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素人だから言えることもある

失望の構造(悲しみが希望に変わるとき・4)

「誰でもよかった」の意味

最近、通り魔殺人事件が多発している。例えば、地下鉄東陽町駅前の事件。

19日、東京・江東区東陽町駅の前で通行人ら4人が男に刃物で次々と刺されてけがをした事件で、逮捕された元暴力団員の男が意味の分からない話をしている一方で、「男性を狙って人を刺そうと思った。誰でもよかった」などと供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。
19日、東京・江東区の地下鉄・東陽町駅の前で、通行人の男性ら4人が刃物を持った男に次々と刺されてけがをした事件で、警視庁は、殺人未遂の疑いで逮捕した元暴力団員の49歳の男を20日、東京地方検察庁に送りました。
これまでの調べによりますと、男は「自分の体内から『人を刺してみろよ』と聞こえた」などと意味の分からない話をしているということですが、事件について「男性を狙って人を刺そうと思った。誰でもよかった」などと供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。
男は19日の朝、現場近くの自宅から包丁とナイフを2本持ち出し、駅前の交差点や駅の出入口付近にいた30代から60代の男性らを次々と刺したということです。(NHKニュース 通行人刺し逮捕の男「誰でもよかった」)

2月のグアムの事件。

 【グアム=井田香奈子】グアムで12日夜、日本人観光客多数を巻き込んだ無差別襲撃事件に関して、地元捜査関係者は13日午後、知事公舎で記者会見し、状況を説明した。
 捜査当局によると、2人を殺害した疑いなどで逮捕されたのはチャド・デソト容疑者(21)。グアム警察のボダリオ署長によると、デソト容疑者は取り調べに対し「人を傷つけたかった」と話したが、その後は黙秘しているという。
 捜査当局は、共犯者や背後の組織はなく、デソト容疑者が単独で実行した犯行とみており、被害者の国籍などにかかわりなく無差別に殺傷したとみている。
 捜査当局によると、デソト容疑者は現地時間の12日午後10時20分ごろ、グアム中心部の繁華街にある歩道を乗用車で約90メートル走って歩行者をはね、食料雑貨チェーン店「ABCストア」に突っ込んだ。その後、ナイフを持ち出し、店内にいた客を次々に刺したが、警備員に取り押さえられ、駆けつけた警察官に逮捕された。 (朝日新聞デジタル「人を傷つけたかった」 グアム殺傷事件の容疑者 )

昨年12月のアメリカの小学校の乱射事件。

 【ニュータウン=中井大助、ニューヨーク=真鍋弘樹】米東部コネティカット州ニュータウンの小学校で14日朝(日本時間14日深夜)、20歳の男が銃を乱射し、児童20人を含む計26人が死亡した。容疑者は自宅で自分の母親も殺害し、乱射の現場で自殺したとみられる。幼い子ども多数が銃の犠牲になるという米史上でも例のない事件に、オバマ米大統領も「意味のある行動を」と銃規制に取り組む必要を訴えた。(朝日新聞デジタル米の小学校で男が銃乱射、児童20人含む26人犠牲に)

その犯人、アダム・ランザについて、MikSの浅横日記によれば、

 当局によれば、ランザ氏(20)は戦闘服を着て、わが国の歴史の中で最悪の学校乱射事件のひとつを実行した。彼は、彼の母が働いている小学校で子供20人と大人6人を撃ち殺した。その後、彼は自分に銃を向けたようだ。警察によると、それに先立って、彼は自分の母親も射殺していた。

 彼の短く終わった青年時代に、ランザ氏は、ネット上であれ他の場所であれ、ほとんど足跡を残すことはなかった。彼は、ニュージャージー州ホーボーケンに住む彼の兄ライアン――金曜日に数時間、この虐殺事件の加害者として誤認報道された――とは異なり、Facebookのページももっていなかった。

 アダム・ランザは、彼の高校の卒業アルバム、2010年のクラスのアルバムに顔を載せてすらいなかった。彼の写真が載るはずのところには「カメラ嫌い(Camera shy)」と書かれていた。その年に卒業した人々は、彼が卒業したとは思えないと述べた。

 現在コネティカット大学の二年生のマット・ベイアーや高校の他の同級生たちが思い出せることは、ランザ氏が社会的な状況の中で心中いかに気づまりだったかということだ。(銃乱射事件容疑者の素顔 [海外メディア記事] )

