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素人だから言えることもある

「制約こそチャンス」で乗り越えてきたバラエティーたち

制約こそがチャンスだ

前項「NHK×日テレ60番勝負」T部長ムチャぶりの理由で、土屋氏が語った言葉、

制約がいろいろあるって言われますけど、制約こそがチャンスだと僕は思うんですよね。

この言葉、どこかで聞いたような気がした。それは、「踊る大捜査線」の脚本家、君塚良一氏の言葉だ。

そして、その中で、テレビのさまざまなことを学んだ。
 どんな番組でも、野球中継と戦わなければいけないこと。
 視聴者は移り気であること。
 バラエティ番組だろうが何だろうが、どんなテレビ番組でも、自分の伝えたいメッセージを入れることかできること。
 作り手のセンスが番組にもろに出てしまうこと。
 テレビでやっていけないというさまざまな制約は、逆に創作のエネルギーになること
 笑いは、温かいということ。
 テレビには、可能性がいっぱい潜んでいること。(君塚良一著「テレビ大捜査線」講談社)(「踊る大捜査線」の作り方)

この「踊る大捜査線」の作り方では、「踊る大捜査線」がどのようにして生まれたかについて調べているが、今回は、バラエティーに絞って話していこう。

ゴールデンにバラエティーを持ってきた萩本欽一

今、テレビのゴールデンタイムはバラエティーが隆盛であるが、40年前はそうではなかった。今年正月に放送されたNHKの「新春TV放談」で、タレントの関根勤氏はこう証言する。

上田アナ 萩本さんって、浅草でコント55号って大人気だった訳じゃないですか。テレビのゴールデンで、何としてもバラエティーをという思いはすごく…。
関根 あったみたいですよ。
上田アナ 悔しかったんですか?
関根 悔しかったんですって。「どうして、お笑いがドラマとかに負けるんだ」「人気あるのに、何でスポンサーつかないんだ」って。
これ、萩本さんに聞いて、ホントかどうかというのは…。まあ、ホントだと思うんですけども、萩本さんが、最初、フジテレビで、「何で、今、調子いいのに、7〜9時のゴールデンタイムをやらせてもらえないんだ?」って言ったら、当時、「この7〜9時はバラエティーはダメです。スポンサーがつきません」と。歌番組かドラマかドキュメンタリーでなきゃダメだと。それで、萩本さんが悔しがって、「ふざけるな」と。「俺、バラエティー、7時からやる」って言って。そのために萩本さんは浅草で、突っ込んでる時って、浅草ってべらんめえなんですよ。「てめえ、この野郎!」とか、「何やってんだ!」って突っ込みだったんですけども、これだと、お年寄りと子どもが怖がるからっていうんで、それで「やめなよ〜」とか「○○だよ〜」って柔らかくしたんです、わざと。
上田アナ 欽ちゃんの、今、しゃべってらっしゃる言葉は、わざと。
関根 そうなんです。ゴールデンやるスポンサーがOKするために。そうやって、ゴールデンに進出したのが、萩本さんなんです。(抜き書き「新春TV放談2013」後半部分(2) )

なお、萩本氏の語尾変化については、「萩本欽一」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・3) で解明している。

土屋氏は、萩本氏をテリー伊藤氏とともに「演出の師匠」と呼んでいるという。

私の演出の師匠はテリー伊藤萩本欽一なんですが、この萩本欽一がよく言ってるのが「運は“不本意”の中にある」って事なんです。例えば萩本欽一は元々コメディアンになりたくて浅草に行って、それで坂上二郎さんに誘われてコント55号を作って大人気になった訳です。ところがその後ひとりになった時にコメディアンの仕事が全く来なかったって言うんですね。来るのは「やりたくない!」ってずっと思ってた司会の仕事ばっかりだったと。で仕方なくそれをやっていたら色んな発見があって「欽ドン」「欽ドコ」「週刊欽曜日」という30%番組を三本もやるようになってテレビ史唯一の視聴率100%男になる訳です。だからよく「やりたい事をやるのが素晴らしい人生だ」なんて事を言いますが、そんな事は真逆だ! と萩本欽一は言う訳です。(「やりたい事をやるのが素晴らしい人生だ」と言うが、それは真逆だ!と師匠・萩本欽一は言った ~新連載・T部長の「電波少年的“働く”暴論」)

