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素人だから言えることもある

日本人の「雄々しさ」という精神論(精神論はやめよう・4)

現在、書いている「精神論はやめよう」シリーズでは、日本古来の「神風思想」にこだわることで、日本国民に復古主義を強いることになり、日本の未来は開けないのではないかという思いで書いている。ところで、いろいろ論証を求めてたまたま2つの文章を読んだ。それは、毎日新聞の4月14日の夕刊、特集ワイド「巨大地震の衝撃・日本よ! 神戸女学院大名誉教授・内田樹さん」と、中央公論5月号佐藤優氏の「大震災と大和心のをヽしさ」である。

政府対応が後手後手になる理由

内田氏は、
会長、社長がともに出張中に起きた震災。トップ不在の東電の対策本部は、首相官邸の指示を受けても原子炉格納容器の圧力を下げる措置を取らなかった。「日本の組織はホウレンソウ、とにかく報告・連絡・相談が義務付けられる。切羽詰まった状況でも現場での決定が許されず、下から判断を仰ぐ形で上に向かって次々に遡及(そきゅう)していく」。危機的状況では、人員も情報も限られているが、最も不足しているのが時間だ。「例えば、今なら選択肢が五つあるけど、1時間後に四つになり、2時間たてばさらに少なくなる、というような場合。今回はその典型で、一番無駄に使ったのは時間です。選択肢がなくなってもうこれしかない、という時になってやっと決まる」(巨大地震の衝撃・日本よ! 神戸女学院大名誉教授・内田樹さん
現場に権限がないため、権限を持つ管理職にゆだねられる。今回の震災では、政府にいくつもの会議が立ち上がったが、それはかえって障壁になり、時間ばかりかかってたいしたこともできずに次の事故を引き起こす。平時ならば、こうやって正しい方法を模索することが可能だが、非常時の一刻を争う時には向いていない。
非常時に求められるマニュアルを超えた判断や、臨機応変の措置を許さない風土が招いた事故。そう断じて、内田さんは続けた。「これは今回の現場の人たち個々の資質の問題ではないし、まして東電だけの問題でもない。マニュアル通りにいくのが平時で、そういうフローチャートを作るのがうまい人が出世するのが日本の組織。平時ぼけ、平和ぼけです」

右肩上がりの成長が続くことを前提に、利益の最大化を目指してつくり上げられた制度や組織は、後退局面になると一転してそのもろさを露呈し、機能不全に陥る。「確率的に言えば、いつか必ず失敗し、負ける時が来るのに、それを考えない。敗退局面で『負けしろ』を最小限に抑え、失敗が致命的にならない手だてを講じておくのが危機管理です。その発想がない。戦時中の『皇軍不敗』と同じです。『何があっても原発事故は起こらない』という主観的願望が、いつの間にか客観的な情勢判断に取って代わった」(巨大地震の衝撃・日本よ! 神戸女学院大名誉教授・内田樹さん

そういえば、日本の長時間労働が話題になるとき、権限が現場にないため、即断の決定がいつも遅れるという悪循環を生んだ。今回の節電により、この長時間の会議こそが無駄の温床であることを身にしみてわかればいいが。ともかく、この「戦時中の『皇軍不敗』と同じです。『何があっても原発事故は起こらない』という主観的願望が、いつの間にか客観的な情勢判断に取って代わった」こそが「精神論」ではないのか。

想定外か想定内か

想定外の理論はまた、福島原発の事故は「天災」か「人災」かの違いでもある。天災なら、責任はないが人災なら責任が生ずる。東電関係者が「想定外」を主張するのも、責任論を回避してであろう。

内田氏は、一貫して「人災」論である。内田氏は、佐藤氏の論文が載っていた中央公論5月号にも文を寄せている。その文「阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること」はWEB上で読むことができる。

一つはこの地震が「想定外」ではなかったことである。貞観地震(八六九年)は今回と同じく陸奥東方の海底を震源地とするM8・3以上の巨大地震である。このときは津波が平野部まで押し寄せ、千人を超える死者が出たと記録にはある。仙台平野には海が遡上した痕跡が複数回残っている。つまり仙台平野が水没するほどの地震と津波はほぼ千年周期で起きていたのである。