 このような無差別事件の犯罪者たちは、突発的でまわりの人間から見れば理解不能な事件だ。僕は、どうしても秋葉原の事件を思い出す。2008年6月に書いた「誰でも良かった」犯人は、誰でもなかったその他大勢の一人の中で、僕は孤立感でさいなまれた心境を考えた。

人が足りないから来いと電話が来る 俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ(毎日新聞・誰でもよかった:秋葉原通り魔事件/上(その1) 孤独な心情、サイトに)
彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった. 希望がある奴にはわかるまい(Nine Gates of Heaven in Hatena)

 「誰でもよかった」とは自分が誰かの代替品でしかなかったことを意味する。おそらく、秋葉原の犯人も派遣先の工場でそういう扱いをされてきたのだ。自分が自分であることを常に感じていればそういう答えは出なかっただろう。だが、彼らにはそんな発想はなかった。
 大切な人を亡くすということ悲しみが希望に変わるときでは、希望には「大切な人」が必要であり、大切な人の役割は、本人の承認欲求を満たす人間のことであることを考えた。つまり、これらの事件を起こす犯人たちは、自分を承認してくれる「大切な人」がいなかったのだ。希望どころか、自分の人生に失望してしまった状態だろう。「自分は誰か」「自分はどうあるべきなのか」自分で自分を否定してしまった彼らは、自殺する勇気もなく、他人を巻き添えにしなければ自分自身に対する悔恨を消化しきれなかったのかもしれない。

空洞を抱えた自分

僕は、大切な人を亡くすということでこう書いた。

大切な人を、その人個人に限定してしまうと、その個人が死ぬと、後を追ったり、自暴自棄になったりする。テロリストの発想は、いとおしい個人の死によって、世の中は全部だめだという発想だ。一方、誰にも大切な人がいるという発想を持つと希望が生まれる。

人間には、間違った方向に落ちている自分を正しい方向に導いてくれる「大切な人」が必要である。「大切な人」を持たない彼らは、なかなか他人を信じることができない。僕は、黒手塚ワールド「MW」の中で、映画「復讐するは我にあり」の今村昌平監督の言葉を引用した。

「復讐は神の業であり、人間がなすべきではない」という教えを、キリスト教徒である男は、百も承知しながら、肢体の律法にのみ従い、刑死を以て自己完結する。
犯罪のすべてを描くことで、私は現代と、現代人の存在の根を捉えようと思っている。
この男の内部は、空洞でしかないのではないか。
この男の中に、私はよるべない現代人の魂を見る。
使徒パウロの、ローマ人への手紙の中に、「私は、内に神の律法を認めながら、肢体には別の律法があって、心の法則に対して戦いをいどみ、肢体に存在する罪の法則の中に私をとりこにしているのを見る。私は何というみじめな人間なのだろう」とある。(今村昌平監督「復讐するは我にあり・演出にあたって」松竹)

今村監督の言う「よるべない現代人の魂」とは何か。そもそも「よるべない」とは、

身を寄せるあてがない。頼りにできる類縁の者がいない。孤独であり不安である。(Weblio辞書-実用日本語表現辞典-寄る辺ない)

僕は、この言葉の中に「三ない主義」との共通点を見る。現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で考えた「対話がない」「考えない」「希望がない」が現代人の空洞の正体なのだと思う。友人や家族がいても、それがただのモノと変わってしまっている自分がいるとしたら、それは自分の心の中に空洞が増えつつある証拠なのだ。

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変化への抵抗~なぜ誰も希望を求めないか

TPP問題を見ていると、日本とは今の状態を変化させることになんと抵抗の強い国民性なのだと思う。前項福島漂流と日本沈没(悲しみが希望に変わるとき・3) で、

誰かが変革してくれるのを待っている間は希望が生まれない事を示している。

と書いたり、「NHK×日テレ60番勝負」T部長ムチャぶりの理由クリエイターは今を否定する。サーバー(奉仕者)は今を維持する。で、現状に対しての果敢な変革への挑戦が必要だと書いているが、日本人の現在に固執する姿を見ていると、この国民性は、永遠に変わらないのかもしれない。テレビの作り方も同様で、あやとりブログの●テレビがつまらなくなった理由(氏家)で元TBSの氏家夏彦氏は、テレビ制作現場の管理職からの要求だという。

