夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

メディアはなぜ孤立化を好むのか

前項、「脳化社会とWii」でとりあげたように、現代社会は都市化し、「脳化社会」となっている。人間と人間がこれほど密集した社会を築いている時代はないはずだ。だが、都市化すればするほど、「パーソナル」という名のもとに孤立化の道を進む。一見するとメディアはその孤立化した人と人の関係をつなげるためにあるように見える。携帯電話がそうだ。友人たちと長時間のメールはいかにも「つながっている」ように思える。だが、そのことが返って家族や地域との縛り(いわゆるコミュニティ)を破壊している。

この人と人との関係にメディアが挟まることで孤立化することを僕は「子供が見えない!」で心理学者の小此木啓吾氏の理論に触れた事がある。小此木啓吾氏は「一・五の時代」と呼び、こんなことを言っている。

たとえばいままでの人と人とのかかわりを「二」という数字で表すと、現在の情報機械と人とのかかわり、コンピュータとのかかわりなどは「一+〇・五」つまり「一・五」のかかわりだと私は比喩的に表現しています。

「孤独」ということについて考えてみても、子供がひとりきりになる、あるいはひとりで自分の部屋にこもったりすると、文字通り一人きりで、昔は日記をつけたり本を読むなどしたり、自分の心の中でいろいろなイマジネーション、思考、思索、瞑想をふくらませていく一人だけの時間とか経験がありました。

それが二・〇か一・〇かという心の条件で暮らす時代でした。ところが現代の子供の場合には、父親・母親に叱られると、すぐ自分の部屋に入ってウォークマンに聞き入ってしまう、TVをつけて面白い番組を見る。最近だとコンピュータ・ゲームにふけることになります。いわば情報機械の特徴は、機械ではあっても、そこにはいろいろな人間的な情報がたくさんインプットされていて、それが一つの擬似的な人と人とのかかわりを代行してくれるという意味があります。そこで人とのかかわり以上に面白いインタラクションを経験させてくれます。そのなかに、ほんとうの人間はいないけれど、こうした情報機械と二人でいる、つまり一・五というわけです。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス

このメディアは、人工物だから自分の都合でON・OFFできる特徴がある。メールができなかった時代の 携帯電話は、相手の都合を気にしなければならなかった。だが、メールができるようになって、そんな相手の都合も関係なくなる。その瞬間、自分のパーソナルな空間がその分広まったような気分になる。そしてこの友達関係も簡単にON・OFFできる関係となってしまった。

そうなると、友達もメディアも同じことである。OFFされた友達は、なぜ関係が断ち切られたかを悩むようになるし、そのことを直接相手に伝えることもできない。一方、ONするほうは自分の趣味趣向があった人間のみと付き合うようになる。人間関係の輪は、自分とそれ以外の大変孤立した関係となる。このような現代人の心理構造を小此木啓吾氏は「山アラシのジレンマ」としてこう紹介している。

そもそもこの問題について精神分析学者がしばしば喩えに使うのが、ショーペンハウエルの「山アラシのジレンマ」の寓話です。山アラシというのは日本ではあまりなじみがありませんが、ドイツではとても身近な動物です。ある寒い冬の朝、二匹の山アラシが「寒い、寒い」と言っていた。そこで二匹が寄り添って暖めあいたいと思ったが、お互いにトゲがある。そのお互いのエゴイズムのトゲで相手を傷つけあって、「痛い、痛い」といろいろなトラブルが生じる。そこで離れて距離をとったけれど、そうなると寒くて耐えられない。しまいには適度に暖めあって、適度にお互いのエゴイズムのとげの傷つけあいに耐えるという距離を発見した。(小此木啓吾著「現代人の心理構造」NHKブックス
限られた空間の地域や家族、学校などではどうしてもとげのない適度な関係は保てない。メディアの発達は、その空間を世界規模に広げる一方、ひどく狭い自分の趣味にのみとらわれた奇妙な世界を作り上げた。自分の都合のよい世界、まさに自分の脳が作り上げた自分が主人公の世界、それが「脳化社会」である。
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