〇九年に東電から原発の安全性についての調査を委託されていた経産省の審議会は、貞観地震規模の巨大地震の再来可能性を指摘していた。これについて東電は「十分な情報がない」として対策を先送りした。現在の防災の水準では対処できない規模の地震の可能性が公式に指摘されていたのである。そうであれば、今回の津波について「想定外」だったという言い訳は東電にはできないはずである。「そんなに大きな地震は来るはずがない」という東電側の判断(というより主観的願望)に基づいて、「想定内」と「想定外」の線引きが行われている。「想定外」のものなど自然界には存在しない。「想定外」を作り出すのは「想定する主体」、すなわち人間だけである。(阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること)

一方、佐藤優氏の「大震災と大和心のをヽしさ」では、やはり「想定外」だったという。そもそも「大和心のをヽしさ」とは、明治天皇の和歌、
しきしまの 大和心の をヽしさは ことある時ぞ あらはれにける
から来ている。佐藤氏は、この和歌について
日本人の勇気は、日本国家に一大事が来た時に発揮される」という意味だ。筆者は日本人の「をヽしさ」を信じる。それではこの「をヽしさ」がどのように発揮されているのだろうか。それを理解するためには思想的な考察が必要とされる。(佐藤優の新・帝国主義の時代「大震災と大和心のをヽしさ」中央公論5月号)
として日本国家のいく末について論文が進められている。とりあえず、「想定外」について触れられた文章について引用してみる。
日本は地震大国である。地震に対する備えも十分になされていた。また、過去に津波で何度も被災した三陸海岸周辺に住む人々は、津波に対する万全の備えをしていた。しかし、その備えでは対応できない事態が生じた。今回、専門家から地震や津波に関して「想定外」という言葉が何度も語られた。これを専門家の「逃げ口上」ととらえるのは間違いだ。想定は、合理的推論によってなされる。その合理性の枠組みを超える事態が生じた場合には、当然、想定外の事態が生じるのである。

これに対して、東日本大震災マグニチュード9.0だったので、今度はマグニチュード9.4の防災システムを構築するとか、高さ10メートルの堤防で大津波に耐えられなかったので30メートルの堤防を造るかという合理的アプローチでは問題を本質的に解決することができないのである。人間の理性(合理的思考)でとらえることができるのは、森羅万象のごく一部に過ぎないという基本認識を持つことが重要だ。(佐藤優の新・帝国主義の時代「大震災と大和心のをヽしさ」中央公論5月号)

内田氏も、佐藤氏も自然に対して人間が想定をするという行為のむなしさがそこに現れている。内田氏が、「そんなに大きな地震は来るはずがない」という東電の「精神論」を批判しているのに対し、佐藤氏は、自然よりももっと大きな「大和心のをヽしさ」を求めているようだ。

「大和心のをヽしさ」とは何か

佐藤氏は、三浦綾子の「塩狩峠」の文章を引用してこういう言う。
危機に直面して信夫は、生死について時間をかけてよく考えた上で客車の下敷きになることを決断したのではない。「自分の命を投げ出しても、多くの人々の命を救うために誰かがやらなくてはならないことがある」と瞬間的に思い、行動したのである。思想即行動、行動即思想である。これが一大事のときに発揮される日本人の「をヽしさ」だ。福島第一原発で危険な仕事に従事する東電と関連会社の職員、自衛官、警察官、消防士たちは信夫と同じように普段は目に見えない日本人の「をヽしさ」を目に見える実践に転換しているのだ。(佐藤優の新・帝国主義の時代「大震災と大和心のをヽしさ」中央公論5月号)
ただ、これが日本人だけの特徴だとは思えないし、あらゆる国家でもそのような職種に従事している人間には、国民の期待によって命がけで戦っている人は多いはずだ。もちろん、「そんなに大きな地震は来るはずがない」「自分の命を投げ出しても、多くの人々の命を救うために誰かがやらなくてはならないことがある」を同列に「精神論」として扱うのは無理がある。だが、戦時中に、「精神論」に背中を押されてやらなくてもいい戦争を遂行してきた日本人には、このような「精神論」には敏感にならざるを得ない。