「視聴率をとれ」、「番組をハズすな」、「問題は起こすな」、「金をかけるな」という無理難題とも言える要求に応えるため、現場の制作者は少ない予算で確実に視聴率が見込め、問題が生じないような番組を作ろうとする。そうなると今まで誰もやった事のない冒険などできはしない。だからどの局もどの番組も視聴率が計算できる同じようなタレントを使い、同じようなひな壇に並べ(美術セット代が安いし、見やすいし、コントロールしやすい)、スタジオトークを展開し(リスクは少ないし、安い)、画面にはトーク内容をなぞる字幕スーパーをかける(自分の番組だけスーパーをかけずに視聴率が下がるのが怖いので…)。結局、元の番組企画が違っていても、見た目の印象はあまり変わらない番組ばかりになる。

また、そのブログの中では、小牧次郎氏の視聴率原因説も書かれている。

どの番組も放送翌日に出る視聴率のグラフ(1分ごとの視聴率をグラフ化したもの)を元に、どのようなシーンで視聴率が上がったか下がったか、どのタレントが話しているときに上がったか下がったかを分析し、視聴率が上がるシーンを増やし、視聴率の上がるタレントを多く使おうとする。例えば歌番組では楽曲の部分は下がり、スタジオのトークで上がる。これはどの局でも同じだ。となると歌番組は、できるだけ歌を少なくし、大物MCが絡むスタジオトークを多くしようとする。他にも例えば法律を扱う番組では、法律の解説部分は視聴率が下がり、トーク部分が上がる。したがってどんな番組でもトークの分量が多くなる、というよりトーク番組になってしまう。
スタジオトークを最も見やすくするセットが、いわゆる「ひな壇」だ。トークが上手いのはお笑い芸人、だから巧みなMCがひな壇に並んだ視聴率を獲れるお笑い芸人のリアクションを引き出してトークを展開するのが、最も視聴率が獲れるということになる。どの局がやっても同じになる。だから同じような番組しか生まれなくなってしまう。じつに明快な小牧さんの推論だ。

まあ、どちらにしても、朝から夜まで同じような番組が並ぶことになる。これなら、番組のタイトルなど誰も覚えなくて済む。僕は、かつて「守る方程式」というのを考え付いた。これは福知山脱線事故の時思いついたもので、観客の命を守ることよりも、時間を守ること、それは自分の勤務評定に響くので、結局自分の地位を守ることにつながる。

自分の地位を守る>時間を守る=鉄道会社を守る>乗客の命を守る(守るべきなのは自分の地位ではない)

と書いた。これを上からの命令「視聴率をとれ」、「番組をハズすな」、「問題は起こすな」、「金をかけるな」とすれば、この命令を守らなければ、自分の現在の地位が危なくなる。

自分の地位を守る>テレビ局を守る>本当に作りたい番組

ということになる。前項福島漂流と日本沈没(悲しみが希望に変わるとき・3) で、玄田教授の

幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」(「イチローと『希望学』」)

という言葉は「なるほどな」と思った。幸福というのは、今の地位を持続することにあるのだ。したがって、あるかどうかわからない「希望」のために今の「幸福」をなげうつ勇気など誰にもないのだろう

福島漂流と日本沈没(悲しみが希望に変わるとき・3)

このエントリーは、「大切な人を亡くすということ」、その続編「悲しみが希望に変わるとき」「誰もが大切な人に (悲しみが希望に変わるとき・2) 」の福島編である。

震災後2年の中折れ現象

今日、東日本大震災から2年目の3月11日である。しかし、なかなか復興のイメージが湧いてこない。それはなぜか。原発問題を抱えているゆえに、過去の震災と比較することができないからだ。だが、それが特殊だからと言って言い訳にしてもしょうがない。そこで、福島の現状からどうすれば希望を持てるか、それを探ってみよう。3月7日に放送されたクローズアップ現代「被災地1000人の声~震災2年アンケート~」で、兵庫県立大学准教授の木村玲欧氏がこんなことを言っている

木村さん: 「中折れ現象」というふうにいいまして、非常に頑張ってこられたわけですけれども、2年たって大体、頑張りもなかなか続かなくなってしまう。
こういう中折れ現象というのがありますと、意欲が低下してしまったり、コミュニケーションがあまりうまくいかなくなってしまう。
今回の調査でも、家族との会話の量が減ったですとか、大切なことを話せなくなった。
これは1人暮らしの方も、大家族の方も、仮設の方も、普通の自宅の方も違いはなく、大きなそういう傾向があったんですね。
やはり非常に難しい立場にあるんだというふうに思います。(被災地1000人の声~震災2年アンケート~)

