだが、これを萩本氏本人の書いた本から探ってみた。「快話術」という本に「語尾を変えたら、テレビが変わった」という項目にこう書いてある。
この本では、日本語のしゃべり方についての話をするわけだから、まずはボクの言葉か、なんでこういうふうになったのかを話しちゃうよ。
ボクの話って、語尾に「よ」や「の」がよくつくじゃない。「ダメだよ〜」「そうなのよ〜」「バンザ〜イ、なしよ」「なんでそうなるの」って。
これは、ボクがテレビに出るようになったときに、自分なりに考えて、それまでとは意識的に変えて使った言葉なの。それまで、浅草の舞台に立ってたときは、「ダメだ!」「いい加減にしろ!」って、鋭い突っ込みを入れたのよ。
ボクが高校を卒業して、浅草の東洋劇場に入ったのは、昭和34年のこと。コント55号を結成したのが昭和41年。フジテレビで『お笑いヤマト魂』っていう初めてのレギュラー番組を持ったのが、それから2年後のことだったの。この頃って、身分や貧富や性の違いについての差別的な意識を1回転させて、笑いのネタにするのが一番ウケてた時代だったのね。だから、突っ込みも自然に厳しくなったわけ。「なにぬねの」が語尾にくるような緩い突っ込みじゃダメ。「……してね」じゃ、話がオチないもん。舞台ではダメだ!」「いい加減にしろ!」みたいな濁点や「らりるれろ」が語尾につく、スパッと切れるような突っ込みが必要だったの。
でも、テレビって、そういうわけにはいかないな、と思ったの。ストリップをやってる劇場とは違って、テレビは女の人も見てる。子どもだって見てる。「なにすんだ!」ってって、濁音で終わっちゃうとキツいから、「だ!」のあとに「よ〜」をつけることで、キツい言葉を緩和させようと思ったの。「なにすんだ(!)よ〜」なら、いいだろうって。
ボクがあんまり「の〜」とか「よ〜」とか言うから、当時の週刊誌に「萩本欽一はオカマだ」って書かれたこともあったけど、ボクは「の」や「よ」がテレビには必要だと思ったから、気にしないで、そのまましゃべり続けたのよ。
そしたら、テレビの世界が変わったんだよね。大きいスポンサーが、お笑い番組を買ってくれるようになったの。それまでは、お笑い番組のイメージって悪くてさ。商品に傷がつくかもしれないっていう理由で、スポンサーがつきにくかったのね。それが、突っ込みに「の」や「よ」をつけたことで、スポンサーが安心して番組を買ってくれるようになって、ゴールデンタイムでお笑い番組ができるようになったわけ。(萩本欽一著「快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方」飛鳥新社)
萩本氏は、「自分なりに考えて、それまでとは意識的に変えて使った言葉」とは言っているが、そのような思いをするには、きっかけが必要だったに違いない。男一人の発想では、観客の女性がどう考えてるまでを思い浮かばないからだ。その答えは、「欽ちゃんのダメをやって運をつかもう!!」の「コメディアンはもっと綺麗な服を着なさい!」という項目に書いてあった。
芸能界でスターになっていくプロセスって、本人にはあまり実感がない。気が付いたら、いつの間にかそう見られるようになっていたという感じでね。
コント55号の場合でいえば、そういうきっかけになったのは、フジテレビでやっていた「お昼のゴールデンショー」かな。最初はそうでもなかったんだけど、しばらくするとかなりな高視聴率を取るようになってね。そのときの金曜日の担当をやっていたのが常田久仁子さんという女性のプロデューサーでね。常田さんと一緒に仕事をしたのが、その後の55号にとっての一大転機だったな。
常田さんとは「お昼のゴールデンショー」の次に、「コント55号の世界は笑う!」を始めたんだけれど、テレビの世界で「欽ちゃん」のキャラクターを作ったのは、あの人だよね。
なにしろ、ほかのプロデューサーやディレクターさんたちとは言うことが違う。
「コメディアンはもっと綺麗な服を着なさい!」
最初に会ったときに、開口一番、常田さんはそう言ったんだ。口調は柔らかかったけれどね。
コントを演じているときの衣裳って、ダボダボのほうがやりやすい。あっちこっちに動き回ったりするからね。ところがあの人は、それじゃあダメって言う。
「あのね、アナタたちがいた浅草の舞台では、客席にいた男の人ばかりだったでしょうけれど、テレビは女の人も見てるのよ。女ってね、いくらコントが面白くても、格好が汚いんじゃ見てはくれないわよ」
そんなことは思ってもみなかった欽ちゃんたちは、思わず口をポカンと開けていたね。自分たちには、まったくない発想だった。
「アナタたちがやりやすいかやりにくいかじゃなくて、見ている人が気持ちが良くなるほうが大切なの。だから、綺麗にやりなさい。綺麗なお洋服を着なさい」ってね、まるで母親がさとすみたいに言うんだ。
常田さんにしてみれば、お笑いの連中は見た目が下品で汚いから、スポンサーが付かない。それではテレビ局の人間としては困るという事情もあったんだろうけれど、でもそれだけじゃなかったと思う。もっと何ていうか、身内の者が親身になって心配したり元気づけてくれたりするような、あったかい切実さがあるんだよね。
「それからね、スタジオに来たとき、おはようございますって、いつもそればかり言ってないで、もっと気を遣ったほうがいいわよ。今日の服よく似合ってますね、とか、あ、髪型が変わりましたねって。何かいい言葉を添えないと、女の人には好かれないわよ」
なんて、女性に対する挨拶の仕方から仕込まれたな。ホント、手取り足取りって感じだった。例えは合わないけど、それまでアンちゃん風な格好をしていたビートルズが、ブライアン・エブスタインにスーツを着せられて、ポピュラーになっていったみたいにね(うふっ)(萩本欽一著「NHK知るを楽しむ 人生の歩き方 萩本欽一 欽ちゃんのダメをやって運をつかもう !!」DHC文化事業部)