「何やってんだ」というマスコミ

不思議なことに、この2つの文章に登場する言葉に「想定外」という言葉のほかに「何やってんだ」という言葉がある。
内田さんが言うのは、ネット上の書き込みだけではない。「メディアもそうです。菅直人首相の失政は多いけど、たたいてるのはほとんど中央のメディア。一般の人は、内閣批判なんかより、実際に困ってる人をどうやって支援するかを考えてる」。何か起こるたびに「何やってんだ!」と糾弾するマスコミの言説も、生活者の実感とずれて映るという。「確かに官邸も東電も出来はよくないけど、それは日本人全体が国民的合意のもとに作り上げてきたシステムが機能不全をきたしているということで、今さら誰が悪いんだと言ってもしょうがない。むしろ、そうやって他責的な枠組みに問題を落とし込んで、ワルモノに全責任をなすりつける解決法が、システムをますます脆弱(ぜいじゃく)なものとしたんです

市民としての実感は脇に置き、記者会見では高みに立って指弾する。そうしたメディアの視点は「どんどん国民的な共感を得られなくなっている」と内田さんは警告する。「直後の新聞の社説をいくつも読みました。言ってることは正しいかもしれないけど、等身大の人間の感覚を感じない。書き手自身は前代未聞の事態だと感じているはずなのに、書いたものはありもののワーディング(言葉遣い)にはまっている。東電も官僚も同じ。だから、メディアの批判は目くそ鼻くそという気がしますね」。日本のマスコミに共通する思考回路と物言いを、内田さんは「東京一極集中の中でつくられた、ある種の地方語」と斬ってみせた。(巨大地震の衝撃・日本よ! 神戸女学院大名誉教授・内田樹さん

テレビで実況中継された福島原発事故に対する東電、原子力安全・保安院の記者会見を見て、情報の錯綜、遅延、わかりにくい説明に誰もが苛立ちと不安を覚えた。東電幹部や政府高官(国会議員、官僚)も頼りない。ここで「何をやっているんだ!」と非難するのは簡単だ。しかし、少し距離を置いて、冷静に考えてみよう。東電幹部や政府高官は現下日本のエリートである。日本のエリートはひよわなので、想定外の危機に直面して萎縮してしまっているのだ。このひよわさを筆者を含む、ほとんどの日本人が持っているという現実から出発しなくてはならない。合理主義、生命至上主義、個人主義の三原理で構築されたシステムの中ではどうしても人間はひよわになってしまうのである福島第一原発事故については、「責任追及よりも真相究明を」という姿勢を日本の社会と国家がとることが重要である。属人的に責任を追及されるような状況では、日本のエリートは無意識のうちに委縮してしまい、自己防衛に走る。そうなると真実が明らかにされない。(佐藤優の新・帝国主義の時代「大震災と大和心のをヽしさ」中央公論5月号)

面白いことに、2人とも、マスコミの「何やってんだ」は、現代日本人の構造の破たんから来ているというのだ。内田氏は、冒頭に引用したように、非常時になっても平時のままで対応したために、「非常時に求められるマニュアルを超えた判断や、臨機応変の措置を許さない風土が招いた事故。」であり、「マニュアル通りにいくのが平時で、そういうフローチャートを作るのがうまい人が出世するのが日本の組織。」のためだという。一方、佐藤氏は、「合理主義、生命至上主義、個人主義の三原理で構築されたシステムの中ではどうしても人間はひよわになってしまうのである」という。したがって、佐藤氏は、その「大震災と大和心のをヽしさ」の文末でこう締めている。
いまわれわれに求められているのは、想定外の自然の脅威を超克する思想である。この思想さえあれば、東日本大震災の廃墟の上で、新たな日本が再建される。大和心の「をヽしさ」によって、合理主義、生命至上主義、個人主義を超克することが日本国家と日本民族の生き残りのために求められる。(佐藤優の新・帝国主義の時代「大震災と大和心のをヽしさ」中央公論5月号)
ここでも、合理主義、生命至上主義、個人主義こそが日本人がひよわになった原因のように佐藤氏は思っているようだ。