2年たてば、希望が見えてくるものだが、先が見えてこない。それではどこまでがんばったらよいかわからない。地域の人と別れ、家族と別れ、級友と別れるにしたがって孤立感が深まっていく。それがアンケートの『戻りたいけど戻れない』という答えに表れている。まさに福島漂流とでも言えるのではないだろうか。

地域に残る者と地域から出て行く者が現れる話で思い出したのが、小松左京の小説「日本沈没」である。

日本沈没は日本漂流だった

小松左京氏は、「日本沈没 第二部」のあとがきでこう書いている。

そもそも昭和48年(1973年)に出版された『日本沈没』第一部を書きはじめたのは、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年だった。悲惨な敗戦から20年もたっていないのに、高度成長で浮かれていた日本に対して、このままでいいのか、ついこの間まで、「本土決戦」「一億玉砕」で国土も失いみんな死ぬ覚悟をしていた日本人が、戦争がなかったかのように、「世界の日本」として通用するのか、という思いが強かった。そこで、「国」を失ったかもしれない日本人を、「フィクション」の中でそのような危機にもう一度直面させてみよう。そして、日本人とは何か、日本とはどんな国なのかを、じっくりと考えてみよう、という思いで、『日本沈没』を書きはじめたのである。
(中略)
したがって、国を失った日本人が難民として世界中に漂流していくことが主題だったので、当初はタイトルも「日本漂流」とつけていた。しかし、日本を沈没させるまでに9年間もかかり、出版社がこれ以上待てない、ということで、「沈没」で終わってしまった。そして、「第一部 完」としたのである。(小松左京・谷甲州著「日本沈没 第二部」小学館・あとがきより)(追悼・小松左京(現実がひっくり返る年・5 )

小説の中で渡老人はこう言っている。

「いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……。これからはな……帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって……外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……それもええと思うよ。……それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の“おとな民族”に大きく育っていけるか……日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな“国”ぐらいつくるじゃろうが……辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚癡や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか……これからが賭けじゃな……。」(小松左京著「日本沈没・下」光文社文庫

小説「日本沈没」では、第二部で、国土を失った日本を浮島として立て直す派と、海外に移住する派に分かれる。

一つは、日本人には国土という集約されたよりどころが必要だとする中田首相の国家主義(ナショナリズム)。渡老人が言う「小さな“国”」とは、メガフロート(人工浮島)計画として実現されようとすることを暗示している。メガフロートでは500万人規模の日本人を沈没した日本列島の上に築こうというものである。たしかに、国土を失った日本人にとって新たな国土は希望の土地となるかもしれない。だが、しょせん、7000万人の難民に対して500万人では、結局混乱のもとになりかねない。
 もう一つは各地に分散した今こそ、それぞれの場所で日本人の本来持っている経験則から国家や土地に縛られない生き方を模索する世界市民主義(コスモポリタニズム)を主張する鳥飼外相。(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) )

僕は、そのエントリーで、こう書いている。

 「ホーム」を作るには二種類の考え方がある。(この場合、家族と言う「ホーム」ではなくて、所属する会社や国という大きなイメージだが)既存の大きな「ホーム」に所属するのか、自分が「ホーム」の核になるのか。世界中に散らばった日本人が、再びかつての日本の海上に浮島を作る。これは確かに壮大な計画だが、結局、また同じように従順な日本人が集まってくるに過ぎないだろう。それよりも、一人ひとりが世界各地に「ホーム」を作ることこそ、大切なのではないか。
  大企業に属することも、ブランドや外見にこだわっている点で、国家や土地に縛られている中田首相の考え方と同じである。多くの「愛国心」が陥っているのは、「誇り」とは取り戻すことだと思っていることだ。過去の栄光に依存し、過去のよい面だけを見て、悪い面だけは見なかったことにする。はたして、それで「ホーム」を築くことができるのか。むしろ、過去の「誇り」は捨て去り、新たな 「誇り」を自ら作り出す必要があるのではないか。(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) )