(3)「運」の謎

関根 ある時、萩本さんがどうも視聴率が上がらないと。「何か幸せになったやついないか?」と。何か、運が出てってると。
(一同-笑い)
関根 そしたら、「何か、ないか?」って言ったら、皇(すめらぎ)さん(欽どこプロデューサー)って人が「将来、結婚しようと思ったんで、マンションを買った」って言うんですよ。「それ、ダメだ」って言うんですよ。「分かった。欽ちゃん、俺、そのマンション、住まない」と。それで、証人を呼んで、川のとこ行って、その鍵を、バッと…。「俺は、住まない!」って言って。
千原 「どこまでやるの!」ですよね。
テリー いい時代だね。
関根 ただ、まあ、合い鍵はあるから。
(一同-笑い)
関根 そのマンションは、手放してないんですけども、一緒に暮らそうとした恋人は、失ったらしいですよ、やっぱり。それで、こっちに運が来たっていう、そういう、ちょっとね…、あのー、不思議なこと、言う方だったんで。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )
萩本氏は、誰かが幸せになると、そこに運がとられてしまうと考えている。例えば、欽どこの妻役に女優の真屋順子採用の時、
僕は55号でもう運を使っちゃってるから、番組に、運のない人を入れたの。
欽どこ』のお母さん役の真屋順子さんがそうだったね。お母さん役の女優を決める時、本人には会ってないです。ディレクターの一杉(ひとすぎ)さんにいろんな劇団やプロダクションからブロマイド集めてきてもらって、「この人はどういう人?」って一人ひとり聞いてて、真屋さんの写真になった時、一杉さんが「この人ね、『大奥』とかでお姫様いじめてるの」って言うから、「いじめてるの? でもこの顔、いじめてる顔じゃないでしょ」って言ったの。「もしこの人がいじめる役やってるとしたら、きっと何かの生活の都合とかでやってると思うよ。だってこの人にしてみれば、それって口惜しい、悲しいと思うもの。この人に今、のどかないい奥さんやって下さいって言ったら、この人、幸せだと思うよ。その幸せだって気持ちがキラキラするんじゃない? 決定しましょうよ」って。一杉さんが「でも、一回会ったほうがいいんじゃない?」って言うから、「会わなくたって、今までが辛かったんだもん、この人。もう幸せだらけになるよ、これからは。決定、決定」って僕言いましたね。
僕、選ぶ時、演技力なんか見たことないです。運で選びますから。だから不運とかって言うより、使ってない運を持ってきて、僕の番組で使ってもらうんです。だから順子さん、ウキウキして、本当にニコニコして、いい空気いっぱい作ってくれましたよねえ。(萩本欽一著/斎藤明美取材・構成「まだ運はあるか」大和書房)
この萩本氏の独特の運の発想について、欽ちゃんの決断というタイトルで書いたことがある。そこで引用した言葉、