実際、萩本氏は、高田文夫氏との対談でこんなことを言っている。

高田 でも、司会の話を切り出したら、萩本さんが怒りだしたって聞きましたけど。
萩本 怒った、怒った。コメディアンに司会進行を頼むのは失礼だって怒ったの。
だって、司会やれなんて、お前はコメディアンとしての価値がないって言いに来たようなものじゃない。ちょうど僕はコント55号で頑張ってた頃だしさ。
高田 いまと違って、コメディアンが司会をやるっていう発想がなかった時代ですからね。
萩本 そうなの。だから、できないって言ったの。そしたら、目茶苦茶な司会でもいいから頼むって、朝まで口説かれてさ。
結局、嫌々ながら引き受けたんだけど、やったはいいけど、番組は案の定、目茶苦茶になっちゃってさ(笑)。
高田 でも、歌の紹介の途中でファンファーレが鳴り出したり、違う家族の名前を紹介したりとか、観ているほうは面白かったですけどね。
萩本 別に狙ったわけじゃないんだよ。だけど段取りなんて言葉とは無縁のところで、僕はそれまで生きてきたわけじゃない。だからとんちんかんになっちゃったりしたんだけど、それが逆に面白かったみたいね。
その『オールスター』が終わると、『スター誕生』のディレクターがすぐ僕のところに飛んで来て、あんな型破りの司会は初めてで面白いから、うちでも是非お願いしますって。また、朝まで口説かれて……。(高田文夫著「笑うふたり―語る名人、聞く達人 高田文夫対談集」中公文庫)( 「萩本欽一」の謎(「新春TV放談2013」後半部分補足情報・3) )

萩本氏は、こうやって素人いじりの可能性を見つけたのだ。

コント55号の世界は笑う」VS「8時だョ!全員集合」

フジテレビの土曜8時に「コント55号の世界は笑う」が放送されていた時、裏番組のTBSではその対策が練られていた。プロデューサーの居作昌果氏はこう書いている。

 コント55号に対抗するには、何をすればいいのか。今では、坂上二郎萩本欽一とも個人として活動しているが、この二人のコンビ「コント55号」は、当時のテレビを席巻していた。萩本欽一は、天才的なコメディアンであると同時に、企画力、構成力を持つ“作家”であり、演出家でもあった。この欽ちゃんが思いつくままに投げるあらゆる球種を、ノーサインで、おまけに素手で、平気で受けとめてしまうのが、坂上二郎である。時代の申し子とも言える、強力なコンビだった。テレビをつければ、コント55号が飛び出してくる、という時代である。このコント55号の面白さのベースは、洒脱なアドリブのやりとりであり、ハプニングに対する軽妙な対応にあった。この当時のテレビの笑いは、アドリブ、ハプニング全盛であった。

 この時代の流れに逆らうことを、私は考えた。ハプニングとアドリブの「笑い」に対して、時間をかけて徹底的に練りに練り上げた「笑い」を中心とする、バラエティー・ショー番組を作ろうと思った。そして、コント55号に対抗させる主役は、「いかりや長介ザ・ドリフターズ」である。(居作昌果著「8時だョ!全員集合伝説」双葉社)( 今の日本のテレビで「全員集合」が作れない理由)

コント55号の世界は笑う」は1968年7月13日から1970年3月28日、「8時だョ!全員集合」は1969年10月4日から1985年9月28日まで放送された。TBSの圧勝であった。