クローズアップ現代でも、木村氏がこう結論付けている。

やはり発想の転換というのが大切だと思います
1つは10年という長いスパンで、阪神・淡路も復興が続いたんですね。
まず住まいが戻り、地域が戻り、経済が戻り、そして最後に生活が戻っていく。
毎日毎日、もちろん目先のことで非常に大変な毎日なんですけれども、10年という、ちょっと引いて考えたときに、自分の人生をどんなふうにして立て直していけばいいだろうか。
その10年の中で考えると、毎日の苦しみの中で、少し戻ってくるんじゃないかと思います。
もう1つは、今回の田中さんのように頑張って地域でけん引されている方もそうなんですけれども、ああいう商圏みたいなものを、例えばインターネットみたいな形で、今後いろんな支援の方が増えてきますので、住まいだけじゃない、そういう地域とか経済の支援の方を上手に使って、戻ったそこの土地でもいいので、新しいお客さんや顧客層を達成しながら、なんとか生活を、日常生活を取り戻していってほしいと思っています。
新しいつながりが大切だと思います。(被災地1000人の声~震災2年アンケート~)

希望は人のつながり

希望学」の存在を知ったのは、2009年9月14日のクローズアップ現代である。そのことについては、「イチローと『希望学』」で書いた。改めて読み返すと、玄田教授のこんな言葉が目を引いた。

玄田教授は、「幸福は持続することが求められるのに対し、希望は変革のために求められる」の例をこんなエピソードで語った。「ある会社で何人雇っても、すぐ辞めてしまう」その理由は、2つある。ひとつは、「いくら仕事をしても仕事が終わらない。先が見えないから辞める」、もうひとつは、「この調子じゃ先が見えてるから辞める」というものだ。先が見えていても、見えていなくても辞めてしまう。どちらにしても、現状のままだと変革されない。変革することで、ようやく見えてくるものが「希望」なのだという。漫然と待っているだけでは、「希望」は現れない。「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」があって、初めて「希望」が生まれる。(イチローと「希望学」)

これなどは、いくら頑張っても復興できない福島の現状に重なっていないか。誰かが変革してくれるのを待っている間は希望が生まれない事を示している。自分たちが行動している中からしか希望は生まれないのだ。そして、「希望」のある人については、

 希望があると語る人には、自分には友達が多いという認識を強く持っている場合が多い。友達が少ないと答えた人に比べると、友達が多いと答える人は、希望があると答える確率がおよそ3割高くなっていた。友人という自分にとっての身近な社会の存在が、希望の自負に影響をしている。友達が少ないと自己認識している人は、希望も持ちにくいのだ。
 友達の存在はどのようなプロセスで希望に影響を与えるのだろうか。その詳細な道すじは、今のところ、まだわからない。ただ、友達という自分にとっての他者の存在が、希望を発見するための重要な情報源になっている可能性は高い。なかでも社会学者のグラノヴェクーが「ウィークタイズ」と表現したような自分と違う世界に生き、自分と違う価値観や経験を持っている友だちからは、自分の頭で考えるだけで得られなかった様々な多くの情報が得られたりするものだ(『転職』1998年)。友人・知人と希望の関係は、希望学のなかでこれから深く追求していきたいテーマだ。
 もう一つの希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。
(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ) (家族の期待は、子供の人生を変える)

友達、家族などの人間関係が「希望」に大きな影響を与えていることがうかがわれる。したがって、今回の震災で離ればなれになることで、希望を失うのは理解できることだ。だが、先ほど書いたように、

既存の大きな「ホーム」に所属するのか、自分が「ホーム」の核になるのか。(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) )

によって十分復興が可能なのではないだろうか。

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今こそ、高齢者にタブレット端末を

知らなきゃそれでいい時代は終わった

インターネットが普及して、今まで見えなかった部分が見えてきた。だが、インターネットに触れない世代は、何の進歩もない。これでは、彼らの貴重な経験を残すことはできないし、彼らの世代と若年世代の格差は広まるばかりだ。また、政府関係者も、マスメディアを通して告知するよりも、インターネットメディアを通した方が確実に情報をより安く伝えることができることを知っているはずである。今まで、スマホやパソコンをキーボードがあるからと言って避けてきた年代も、今のタブレット端末は、タッチメディアなので、より高齢者にやさしくなっている。これからは、インターネットによる選挙活動解禁が始まる。この機会に国を挙げて高齢者たちに、より安いタブレット端末購入の補助を進めるべきではないだろうか。無縁社会になってしまった高齢者のために横のつながりを確かめるチャンスでもある。

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Second Earthは神の視点

現在、1か月かけてtypepadからはてなbrogに引っ越し中だが、リンクを修正していると、エクスポート時にまた1エントリーが消えていることが判明した。そこでこのエントリーを復活させることにする。なお、Googleのアイデア募集企画はすでに終了している。