精神は国家に宿るのか人間に宿るのか

しかし、改めて「日本的なもの」とは何か、これを機会に考えてみるのもいいかもしれない。「日本沈没第二部」で2つの論争があった。この小説では、日本が沈没して、7000万人が世界に飛散した時代である。

僕は「ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) で、

一つは、日本人には国土という集約されたよりどころが必要だとする中田首相の国家主義(ナショナリズム)。渡老人が言う「小さな“国”」とは、メガフロート(人工浮島)計画として実現されようとすることを暗示している。メガフロートでは500万人規模の日本人を沈没した日本列島の上に築こうというものである。たしかに、国土を失った日本人にとって新たな国土は希望の土地となるかもしれない。だが、しょせん、7000万人の難民に対して500万人では、結局混乱のもとになりかねない。

 もう一つは各地に分散した今こそ、それぞれの場所で日本人の本来持っている経験則から国家や土地に縛られない生き方を模索する世界市民主義(コスモポリタニズム)を主張する鳥飼外相。(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) )

>中田首相「外務大臣は、日本の誇りにこだわるべきではない、といいたいのかな。かつて日本のあった海域を、他国に蹂躙されることも耐え忍ぶべきだと」


鳥飼外相「そう考えていただいて結構です。誤解をおそれずにいえば、愛国主義(パトリオティズム)やナショナリズムも捨てるべきです。そんなもので共同体を維持できるのは、せいぜい三世代……おそらく百年までです。それをすぎて四世の時代になると、急速に現地化が進むものと考えられます。  

それよりは、利潤追求型のコスモポリタニズムに移行するべきでしょう。ユダヤ人はこの考え方で、二千年を生きのびました。必ずしも彼らのやり方にならう必要はないですが、早い段階で我々の文化遺産を形に残しておくべきではないでしょうか。

 (中略)

日本人の特異さ……均質でありながら内部に別組織を抱え込み、時には国家よりも帰属する組織の利益を優先する点は、コスモポリタニズムにこそふさわしいのです。国際主義(インターナショナリズム)や地球主義(グローバリズム)ではなく、ましてや愛国主義(パトリオティズム)や国家主義(ナショナリズム)でもない。そのような枠組みで、自分たちの行動に枠をはめるべきではないのです。 まして我々の同胞は世界中に分散しています。この好機をとらえてコスモポリタニズムに移行すべきではないでしょうか。総理が考えておられる『非定住日本人の再編計画』にも、同じ理由から同意できません。国家や土地に縛られることのない生き方を、これからの日本人は模索するべきなのです。

 (中略)

先ほどネガティブな部分ばかりを強調しましたが、コスモポリタニズムには別の側面もあります。宇宙(コスモス)から地球を俯瞰する視点を、この考え方は持ち合わせているのです」(小松左京・谷甲州著「日本沈没 第二部」小学館

僕は、この文章を受けてこう書いている。
大企業に属することも、ブランドや外見にこだわっている点で、国家や土地に縛られている中田首相の考え方と同じである。多くの「愛国心」が陥っているのは、「誇り」とは取り戻すことだと思っていることだ。過去の栄光に依存し、過去のよい面だけを見て、悪い面だけは見なかったことにする。はたして、それで「ホーム」を築くことができるのか。むしろ、過去の「誇り」は捨て去り、新たな 「誇り」を自ら作り出す必要があるのではないか。確かに、ゼロからはじめる苦労は想像を超えている。(ケータイホームレス・さまよえる日本人論(3) )
もちろん、日本人が世界に同化する必要はない。ただ、日本の独創性を信じるあまり、孤立化しても何のメリットもない。「精神論」による危険性を歴史から学んだうえで、日本の新しい形を模索してみることも必要だと思う。
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