「8時だョ!全員集合」VS「オレたちひょうきん族

さて、負けたフジテレビも黙ってはいない。当時の三宅恵介ディレクターは、

三宅 そう、81年の5月から9月にかけて、まず8本の特番をやったんですよ。「ひょうきん」は裏に「8時だョ!全員集合」っていう素晴らしい番組があったから成立したんであって、番組の作り方で言うと消去法でやったんです。それはなぜかというと、まずは番組の存在価値を認めてほしい、みたいなのがあって、裏にドリフターズの「8時だョ!全員集合」っていうお化け番組があったら、これは普通にやっても太刀打ちできるはずがない。そうすると、番組を認めてもらうためにはどうすればいいか、どうすれば番組の存在価値が出るか、と考えてすべて『8時だョ!全員集合』の逆をやろうと。「全員集合」が生放送だから、こっちはVTRでやろう。「全員集合」はドリフターズというしっかりしたチームがあって、オチに向かってチームプレイをするから、こっちは一人一人のキャラクターを生かした個人プレイでいこう。ドリフが計算された笑いを作るから、こっちは計算できないハプニングを狙おう、っていう。(「三宅デタガリ恵介、バラエティ番組作りに捧げた人生を大いに語る!」(後編)『本人』vol.11太田出版)( ひょうきん族も、「全員集合」を禁じ手にしていた(禁じ手・2) )

当時のプロデューサー、横澤彪氏は、爆笑問題との対談で、

横澤 お笑いは大好きだった。仕事としてはあんまり、好きじゃなかった。
2人 そうですか。
横澤 たまたまいなくなっちゃった、みんな。ロートルが、ベテランの方がね。やる人いないからお前やれみたいな。だから、大体いやいやですよ。半分はいやいやっていうか。
太田 いやいやだったんですか。で、しょうがない。じゃ、やるときにはやるけど今までのじゃつまんねえからみたいな。
横澤 そう。
太田 ドリフ、欽ちゃんがその前にあって。
横澤 こう、神のようにね、頂にいましたから、ね。
田中 そうですよね。
太田 それでちょっと、殴りこみみたいな意識もあったんですか。
横澤 ひょうきん族がね、やむにやまれずね、もう戦法ないんですよ。なぜかというとね、漫才師は、何人かしかいないわけ。今みたいにすそのないからね、何組も。それで、みんな忙しい。売れっ子ね、もう、稼いでんだから。みんな、聞いたのね。あなたたちはコンビとしてずっと漫才を漫才師としてやっていく気あるの?って言ったら、いやいや、すぐ辞めます、みたいなので。コケそうになっちゃった。ああ、そう、違うこと考えなくちゃしょうがないね。ネタ作るの大変なんだしね。みたいなね。だから、ドリフみたいにちゃんといかりやさんがね、こう、考えて考えてけいこして、ああいう立派な番組作ってくるというやり方はできないから、もう思い切って遊びましょうと。我々はスタジオを遊び場と考えますただし、不まじめダメよと、まじめに遊ぶんだよ、まじめに。この、まじめに遊ぶということが、ひょっとしたら、その、新しい…
田中 面白まじめだ。
横澤 うん、面白まじめという空気を呼ぶかもしれないね。というようなね。
キャラクターみたいなものをちょっと立てたほうがね、いいかなあ、みたいな。ドラマっぽくというか、ドキュメント性みたいなものなんだね。
田中 嘘がないんだ、本音だよ、って言う感覚は、アイドルとかも、もう、単に、お姫様のように、人形のようにいるんじゃないみたいなのが、全部一緒にみんなたけしさんが本音のトークと。
太田 そうすると、ひょうきん族から、割と楽屋落ちと言うかね、
横澤 はい。
太田 スタッフが出て、みんな出て、うちわ受けの世界がおおやけでも、あ、やって面白いんだ。自分たちが楽しんでいれば、視聴者も知らなくても、あっ、こいつら、楽しそうっていう我々そういう風に見ていましたね。
田中 そうだね。
太田 なんだか知らないけど、俺らは素人なのに、横澤さんの名前も知ってるし、テレビのプロデューサーの名前なんか知るわけないのに、三宅さん知ってれば、佐藤さん知ってればっていうふうに。
横澤 うん。
太田 状態になってるわけじゃない。すると、俺ら側の世代は、それがこう許されるっていう状態がテレビに。
そして、今度、次の世代を見てると、もう、新しいことではない。つまらないということになる。その後遺症っていうのは、
田中 ある。
太田 常にあるよね。
横澤 あ、そうか。
田中 どんなに。
太田 横澤さんのせいです。(抜き書き・爆笑問題のニッポンの教養「TVはいつまで笑うのか・横澤彪」)

今、流行っているから、同じ路線で行こうとするのではなく、そのまったく逆を狙ったら、そこにもチャンスがあったというのが、日本のバラエティーの歴史なのである。

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