 読者ブロガーのsumimotoshoheiさんのエントリー「Google がアイデア募集中!」で、Google のアイデア募集企画プロジェクト 10100を知り、アイデアを応募した。応募した内容は、「Second Earth(もしGoogleが発売するとすれば) 」で、もし、これをGoogleが取り上げれば、大変、面白いことになると思ったからだ。その特徴は、

(1) 「Second Earth」はGoogle Earthのデータを活用し、そこに46億年の地球の歴史をシミュレーションすることができる。

(2) 「Second Earth」にはタイムマシンがついていて、好きな時代、好きな場所に行ける。

(3) 「Second Earth」は、地球の歴史を変えることができる。たとえば、人間が登場しない地球。恐竜が絶滅しない地球。コロンブスがアメリカ大陸を発見できなかった地球。

(4) 「Second Earth」ではユーザーは神になることができる。

 プロジェクト10100の実施理由には、

このプロジェクトを実施する理由

 今や、かつてないほど多くの人々が多くの情報を手に入れ、さまざまなツールを自由に活用し、優れたアイデアを実用化できるようになりました。それと同時に、あらゆる立場の人々が多かれ少なかれこのようなアイデアの恩恵を受けています。

こうした状況にあって、最近の調査では、必要最小限の物質的な豊かさの中で、個人がより幸せを感じるのは人の役に立つことである、というシンプルな見方が強まっていることが判明しています。

つまり、人の役に立つことは、自分の役にも立つ、ということです。

ここで生じる疑問は、どうすれば人の役に立てるのか、またどうすれば十分に役に立てるか、ということです。

Google にその答えがあるわけではありませんが、答えはいたるところに存在するはずです。研究機関や会社、大学で見つかるかもしれないし、見つからないかもしれません。

本当の答えは頭の中、つまり今まで見てきたものや考えをめぐらせてきたことの中にひそんでいることもあれば、物事のちょっとしたつながりを発見したときや新しい視点で古いものを見直したときに気づくこともあるのです。

今、誰かの役に立つようなアイデアをお持ちでしたら、ぜひ教えてください。Google では、できるだけ多くの人々の役に立つアイデアを募集し、その実現を支援します。独自のアイデアを応募することも、他のアイデアに投票することもできます。アイデアの最終選出は専門の選考チームが行います。

役立つアイデアを心よりお待ちしています。

 このような公募は、いわば自分の会社のPRのひとつとして考えられてきた。子供たちから、絵画を募集したり、恵まれない地域の人に物品を送ったりするのも、いわば社会的ボランティアをわが社も行っているというPRである。したがって、多くは一時的なイベントに終わることが多い。その意味では、今回もGoogle創立10周年の意義もあった。しかし、大きな事業はそんなきっかけがないとできないのも事実である。

 また、本当に優れたアイデアがあるのなら、わざわざ公募などせずに、買収することで自分のものにしてしまうだろう。まあ、Googleが単なるイベントではなくて、本気で取り組むとしたら、面白いのだが。

 実は、「Googleと神」に、このアイデア「Second Earth」の発想の理由が書かれている。

 CNET Japanのブロガー佐々木俊尚氏の著書「Google 既存のビジネスを破壊する」(文春新書)を読んでみると、最終的にGoogleは神になるという言葉に集約されます。ユビキタスとは「いつでも、どこでも、だれでも」使える技術ということですが、別名「神の遍在」と言われます。つまり、本当に手の届くところに欲しいものが存在するためには、その人が何を欲しがっているかを知らなければなりません。それぞれの個人情報を集めれば、究極の監視システムになります。そしてそれは神のみが許された行為なのです。したがって、人々が何を欲しがっているかを知っている神の存在を目指しているということになります。でも、そこまで許してしまえば、人間は退化するだけですが。

 このGoogleと神の関係を考えたとき、ひらめいたのが前項「Second Earth」である。 「Google Earth」を見ていると、Googleは神の視点を目指しているのではないだろうか。

 Googleの究極の目的が神の視点だとすれば、一家に一台、自分だけの地球があったって、いいじゃないかと思った次第である。

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クリエイターは今を否定する。サーバー(奉仕者)は今を維持する。

クリエイターの前向きの心

前項「バラエティーとジョブズ」で、日本テレビの土屋敏男氏とスティーブ・ジョブズの言葉を取り上げたが、現状を否定し、自分の思った方向に持っていこうとするバイタリティに興味を持った。ところで、タイトルのクリエイターとサーバー(奉仕者)については、米コラムニストのトーマス・フリードマンの言葉。日経新聞2つのサーバー 生まれる雇用、消える職の中で出てきた言葉だ。

