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素人だから言えることもある

コメンテーターになるな、クリエイターを目指せ

 多くのブログを読んでいると、何が面白いのかわからないブログが多数存在する。たとえば、多くのリンク先しか紹介していないブログ。気の効いたコメントもなく、ただの感想だったりする。リンク数が多ければ、ランキング上位になるかもしれないが、本人は楽しんでいるとは思えないし、結局辞書代わりに使われているに過ぎない。このようなブログは、グーグルで探せばよいことであり、存在自体が消えていくのではないか。テレビのニュースのコメンテーターとしても同じだ。この人ならではのコメントがない限り、それのみで残っていくのは難しい。

 それならクリエイターとは何か。新しいものを生み出す力である。たとえば教育を例にとって考えよう。教師が先輩に教えられたとおりに授業をしていれば、その教師は何の感動もないし、子供たちはつまらないと思うだろう。教師は、自分なりに悩み、創意工夫して子供たちを納得させようとすれば、子供たちはそれを面白がるだろう。教育で一番教育されるのは教師自身である。生徒ではない。生徒は、教師を教育しているのである。

阿久悠が放送作家から作詞家になれたのは

阿久悠と山口百恵」で紹介した「夢を食った男たち」(毎日新聞社)にこんなエピソードがある。
 音楽番組の台本で、歌が入る部分は、曲名を書いて、原稿用紙一枚分の空白を作っておけばよい。歌が多くなると、まるまる空白で、原稿料をもらうのに気がひけることもある。

 それもあってだろうが、ぼくは、曲名、作詞、作曲、歌手を明記し、歌詞も律儀に書き写して、空白を埋めていた。

 空白が厭だと思うのは性格だが、それ以外にも理由がある。歌詞を書くことによって、カット割のイメージも湧くだろうし、アイデアを生み出すヒントもなり得ると思っていたのである。事実、歌詞によって触発されたイメージは書き加えていた。

 この無駄とも思える作業が、役に立ったと思っている。まず、新顔ばかりで占められて来た作詞家、作曲家の名前を知り、活躍の度合いを知り、作品の傾向を知り、また、歌詞を書き写すことによって、何が書かれて、何が書かれていないかを知ることになる。

 当初は無意識に書き記していたが、何回か重ねるたびに、今一つの時代のヒーローとして飛び出して来た作家は、誰であるのか、自然に名を覚え、馴染んで来た。

 テレビの音楽台本の説明が必要かもしれない。構成作家(放送作家の一つでドラマ以外の分野、バラエティー・報道・ドキュメント・お笑い・音楽など)の仕事は、MC(いわゆる司会、master of ceremony)のコメントと曲順などである。かつては、この構成部分を構成台本、歌詞部分を歌台本として二冊作成したものもあったが、現在ではほとんど一冊になっている。本番までに何度か印刷校正を繰り返す(第一稿や決定稿など)。第一稿では曲名のみで歌詞は書かれていないが(ADが歌詞カードからコピーした)別紙が貼ってあったりする。印刷製本のときにそれを見て打ち込む。

 構成作家は歌の部分はタッチしない。第二稿以降、ディレクターがカット割(歌詞ごとに複数のカメラを使ってカメラの動きを記号(UPとかT.Iとか)で詳細に表したもの。ディレクターの芸術性をそこで競った)を第一稿の台本に書き込んで印刷される。

 阿久悠がもし、普通の構成作家のように、曲名のみ書き込んで出稿したとすれば、作詞家としてデビューすることはできなかっただろう。

 手塚治虫が死ぬまで新人作家の漫画を読み、新たな闘争心を燃やしていくのと同じである。阿久悠もまた、死ぬ直前まで書き溜めた歌詞がいくつもあったという。彼らは絶えず、今の時代にあったものが何だろうと考え続けていったのである。冒頭に紹介した「夢を食った男たち」のあとがきにこんな言葉かあった。

 時代、風、このキー・ワードが好きである。

 風土という言葉がある。これから風俗と土俗とに分けると、どうしても土俗にブがあって、風俗は軽々しく扱われる。文学でも、歴史研究でも、そういう傾向がある。

 しかし、変わるもの、変わるものが産み落とした目に見えないほどの小さな時代の卵、それらを見つけたいと目を見開き、アンテナを働かせているのが、ぼくらの仕事なのである。創作も卵から孵化する。

1%のプロと99%の素人

 セカンドライフがそれほど面白いものではないのでリピーターが減っているという。訪問者たちは何を期待していたのだろう。毎日イベントを開くディズニーランドのようなものを期待していたのではないか。「お客さん」を喜ばすのがテーマパークの役割なら、セカンドライフはクリエイターが物を作っていく喜びを表しているのではないか。冒頭の教育の例を見るとおり、教師が「お客さん」では教育は成り立たない。教師が「クリエイター」になってこそ教育が成り立つのである。セカンドライフもまた、「土地は作りましたよ。どうぞ何でも作っていってください」といってるのに、訪問者は「何だ、まだ何にもできてないじゃないか。つまらない」といっているようなものだ。必要なのは「お客さん」に「クリエイター」の心を育てることである。

 本当のプロには、素人に「クリエイターの心」を育てる力がある。たとえば、手塚治虫阿久悠に感動的な作品がある。それを見た素人が、よし僕も漫画を書いてみよう、ぼくも作詞をしてみようと感じさせることなのではないだろうか。「鉄腕アトム」を読んだ読者が、ロボット研究者になったり、「ブラックジャック」を読んだ読者が医者になったりする例は有名である。

 しかし、プロにはなったものの、これは俺の思った世界とは違うぞと思って悩むケースもあるだろう。しかし、「クリエイターの心」を持てば、自分から創意工夫をして問題を打開していくだろう。それには、絶えず、社会に「アンテナを働かす」ことが必要である。わずか1%のプロの狭い世界の中で悩むより、99%の素人の目で世界を眺めていけば「なんだ、こんなことか」と思うことも多い。

 人生や生活でプロの価値なんか1%しかないのである。もし、その世界に閉じこもっていれば、何もものが言えなくなってしまう。素人の目なら間違ってもかまうことはない。傍若無人だ。そして新しいアイデアは99。


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