 野球は最近ダメだ、元気がないって言われてます。でも、ダメだって思った段階で、もうダメでしかなくなるんですよ。僕は「ダメなところにこそ、運がたまっている」と思います。ダメなものはダメって、大人がすぐ壁を作っちゃうような世の中じゃ、子供たちも夢を持ちようがないでしょ ? 子供は大人に夢を求めていますよ。 ( 「知るを楽しむ・人生の歩き方」06年6月7月号/日本放送出版協会 )

踊る大捜査線」の脚本家で、萩本氏のパジャマ党に所属している君塚良一氏は、この萩本氏の運の考え方に対してこんなことを書いている。

「三つの運は同時に来ない」
はじめに耳にした言葉がこれだ。
大将が出演するすべての番組が高視聴率を取っていたころで、視聴率が高いということは番組内で流れるCM効果が高くなり、スポンサーもテレビ局も喜んでくれる。作り手の対象も自由に仕事ができるし、高視聴率というのはテレビに係るすべての人々を幸福にする。

ある番組の若いディレクターが、大将に照れながら告白した。
「今度、結婚することになりました!」
聞いた対象は喜ぶどころか、目を落とすと言葉を失ったように黙り、しばらく考え込んでしまった。ディレクターの困惑した横顔。
大将が困ったような顔をして、苦しげに呟く。
「……そうか……来週、少し視聴率が落ちるけどしょうがない。ここが踏ん張りどころだな……」
妙なことを口にしたのだ。
弟子になったばかりのわたしには何を言っているのか意味がわからなかった。結婚することは幸せなことだし、結婚すればこのディレクターはますます頑張るだろう。しかし、大将は予言のように「視聴率が落ちる」と言った。それどころか、こんな提案までしたのだ。
「このディレクターを少し休ませてはどうだ?」
ふつうに耳にすると、人の幸せをひがんでいる、妬んでいるとしか聞こえない。プロデューサーは、「あいつは頑張ってるから、替えるわけにはいきません」と提案を受け入れず、ディレクターは仕事を続けることになった。

しかし、大将の言葉は正しかった。
本当に視聴率が下がり始めたのだ。ディレクターはこれまで通りの仕事をしていたにもかかわらず。
「何で視聴率が落ちたと思う?」
大将がわたしに問いかけた。
「……はあ……」
わかるわけがない。
「編集がユルくなった」
じつはそのディレクター、いままでは編集が完成しても何度も何度も見直し、まわりの人間がもういいよと言うまでやり続けていた。
「彼は最近、どうだ?」
大将がスタッフを見回す。
「……まあ、たしかにいつもよりは早く帰りますね」
「そうだろ? いままでは一人で暮らしてたから、帰ってもすることがない。それで朝まで何度も編集を重ねてきたんだ。でもいまは、帰れば愛する奥さんが待ってる。だから、どうしても早く帰るようになってしまう。人間っていうのはしょうがないけど、奥さんができたときや恋人ができたとき、ましてや子どもが生まれたときって、早く家に帰りたくなるもんだ……」
大将の厳しげな顔はディレクターを責めているそれではない。人というもの全般に対して考察する心理学者のそれだった。
つまりディレクターはサボったわけではないが、いままでなら、もう一回と朝まで粘って見直していたものを、結婚したことで無意識に早く切り上げて帰るようになっていたのだ。
このちょっとしたことが視聴率に跳ね返ってくる。大将はそう感じ取っていた。


ほかにもあった。浮気をして家庭が崩壊寸前になっているプロデューサーが手掛ける番組の視聴率が良い。子どもや親が病気になったスタッフが参加している番組がヒットする。ところが、とても健康で爽やかなプロデューサーなのに番組はまったく当たらない。
大将の論理に当てはめると、どれも納得。いろいろなものが見えてくるようになった。
常々、大将はこう言っていた。
「神様は、ぼくたちに平等に運を与えてくれる」
創作の世界でもビジネスの世界であっても、人間が成功する・しないは運に左右される。
大将の言う三つの運とは、「仕事」「健康」「家庭(恋人)」。
神様は一人の人間に、この三つの運を同時に与えない。どれかを与えたときは、ほかの運を消してしまう。三つすべてが同時に来ることはない。三つすべてに幸福は訪れない。世の中、幸福だけに包まれた人はいないし、不幸のみの人もいない。人生は厳しく平等なのだ。(君塚良一著「踊る大捜査線」あの名台詞が書けたわけ/朝日新書)


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