 「今後の世界は2種類の労働者しかいなくなる。クリエーターとサーバー(奉仕者)だ」。米コラムニストのトーマス・フリードマン(59)は近著でこう言い切る。

この言葉から、クリエイターとサーバー(奉仕者)の違いについて、僕は最近考えている。


ネット時代の2極化と無駄の重要さ
なぜ、サーバー(奉仕者)は『生産の喜び』を感じないのか
『生産の喜び』と『消費の喜び』(なぜ、サーバー(奉仕者)は『生産の喜び』を感じないのか・2)

バラエティーの作り手もクリエイターの一人である。したがって、「バラエティーとジョブズ」でも同様だ。彼らは、今の状況で安住せずに、

その時にあるテレビバラエティーというものを、乗り越えよう、否定しよう、そうじゃないものを作ろう。(「1000人が考えるテレビ ミライ」の土屋氏の言葉)

この言葉は、ノーベル賞受賞者山中伸弥氏の言葉や、「はやぶさ」の川口淳一郎氏の言葉に共通する。

彼もたくさんの失敗をしたんですけれども、そういうのにあまりがっかりせずに、嬉々として実験をする。(抜き書き「ノーベル賞・山中伸弥 iPS細胞"革命"」(2) )

常に前向きで、悲観的な考え方がまるでないのです。「できる」ということを最優先で考える。たとえそれに多少の問題があったとしても、やろうとしていることができるのだから、それでいいじゃないか、ということです。マイナス面に目を向けるのではなく、プラスを見る。(映画「はやぶさ」の「失敗は成果だ」という話)

このような失敗にめげずに新しいものに挑戦しようとする性質がクリエイターの本質ではないのか。

エントリーシートスティーブ・ジョブズ

一方、サーバー(奉仕者)とは何か。決められた規格をきちっと守って変革を好まないもの。僕は、「コリコウな人々」としてこう書いている。

 このようなタイプは、細かいことによく気がつき、大きな失敗はしない。だが、大局に立つことは苦手だ。ほどほどに知能が高く、常識を守り、保守的だ。常識を打ち破る人間に対して、抵抗したり、足を引っ張る。官僚的、組織的ともいえる。また、目の前しか見えないので、自分の今の地位や生活を守ろうとする。「バカ」なら、先に不安を感じないが、「コリコウ」ゆえに、あらゆる情報から不安の種を見つけ出してくる。今、日本人の大半はこのタイプだ。

典型的な例がある。日経新聞で「人事が語る 落ちるエントリーシートとは」という就活に役立つ記事が連載していた。

――社会人になろうというのだから、最低限のルールは守らないといけない。ESの書き方でも常識を疑うものが珍しくないようだ。

この記事に対して、ゲームサイトのインターめっつおでは、

有料記事ですが、日経新聞に様々な企業の人事担当が集まって座談会をしている記事がありましたのでご紹介。言わば「こんなエントリーシートが来たけど落としたよ」集です。就活の第一関門であるエントリーシートでは「最低限の常識がない」と思われてしまうとダメみたいですね。記事を読みながら、スティーブ・ジョブズは落ちるだろうな、とか思ってしまいました...。(日経新聞

と書いていた。確かに、スティーブ・ジョブズといえば、日本を訪問した時、

日本では数社を訪問したが、どこに行ってもジョブズの態度はひどいものだった。相手はダークスーツを着ているというのに、ジーンズにスニーカーで会いに行く。日本の慣例で渡されたお土産は置いてくるし、ジョブズがお土産を渡すこともなかった。ずらりと並んだエンジニアがお辞儀をして製品を差し出す様子をせせら笑った。製品も、おもねる様も気に入らなかった。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅠ」講談社)( ジョブズとソニー(4)「スティーブ・ジョブズ」のソニー部分(1) )

というのだから、一般常識そのものがない。事実、ソニーの出井氏やストリンガー氏は、

「スティーブという男には、ご存知のように、自分の思惑というものがあります。天才かもしれませんが、なんでもオープンにしてくれるわけではありません。大企業としては、付き合いにくい相手なのです……悪夢といってもいいですね」

北米ソニーのトップ、ハワード・ストリンガージョブズについてこう語っている。

「一緒にやろうとすること自体、時間の無駄だと思います」(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅡ」講談社)( ジョブズとソニー(5)「スティーブ・ジョブズ」のソニー部分(2) )

とあきれている。日本ではまず、どれほど才能があっても常識を守らない人間はカットされてしまう。たが、それでは、想定外の発想はできない。日本の就活は、規格外の人間を排除することで同質化してきたのだ。そしてこれらの就職試験で生まれたサーバー(奉仕者)たちは、代替可能であるゆえに、よりコストの低い海外の労働者やコンピュータにとってかわられてしまう。

中島聡氏は、「皆が「空気を読み、流れに乗って」ばかりいたらこの国は沈む」の中で、

欧米に追いつくことだけを考えれば良かったころは、創造性よりも調整能力、専門性よりも汎用性、知恵や知識よりもコミュニケーション能力が重視された。高度成長期に学校・社会がそんな「ゼネラリスト」を育み、優遇するように作られて来たのは当然の結果である。このコメントにある通り、「ちゃんと予習をして来る、教室の前の方に座る、質問で授業を長引かせる」ような連中は「異質」であり、「皆がやっていることをその流れに乗って同じようにできる人」が重宝されて来た。
しかし、今の時代はもう違う。これからは、「正解が決まった問題をすばやく解ける」ゼネラリストではなく、「誰も解こうともしなかった新しい問題を自ら見つけ出して正解を探す」イノベーターが必要なのだ。
「出る杭は打たれる」「空気を読め」「長い物には巻かれろ」という言葉に萎縮し、「皆がやっていることをその流れに乗って同じようにできる人」ばかりの国には未来はない。
イノベーションには、人と違うことを失敗を恐れずに出来る「出る杭」が必須だ。「そんなもの誰も使わないよ」「そんなもの誰も作ってないよ」「絶対儲かるわけないよ」と回りの人に批判されても、信念を持って、何度失敗してもへこたれずに前に進み続けることの出来るガッツが必要だ。

先が見えない時代だからこそ、代替可能なサーバー(奉仕者)を生産するより、代替不可能なクリエイターを作っていかなければ、日本人そのものが消えてしまうだろう。

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バラエティーとジョブズ

土屋氏が、「1000人が考えるテレビ ミライ」の中で言った言葉で、

要するにその時、その時にあるテレビバラエティーというものを、乗り越えよう、否定しよう、そうじゃないものを作ろう。ということがあったから、テレビバラエティーというのは面白いと言われてきたと僕は思うんです。(「NHK×日テレ60番勝負」T部長ムチャぶりの理由)

これって、モノづくりの精神に共通なのではないか。たとえば、スティーブ・ジョブズが、コンシューマの意見を聞かない事、

「顧客が望むモノを提供しろ」という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか。それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。「なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、『足が速い馬』と言われたはずだ」って。欲しいモノを見せてあげなければ、みんな、それが欲しいなんてわからないんだ。だから僕は市場調査に頼らない。歴史のページにまだ書かれていないことを読み取るのが僕らの仕事なんだ。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅡ」講談社)( ジョブズ氏の最後の夢(ホームサーバの戦い・第102章 )

バラエティーだって、モノづくりだって、まだ見たこともないものを欲しがっているんだってことを忘れている。だから視聴者の言うことをそのまま聞いちゃいけない。もちろん、親たちはクレームをつけるだろう。それは、彼らが過去の番組を知っているから。だから、過去の番組と比較して否定する。また、ジョブズはこんなことを言う。

IBMマイクロソフトのような会社が下り坂に入ったのはなぜか。僕なりに思う理由がある。いい仕事をした会社がイノベーションを生み出し、ある分野で独占かそれに近い状態になると、製品の質の重要性が下がってしまう。そのかわり重く用いられるようになるのが“すごい営業”だ。売り上げメーターの針を動かせるのが製品エンジニアやデザイナーではなく、営業になるからだ。その結果、営業畑の人が会社を動かすようになる。IBMのジョン・エーカーズは頭が良くて口がうまい一流の営業マンだけど、製品についてはなにも知らない。同じことがゼロックスにも起きた。(ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブズⅡ」講談社)( ジョブズ氏の最後の夢(ホームサーバの戦い・第102章 )

テレビ局も同じことが起こる。まず、視聴率であり、スポンサーだ。それを維持するために営業ががんばる。彼らは作り手ではなく受け手だから、どうしたって、作り手のモチベーションが下がる。成功した番組を否定するよりも、あの番組のようなものを作れという。結局、作り手は手を抜き、冒険を恐れるようになる。新しい番組で成功することよりも、失敗しないことを望む。

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